東京でカラヴァッジョ 日記

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池田遙邨《災禍の跡》を見る-「空の発見」(渋谷区立松濤美術館)

2024年09月30日 | 展覧会(日本美術)
空の発見
2024年9月14日〜11月10日
渋谷区立松濤美術館
 
 
池田遙邨(1895-1988)
《災禍の跡》
1924年、倉敷市立美術館
 
 池田は、岡山生まれで、京都画壇を代表する画家のひとり。
 
 震災の直後、近所に住んでいた洋画の鹿子木孟郎先生が、「池田君、これから関東大震災の跡を写生に行こう」と誘いに見えた。突然のことなのでその日はいけない。それであくる日、先生に同道して出発し、一ヶ月ほど東京に滞在しました。ずい分怖い思いをしまして、写生をしていると罹災者たちが瓦を投げつけてくる。こんな悲惨な目にあっているのにお前ら何事だ、というわけで・・・。
 
 二人は、焼け野となった隅田川を挟んだ下町の風景を写生して歩く。池田は約400点以上のスケッチを残す。
 
 そして、翌年、大震災をテーマにした「災禍の跡」を出したんです。この絵を描いている時はもう涙がぽろぽろこぼれてね。黙祷しながら描いた。これほど必死の思いで描いた作品はありません。
 
 しかし、この作品は画壇から排斥され、第5回帝展で落選する。師の竹内栖鳳からも、悲惨な場面ばかりに目を向けるのをたしなめられたという。
 
 
 書籍『関東大震災絵図』(2023年9月、東京美術刊)で初めて知った本作品。
 
 関東大震災100年を迎える2023年、本作品は、地元の倉敷市立美術館の7〜9月の所蔵作品展にて、震災スケッチ(同館所蔵170点のうち33点)や画稿とともに特集展示されていたようだ。
(なお、京都国立近代美術館でも同時期に、所蔵する池田の震災スケッチ156点を公開する特集展示を行ったようだ。)
 
 実見はまだ先のことかと思っていたところ、早くも機会がやってきたのはありがたい。
 
 
 
 夫婦とその子供(姉と弟)の4人家族が焼け野を歩く。ひどい顔をした4人。
 男の子が何故だか画面から浮き出て見える。ここだけコラージュ?と思うほどだが、白い輪郭線による感じ。屏風の折曲げ具合もあるのかも。
 ガラスケースの太い枠が画面中央を縦に遮り、鑑賞を邪魔する。細ければ気にならないだろうが、太すぎる枠。ケースを変えて欲しい。
 距離を取って角度を変えて、何とか全体を見る。空が巨大。画面のほとんどを空が占めている。17世紀オランダ風景画も空が大きいが、山が見えない東京下町の焼け野の風景は、それ以上に空ばかり。月が残る明け方の空。図版での印象と比べると、空の青色が明るめに感じる。犬も描かれるが、びっくりするほど痩せこけている。一晩ではすまなかったのか。
 「震災の悲惨さの表象としての巨大な空」をただ見つめる。
 
 
 《災禍の跡》の隣には、ともに写生して歩いた鹿子木孟郎の洋画大作が展示される。
 
鹿子木孟郎
《大正12年9月1日》
制作年不詳、東京都現代美術館
 
 鹿子木の作品は所蔵館で何度か見ているが、池田の作品と並べて見れるとは。
 空については、当時流通した写真なども参照したのだろう、震災画でよく見る感じの描写。
 
 
 本展の5章のタイトルは、「カタストロフィーと空の発見」。
 関東大震災に続いて、戦争で見るそれぞれの空。
 
中村研一の戦争記録画《北九州上空野辺軍曹機の体当りB29二機を撃墜す》1945年
香月泰男のシベリア・シリーズ《青の太陽》1969年(従軍時の演習の思い出を描く)
織田信大《東京戦災スケッチ》2点 1945年
濱家浩の写真《敗戦の日の太陽》1945年
佐田勝《廃墟》1945年
 
 以上の8点に圧倒される。
 
 そして、神戸淡路大震災も。
北山善夫《宇宙図 この世界の全死者に捧ぐ》1995年
 
 
 本展は、6章構成で、日本美術における空の表現について、現実的に描こうとはしなかった近世までから、西洋の影響を受けた洋風画・泥絵・浮世絵を経て、明治以降現代までの変遷を100点ほどの作品で見るものであるが、5章のインパクトにより、他章の印象はすっかり薄れてしまっている。
 コンスタンブル《デダムの谷》栃木県立美術館がよかったことを除いては。
 
 
 美術館1階の渡り廊下から見上げた空。


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