今年7月8日の故安倍晋三元総理の銃撃事件に端を発した「世界統一家庭連合(旧統一教会)」に関する高額献金問題、献金をした被害者のため救済法が国会会期末ぎりぎりで成立しました。
最初に日本維新の会と共同提案した立憲民主党は、最後の最後までまで修正案にこだわり、なかなか結論を出しませんでした。
最終盤になり、ようやく賛成することになり、法案は賛成多数で成立しました。本当に格好つけるだけの野党第一党。
反対したのは日本共産党、そして、れいわ新選組。特に共産党は旧統一教会にとって標的のはずなのに何故反対するのでしょうか? わかりません。れいわはいつもの通り何でも反対するのでここは問題外。
これで一歩前進なのでしょうが、法律が制定されて、一件落着となるのでしょうか?
一宗教団体だけ厳しく罰しても、憲法上の信教の自由もありますので、人の心の中まで法律で縛ることはできません。これからも手を変え品を変え、似たようなことが起きるような気がします。
翁はよくわかりませんが、そもそも多額の献金、寄付、お布施をすれば自分の問題が解決できて幸せになれるのでしょうか?
もしその信仰の対象となる神様、仏様あるいは教祖様が信じるに足りるのであれば、献金、寄付、お布施が例え1000円でも百万円でもご利益は一緒のはず? 要は信仰心の有無ですね。やはり信仰心=献金額なのでしょうか。
一千万円、いや一億円出した人だけが救われるなんて、そんな不平等で無慈悲な神様は、そもそもおかしいですよね。まして、無価値な壺を買わせたり、家屋敷を売らせたり、借金までさせて毟り取る、もはや宗教とは言えません。悪徳商法そのもの。
また、金額に応じてご利益が決まるのなら、貧しい人は信者にはなれないということになります。
昔から「阿弥陀の光も金次第」とか「阿弥陀も銭ほど光る」などとも言われているように、阿弥陀仏の御利益も賽銭の多少に影響される、信心でも金銭の威力がものを言うのでしょう。
古いことわざに「長者の万灯より貧者の一灯」というのがあります。
その由来は
「阿闍世(あじゃせ)王授決経」に見える話から。
紀元前五世紀ごろのインドでのこと。マガダ国の阿闍世王は、あるとき仏になれるように、お布施として、祇園精舎から王宮までの道に何万もの灯をともしました。それに感激したある貧しい年老いたは、ものごいをしてわずかなお金を手に入れ、自分の食べものの代わりにたった一つだけ、灯りをともします。すると、王の灯りの中には消えてしまったものがあったのに、彼女の灯は、夜明けまで消えなかっのでした。(引用:コトバンク)
このことから、「長者の万灯より貧者の一灯」、単に「貧者の一灯」とも言われています。
貧しい者の心のこもったわずかな寄進、喜捨。形式や金額よりも真心つまり信仰心が大切であるということの教えです。
この例え話にあるように、お釈迦様は、高額な寄付、寄進より、例え、少額でも良いから真心込めて行った行為はそれはそれで尊いことだと仰っしゃっています。
結局のところ、「お金の話が出たら詐欺?」と疑うことが、一番、それ以上信じてはいけません。
まぁ、そんなこと皆さんわかっちゃいるけど止められないのでこんな大事になったのでしょうな。クワバラクワバラ。
なお、余計なことですが、仏教では、お布施をする人を「旦那」と呼びます。良く奥さま方がご主人を「ウチのダンナ」と呼ぶのは、ご主人は毎月きちんとお布施をしてくれる人なのでしょうね。納得。
さぁ、宗教団体の高額献金問題は一応なんとかケリがつきました。これから庶民の暮らしを守る政治をお願いいたします。
えっ、防衛費の負担? 聞いてないよー。
翁のいつもの戯言です。どうぞご放念ください。
終わり