1941年、対英戦争を考えた日本軍は、英領ビルマ、英領マラヤに侵攻する為にタイ領土を通過しなければならないと考え、12月7日に首相官邸に坪上貞二大使、浅田俊介総領事、田村浩大佐、守屋精爾大佐、他大使館員約20名が訪れて、米英に宣戦布告する事を決定したと告げて、タイ領の通過の許可を求めた。
が、ピブーン首相は地方視察の為に不在で、副首相が閣議を開いたが何も決められず、日本外交団は一旦引き上げ、翌8日の5時から首相官邸に来て、ピブーン首相の帰還を待ち構えた。
7時頃ピブーン首相はバンコクに戻り、閣議を開き、7時30分に全員一致で停戦命令を出す事を決め、ついで日本軍の通過を認め、協定に署名する(11時過ぎ)。
(「日本国軍隊ノ泰国領域通過ニ関スル日本国泰国間協定」)
そして、12月21日に日泰同盟条約が締結された。第1条 相互の独立、主権を尊重する。第2条 武力紛争発生時には同盟国として、政治的、経済的、軍事的に支援する。第3条 両国で細目の協議決定。第4条 単独の休戦や講話は結ばない。第5条 署名と同時に発効、10年間継続。という内容であった。
この条約調印後、バンコクをはじめタイの地方に展開する日本軍との摩擦を避ける為の、日本タイ合同委員会が設置された。この組織は後に同盟国連絡局という、タイ政府の一部局に格上げされる。
1942年1月25日には、タイは英米に宣戦布告した。宣言文では、連合国軍のタイ攻撃、空襲を理由にあげていた。政府声明では、昨年12月8日から1月20日までの間に、30回の空襲、36回の地上攻撃を受けて、国民の生活を脅かしている、と説明している。
日本が降伏すると、摂政プリディー・パノムヨンは、英米への宣戦布告は無効であると宣言した。アメリカはすぐに認めたが、フランスは元フランス領であった土地の返還を要求した。また、イギリスは米150万トンと150万ポンドの賠償金、更に「死の鉄道(泰緬鉄道)」を買い取る事を求めた。その後、イギリスとインドに対し522万4220ポンドの賠償金も追加された。
が、戦後のタイは、抗日運動を行なった自由タイの功績を強調し、巧みな外交力を発揮して敗戦国になる事を免れ、1946年に国連に加盟することに成功した。
それに反して、大東亜戦争中、日本はタイに20億バーツ(当時の10億ドル以上)の借款があったが、タイはそれを2500万ドルにまで値引きしてくれた。
終戦後に貸与金返還交渉使節団として訪日、その帰国後の報告‥‥‥‥‥日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。 そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。 アメリカはそっくり返って威張っている。 団員は、『こんな気の毒な日本を見ていられるか。』と口々に言いました。
だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。‥‥‥
‥‥‥ 「国に帰ったら、殺されるかな。」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから。」と自分に言い聞かせました。団員も同じ気持ちだったのです。‥‥‥‥‥‥‥
ソムアン・サラサス(タイ、元タイ国軍事顧問、使節団最高顧問)
また、ソムアン顧問とその父で戦前に経済相を務めたプラ・サラサス氏は1949年に私費で象の「はな子」と米10トンを日本へ寄贈してくれました。
「はな子」‥‥‥1947年にタイ王国で生まれた。タイでの名前は「カチャー」。
「カチャー」は2歳半の時、タイから日本に贈られて、1949年8月22日にデンマーク船オラフ・マークス号でタイを発ち、9月2日に神戸港に着いた。そして、貨物列車とトラックを使って、9月4日に恩賜上野動物園に到着した。当初、上野動物園では「カチャー子」と呼ばれていたが、公募により、戦争中に餓死した「花子」(ワンリー)の名を継いで「はな子」と名付けられた。上野動物園には、「はな子」到着のすぐ後の1949年9月25日にインドから贈られた「インディラ」も到着し、年末までの3か月間で100万人近くの入園者が訪れる象ブームが起きた。
「はな子」は現在、井の頭動物公園に居て67歳です。
が、ピブーン首相は地方視察の為に不在で、副首相が閣議を開いたが何も決められず、日本外交団は一旦引き上げ、翌8日の5時から首相官邸に来て、ピブーン首相の帰還を待ち構えた。
7時頃ピブーン首相はバンコクに戻り、閣議を開き、7時30分に全員一致で停戦命令を出す事を決め、ついで日本軍の通過を認め、協定に署名する(11時過ぎ)。
(「日本国軍隊ノ泰国領域通過ニ関スル日本国泰国間協定」)
そして、12月21日に日泰同盟条約が締結された。第1条 相互の独立、主権を尊重する。第2条 武力紛争発生時には同盟国として、政治的、経済的、軍事的に支援する。第3条 両国で細目の協議決定。第4条 単独の休戦や講話は結ばない。第5条 署名と同時に発効、10年間継続。という内容であった。
この条約調印後、バンコクをはじめタイの地方に展開する日本軍との摩擦を避ける為の、日本タイ合同委員会が設置された。この組織は後に同盟国連絡局という、タイ政府の一部局に格上げされる。
1942年1月25日には、タイは英米に宣戦布告した。宣言文では、連合国軍のタイ攻撃、空襲を理由にあげていた。政府声明では、昨年12月8日から1月20日までの間に、30回の空襲、36回の地上攻撃を受けて、国民の生活を脅かしている、と説明している。
日本が降伏すると、摂政プリディー・パノムヨンは、英米への宣戦布告は無効であると宣言した。アメリカはすぐに認めたが、フランスは元フランス領であった土地の返還を要求した。また、イギリスは米150万トンと150万ポンドの賠償金、更に「死の鉄道(泰緬鉄道)」を買い取る事を求めた。その後、イギリスとインドに対し522万4220ポンドの賠償金も追加された。
が、戦後のタイは、抗日運動を行なった自由タイの功績を強調し、巧みな外交力を発揮して敗戦国になる事を免れ、1946年に国連に加盟することに成功した。
それに反して、大東亜戦争中、日本はタイに20億バーツ(当時の10億ドル以上)の借款があったが、タイはそれを2500万ドルにまで値引きしてくれた。
終戦後に貸与金返還交渉使節団として訪日、その帰国後の報告‥‥‥‥‥日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。 そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。 アメリカはそっくり返って威張っている。 団員は、『こんな気の毒な日本を見ていられるか。』と口々に言いました。
だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。‥‥‥
‥‥‥ 「国に帰ったら、殺されるかな。」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから。」と自分に言い聞かせました。団員も同じ気持ちだったのです。‥‥‥‥‥‥‥
ソムアン・サラサス(タイ、元タイ国軍事顧問、使節団最高顧問)
また、ソムアン顧問とその父で戦前に経済相を務めたプラ・サラサス氏は1949年に私費で象の「はな子」と米10トンを日本へ寄贈してくれました。
「はな子」‥‥‥1947年にタイ王国で生まれた。タイでの名前は「カチャー」。
「カチャー」は2歳半の時、タイから日本に贈られて、1949年8月22日にデンマーク船オラフ・マークス号でタイを発ち、9月2日に神戸港に着いた。そして、貨物列車とトラックを使って、9月4日に恩賜上野動物園に到着した。当初、上野動物園では「カチャー子」と呼ばれていたが、公募により、戦争中に餓死した「花子」(ワンリー)の名を継いで「はな子」と名付けられた。上野動物園には、「はな子」到着のすぐ後の1949年9月25日にインドから贈られた「インディラ」も到着し、年末までの3か月間で100万人近くの入園者が訪れる象ブームが起きた。
「はな子」は現在、井の頭動物公園に居て67歳です。