141年前、明治10年(1877年)2月19日、熊本城が炎上、21日薩摩軍の本格的攻撃が開始され、「西南戦争熊本城の戦い」が始まりました。薩摩軍は熊本城を包囲し、三の丸方向から攻撃、第13歩兵連隊長與倉中佐が戦死する程の激戦になりましたが、城内に一歩も侵入することができず、24日以降約3千の兵隊で囲み、薩軍主力は田原坂に転進。政府軍との約1ヵ月に亘るし烈な戦いとなりましたが、薩摩軍は同地の戦いに敗れ鹿児島に敗走、城山に籠り最後の戦いに挑み9月24日西郷隆盛が自刃し西南戦争は終了しました。この時、西郷さんは「わしは、官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ!」と述べたと伝えられています。清正公と西郷さんは約280年の時空の差があります。こりゃどぎゃんこつかな!清正公は、熊本城築城に当たり次のような事を述べたと伝えられ、①「熊本城は島津対処のため」は正に薩摩軍が攻撃②「天守閣前の銀杏の木が天守閣の高さに育ったら異変が起きる」は、西南戦争③「熊本城は西向きの城」は、薩軍主力は三の丸段山付近を攻撃激戦地となった。④「敵の攻撃があっても西出丸があれば100日は堪える」は、薩摩軍の攻撃、包囲から52日間籠城し耐えた。⑤ 「城北の守りで田原坂と植木山、勢隠山、吉次峠が大事」は、田原坂の激烈な戦いで決着がついた。これらを西南戦争に当てはめてみると、正に西郷ドンは、熊本城を築城した清正公と約280年の時空を超え戦い、難攻不落の城によって敗退した事になるのかも知れませんね。
白川橋の付近の河原で”植木市”が始まったバイ。古城堀端に住んどった頃、新町~高麗門の町内の路の両側に梅の木、キンカンが並べられ、学校の行き帰りにキンカンを食べてタイギャ”おごられた”コツば思い出した。ハッカ、正ちゃんゴマ、綿あめなんか色んな露店が並び、毎日楽しかったバイ。城親賢公が始めた市に花木類が登場したのは、花木の商いが盛んになったのは、おそらく1760年頃以降の事と思われ、人形等の玩具、紙さし、はな紙入れなどの小間物やお茶、煙草などの商品に交じって菊・かきつばた・梅・桜などの花木が売られていたようです。六代藩主細川重賢公(1720~85)は藩経済の立て直しや士風一新を推進するとともに、一般植物の栽培を藩士に奨励した。十代藩主細川斉護公(なりもり)(1804~60)も花卉盆栽を好み、園芸を奨励したこともあり、当時園芸は最盛期を迎え、芍薬、菊、花菖蒲、松、山茶花、椿、つつじ、万年青、欄など花卉盆栽の新種の育成と逸品を創ることが盛んでした。このころには毎年二月に植木市が行われていたようです。そうした園芸家の努力によって生み出されたのが、肥後椿、肥後芍薬、肥後菖蒲、肥後菊、肥後朝顔、肥後山茶花のいわゆる肥後六花です。現在のように会場を固定せず、数日間の会期で転々と移動して行われていました。新1丁目(2月1日)、水前寺駅通り(2月11・12日)、高麗門(2月15日~17日)長六橋(2月21・22日)、藤崎宮前(3月1日)等の計13ヶ所で開かれていました。杉、檜、桑などの山林用の苗、他に榎、松、椋の木なども売られ、特に高麗門の植木市は有名でした。
“新町”は、明治10年の“西南の役”で激戦地となり、町の多くが焼けたり、水没したりしたばってんが、戦後再び卸・小売業、料亭が建ち並び、通りには朝市が立ち賑わいを見せとったとタイ。ばってんが第2次世界大戦後、だんだん衰退、職人さん達が働いた工場の多くは、郊外へ移転、また平成28年4月の熊本地震で大正、昭和レトロの家屋は倒壊しました。しかし新町を代表する駄菓子屋さん、玩具屋さん、漢方薬の店舗、肥後象眼の技術等“古き良き城下町”を味わう事ができるタイ
あ~た知っとったね!今日2月2日は初午大祭、熊本城稲荷神社は参拝客でタイギャー賑わっとったタイ。1588年(天正16年)、加藤清正公が肥後の国主として入国するにあたり勧請した神社で、清正公は神使である2匹の狐(霊狐)を連れてきて、居城となる熊本城の守り神とした。ご祭神は、生活のご加護・将来良き方向に導く”白髭大明神”だそうです。この神社の正面に”2匹の狐”が鎮座しているのを見たこっあっとですか? 「2匹の霊狐は、兄弟大明神」と言われ、次のようなの伝説があると武将隊の”せいしょこさん”が言いよんなはった。「昔、霊狐は大阪石山城に住んでいたが、石山合戦で住処を失い各地を流浪、長浜で加藤清正を見かけ、将来名君になると見込んで陰ながら守護した。清正の肥後入国と共に熊本へと移り、祇園山(現花岡山)の八枚岩に住んだ。熊本城の工事に際し、祇園山の岩も切り出されたが、八枚岩では白狐が妨げて採掘ができなかった。自ら陣頭指揮をとっていた清正が八枚岩で休息をとると、夢の中で八幡神が現れ「この岩の下には白狐がいる。その白狐に石を貰いなさい」と告げた。清正が岩の下へ行き「なぜ自分たち築城の邪魔をするのか、石材の採掘の妨げはやめよ」と言ったところ、白狐が姿を現し「自分は長浜から君の御供し陰ながら守護してきた兄弟大明神です。この石材は築城には不適切なので採らないほうがよいでしょう」と告げ、清正は大変喜んで、兄は祇園山にて肥後国の繁栄を守り、弟は茶臼山に移って城を守護するようにと言い、兄を清藤大明神(肥後国を守護)、弟を緋衣大明神(熊本城を守護)と名づけたと言われています。