欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となった(タイ・フランス領インドシナ紛争)。翌年に日本軍の介入で講和が成立し、これによってタイは旧領土のほとんどを回復できたため、日本への協力姿勢を強めた。
1941年12月8日の真珠湾攻撃の日、日本陸軍はタイ王国にも侵入した。当時、タイは中立を宣言していたが、日本はタイを枢軸側の同盟国とする事と、タイ領を経由してイギリス領マレーに侵攻する事を意図していた。日本の計画ではすぐにピブーン政権から進駐同意を得るはずであったが、実際には同意獲得までにはしばらく時間がかかってしまった。交渉の間に、少年兵による義勇軍を含むタイ王国軍及び警察と日本軍との間で戦闘となり、双方で数百人が死傷した。
バッタンバン‥‥‥12/8未明 第15軍と近衛師団がバッタンバン県(現カンボジア領バタンバン)に越境入国。抵抗なし。
チュムポン‥‥‥12/8朝 第143歩兵連隊の第1歩兵大隊が上陸。
ナコンシータマラート‥‥‥第143歩兵連隊の第3歩兵大隊と第18飛行連隊を輸送した3隻の輸送艇が12/7夜のうちに沿岸数キロ地点に停泊。
パタニ‥‥‥第25軍の2番目に重要な目標となった。
プラチャップキリカン‥‥‥タイ王国空軍基地が有る。第143歩兵連隊の第2歩兵大隊が12/8、3時に上陸し警察の抵抗を抑え市街を制圧。更に航空基地ちかくに上陸し包囲。対し、空軍と警察が共闘して翌日の正午まで持ち堪えたものの、政府より停戦の通達を受け降伏。死者は日本側発表115人、タイ側発表217~300人超え。↑「同盟国タイと進駐日本軍ー[大東亜戦争]期の知られざる国際関係ー」吉川利治 著
サムットプラカーン‥‥‥近衛師団第3大隊、12/8早朝に上陸。
ソンクラー‥‥‥第25軍(山下奉文大将麾下)の主要目標となった。12/8早朝上陸。
スラタニ‥‥‥第143歩兵連隊第1歩兵大隊中の1個中隊が12/8早朝沿岸の村バン・ドンに上陸。スラタニに入城したところ警察や一部市民の抵抗にあう、午後には武装解除。タイ側死者17~18人、他詳細不明。
日本とタイの停戦後、日泰攻守同盟条約が締結される事となった。条約では、アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。1941年12月21日に公布され、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。↑「1億人の昭和史 日本の戦史7 太平洋戦争1」
この間、日本軍の計画を予想していたイギリス軍も、開戦直後にタイ領南部へ侵攻しタイ警察と交戦していたが、日本軍の到着で敗退した。さらに条約締結を知ったイギリス及びアメリカ軍が、1942年1月8日からタイ国内の都市攻撃を始めたため、タイ政府は1月25日に英米に対して宣戦布告した。
これによってタイは実質的に枢軸国の一員となり、その報復としてアメリカ合衆国は、国内のタイ王国資産を凍結した。ロンドンのタイ王国イギリス大使は宣戦布告を通達したが、ワシントンDCのアメリカ合衆国大使セーニー・プラーモートは宣戦布告の通達を拒否し、アメリカで自由タイ運動を組織し、対日レジスタンス活動を開始した。↑セーニー・プラーモート
アメリカ合衆国はタイ王国へ宣戦布告を出す代わりに、セーニーの反日レジスタンス活動を支援した。セーニーはアメリカ合衆国を後ろ盾にして、タイ王国の反日保守派貴族を取りまとめ、アメリカ留学中のタイ学生をアメリカ合衆国戦略諜報局(OSS)との任務に任用しつつ、自由タイ運動を組織した。
イギリスとは相互に宣戦布告を交わしたものの、同時にイギリス在住のタイ人によって反日レジスタンス運動を組織。当時ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学していたプワイ・ウンパーゴンやラムパイパンニー王妃(ラーマ7世王妃)と皇兄スパサワットウォンサニット・サワットディワットらが中心となり展開した。
タイ国内の摂政府からは、プリーディー・パノムヨンが対日秘密工作を国内で行い、終戦まで5万人を超えるタイ対日武装レジスタンスを指揮した。
8月15日終戦を迎えると翌16日にプリーディーは国王を代行して対英米への宣戦布告を無効とする宣言を行った。さらにプリーディーから、クワン・アパイウォンが摂政に変わり、1945年9月17日に、自由タイを組織したセーニー・プラーモートがタイに帰国、首相に就任した。しかし内閣はプリーディー・パノムヨンの信奉者によって占められ、プリーディーはクワン・アパイウォン政権時と同様、政権の背後で勢力を振るい続けた。
条約は1945年9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴う日本の敗戦により破棄された。ピブーンは失脚し、タイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴えた。
タイ王国の戦後処理は、自由タイ運動による連合国軍への貢献の結果、アメリカ合衆国に宣戦布告をしていないとしてタイ王国を敵対国としないことに決まった。しかし、他の連合国はすんなりとはタイの戦勝国入りを認めなかった。イギリスはタイ政府に英領マレーへの米輸出での賠償を求めた。フランスは仏領インドシナ占領地域を返還するまで国際連合への加盟を認めない決定をした。ソビエト連邦は国内の反共規則の撤廃を求めた。タイ王国は、1946年から1947年にかけて、回復した旧領土をフランスに返還した。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。
日本に対しては、1951年の日本国との平和条約において戦争強制の賠償を要求、日本は高額な賠償金を支払うことを約束して国交を回復したが、戦費として日本がタイ王国から借りていた20億バーツ(当時10億ドル以上)は、日本の悲惨な状態に同情した使節団によって2500万ドルまでに引き下げられた。また、ピブーンは逮捕、投獄されたがすぐに釈放され、後に首相に返り咲いた。
したたかな国タイ王国である。大東亜戦争は悲惨な戦争で有ったが、戦後賠償を求めず放棄した蒋介石総統や、極東軍事裁判において、事後法(法の不遡及)による点などにより無罪を主張されたインドのパール判事、そしてこの、タイ王国の借款返済額のほとんどの放棄といった行為。いろんな凄い人達が居たのです。そして、日本にも、戦後インドネシアの独立を支援して共に戦って死んでいった元日本兵達。それに、蒋介石総統による内蒙古在留日本人の本国帰還に対する礼として、戦後台湾へ渡り、3年間蒋介石総統に協力して、金門島古寧頭戦役で共産党軍をくい止めた根本博 元陸軍中将など‥‥‥。
1941年12月8日の真珠湾攻撃の日、日本陸軍はタイ王国にも侵入した。当時、タイは中立を宣言していたが、日本はタイを枢軸側の同盟国とする事と、タイ領を経由してイギリス領マレーに侵攻する事を意図していた。日本の計画ではすぐにピブーン政権から進駐同意を得るはずであったが、実際には同意獲得までにはしばらく時間がかかってしまった。交渉の間に、少年兵による義勇軍を含むタイ王国軍及び警察と日本軍との間で戦闘となり、双方で数百人が死傷した。
バッタンバン‥‥‥12/8未明 第15軍と近衛師団がバッタンバン県(現カンボジア領バタンバン)に越境入国。抵抗なし。
チュムポン‥‥‥12/8朝 第143歩兵連隊の第1歩兵大隊が上陸。
ナコンシータマラート‥‥‥第143歩兵連隊の第3歩兵大隊と第18飛行連隊を輸送した3隻の輸送艇が12/7夜のうちに沿岸数キロ地点に停泊。
パタニ‥‥‥第25軍の2番目に重要な目標となった。
プラチャップキリカン‥‥‥タイ王国空軍基地が有る。第143歩兵連隊の第2歩兵大隊が12/8、3時に上陸し警察の抵抗を抑え市街を制圧。更に航空基地ちかくに上陸し包囲。対し、空軍と警察が共闘して翌日の正午まで持ち堪えたものの、政府より停戦の通達を受け降伏。死者は日本側発表115人、タイ側発表217~300人超え。↑「同盟国タイと進駐日本軍ー[大東亜戦争]期の知られざる国際関係ー」吉川利治 著
サムットプラカーン‥‥‥近衛師団第3大隊、12/8早朝に上陸。
ソンクラー‥‥‥第25軍(山下奉文大将麾下)の主要目標となった。12/8早朝上陸。
スラタニ‥‥‥第143歩兵連隊第1歩兵大隊中の1個中隊が12/8早朝沿岸の村バン・ドンに上陸。スラタニに入城したところ警察や一部市民の抵抗にあう、午後には武装解除。タイ側死者17~18人、他詳細不明。
日本とタイの停戦後、日泰攻守同盟条約が締結される事となった。条約では、アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。1941年12月21日に公布され、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。↑「1億人の昭和史 日本の戦史7 太平洋戦争1」
この間、日本軍の計画を予想していたイギリス軍も、開戦直後にタイ領南部へ侵攻しタイ警察と交戦していたが、日本軍の到着で敗退した。さらに条約締結を知ったイギリス及びアメリカ軍が、1942年1月8日からタイ国内の都市攻撃を始めたため、タイ政府は1月25日に英米に対して宣戦布告した。
これによってタイは実質的に枢軸国の一員となり、その報復としてアメリカ合衆国は、国内のタイ王国資産を凍結した。ロンドンのタイ王国イギリス大使は宣戦布告を通達したが、ワシントンDCのアメリカ合衆国大使セーニー・プラーモートは宣戦布告の通達を拒否し、アメリカで自由タイ運動を組織し、対日レジスタンス活動を開始した。↑セーニー・プラーモート
アメリカ合衆国はタイ王国へ宣戦布告を出す代わりに、セーニーの反日レジスタンス活動を支援した。セーニーはアメリカ合衆国を後ろ盾にして、タイ王国の反日保守派貴族を取りまとめ、アメリカ留学中のタイ学生をアメリカ合衆国戦略諜報局(OSS)との任務に任用しつつ、自由タイ運動を組織した。
イギリスとは相互に宣戦布告を交わしたものの、同時にイギリス在住のタイ人によって反日レジスタンス運動を組織。当時ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学していたプワイ・ウンパーゴンやラムパイパンニー王妃(ラーマ7世王妃)と皇兄スパサワットウォンサニット・サワットディワットらが中心となり展開した。
タイ国内の摂政府からは、プリーディー・パノムヨンが対日秘密工作を国内で行い、終戦まで5万人を超えるタイ対日武装レジスタンスを指揮した。
8月15日終戦を迎えると翌16日にプリーディーは国王を代行して対英米への宣戦布告を無効とする宣言を行った。さらにプリーディーから、クワン・アパイウォンが摂政に変わり、1945年9月17日に、自由タイを組織したセーニー・プラーモートがタイに帰国、首相に就任した。しかし内閣はプリーディー・パノムヨンの信奉者によって占められ、プリーディーはクワン・アパイウォン政権時と同様、政権の背後で勢力を振るい続けた。
条約は1945年9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴う日本の敗戦により破棄された。ピブーンは失脚し、タイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴えた。
タイ王国の戦後処理は、自由タイ運動による連合国軍への貢献の結果、アメリカ合衆国に宣戦布告をしていないとしてタイ王国を敵対国としないことに決まった。しかし、他の連合国はすんなりとはタイの戦勝国入りを認めなかった。イギリスはタイ政府に英領マレーへの米輸出での賠償を求めた。フランスは仏領インドシナ占領地域を返還するまで国際連合への加盟を認めない決定をした。ソビエト連邦は国内の反共規則の撤廃を求めた。タイ王国は、1946年から1947年にかけて、回復した旧領土をフランスに返還した。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。
日本に対しては、1951年の日本国との平和条約において戦争強制の賠償を要求、日本は高額な賠償金を支払うことを約束して国交を回復したが、戦費として日本がタイ王国から借りていた20億バーツ(当時10億ドル以上)は、日本の悲惨な状態に同情した使節団によって2500万ドルまでに引き下げられた。また、ピブーンは逮捕、投獄されたがすぐに釈放され、後に首相に返り咲いた。
したたかな国タイ王国である。大東亜戦争は悲惨な戦争で有ったが、戦後賠償を求めず放棄した蒋介石総統や、極東軍事裁判において、事後法(法の不遡及)による点などにより無罪を主張されたインドのパール判事、そしてこの、タイ王国の借款返済額のほとんどの放棄といった行為。いろんな凄い人達が居たのです。そして、日本にも、戦後インドネシアの独立を支援して共に戦って死んでいった元日本兵達。それに、蒋介石総統による内蒙古在留日本人の本国帰還に対する礼として、戦後台湾へ渡り、3年間蒋介石総統に協力して、金門島古寧頭戦役で共産党軍をくい止めた根本博 元陸軍中将など‥‥‥。