アユタヤで昼寝

アユタヤ在住。海外転出しての、アメージングなタイ王国での暮らしの日々を‥‥‥

日泰同盟条約

2014-07-30 23:59:25 | 日記
1941年、対英戦争を考えた日本軍は、英領ビルマ、英領マラヤに侵攻する為にタイ領土を通過しなければならないと考え、12月7日に首相官邸に坪上貞二大使、浅田俊介総領事、田村浩大佐、守屋精爾大佐、他大使館員約20名が訪れて、米英に宣戦布告する事を決定したと告げて、タイ領の通過の許可を求めた。
が、ピブーン首相は地方視察の為に不在で、副首相が閣議を開いたが何も決められず、日本外交団は一旦引き上げ、翌8日の5時から首相官邸に来て、ピブーン首相の帰還を待ち構えた。
7時頃ピブーン首相はバンコクに戻り、閣議を開き、7時30分に全員一致で停戦命令を出す事を決め、ついで日本軍の通過を認め、協定に署名する(11時過ぎ)。
(「日本国軍隊ノ泰国領域通過ニ関スル日本国泰国間協定」)
そして、12月21日に日泰同盟条約が締結された。第1条 相互の独立、主権を尊重する。第2条 武力紛争発生時には同盟国として、政治的、経済的、軍事的に支援する。第3条 両国で細目の協議決定。第4条 単独の休戦や講話は結ばない。第5条 署名と同時に発効、10年間継続。という内容であった。
この条約調印後、バンコクをはじめタイの地方に展開する日本軍との摩擦を避ける為の、日本タイ合同委員会が設置された。この組織は後に同盟国連絡局という、タイ政府の一部局に格上げされる。
1942年1月25日には、タイは英米に宣戦布告した。宣言文では、連合国軍のタイ攻撃、空襲を理由にあげていた。政府声明では、昨年12月8日から1月20日までの間に、30回の空襲、36回の地上攻撃を受けて、国民の生活を脅かしている、と説明している。

日本が降伏すると、摂政プリディー・パノムヨンは、英米への宣戦布告は無効であると宣言した。アメリカはすぐに認めたが、フランスは元フランス領であった土地の返還を要求した。また、イギリスは米150万トンと150万ポンドの賠償金、更に「死の鉄道(泰緬鉄道)」を買い取る事を求めた。その後、イギリスとインドに対し522万4220ポンドの賠償金も追加された。
が、戦後のタイは、抗日運動を行なった自由タイの功績を強調し、巧みな外交力を発揮して敗戦国になる事を免れ、1946年に国連に加盟することに成功した。


それに反して、大東亜戦争中、日本はタイに20億バーツ(当時の10億ドル以上)の借款があったが、タイはそれを2500万ドルにまで値引きしてくれた。

終戦後に貸与金返還交渉使節団として訪日、その帰国後の報告‥‥‥‥‥日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。 そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。 アメリカはそっくり返って威張っている。 団員は、『こんな気の毒な日本を見ていられるか。』と口々に言いました。
だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。‥‥‥
‥‥‥ 「国に帰ったら、殺されるかな。」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから。」と自分に言い聞かせました。団員も同じ気持ちだったのです。‥‥‥‥‥‥‥
ソムアン・サラサス(タイ、元タイ国軍事顧問、使節団最高顧問)

また、ソムアン顧問とその父で戦前に経済相を務めたプラ・サラサス氏は1949年に私費で象の「はな子」と米10トンを日本へ寄贈してくれました。

「はな子」‥‥‥1947年にタイ王国で生まれた。タイでの名前は「カチャー」。
「カチャー」は2歳半の時、タイから日本に贈られて、1949年8月22日にデンマーク船オラフ・マークス号でタイを発ち、9月2日に神戸港に着いた。そして、貨物列車とトラックを使って、9月4日に恩賜上野動物園に到着した。当初、上野動物園では「カチャー子」と呼ばれていたが、公募により、戦争中に餓死した「花子」(ワンリー)の名を継いで「はな子」と名付けられた。上野動物園には、「はな子」到着のすぐ後の1949年9月25日にインドから贈られた「インディラ」も到着し、年末までの3か月間で100万人近くの入園者が訪れる象ブームが起きた。
「はな子」は現在、井の頭動物公園に居て67歳です。


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日泰攻守同盟条約 1941.12.21

2014-07-29 23:30:45 | 日記
欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となった(タイ・フランス領インドシナ紛争)。翌年に日本軍の介入で講和が成立し、これによってタイは旧領土のほとんどを回復できたため、日本への協力姿勢を強めた。
1941年12月8日の真珠湾攻撃の日、日本陸軍はタイ王国にも侵入した。当時、タイは中立を宣言していたが、日本はタイを枢軸側の同盟国とする事と、タイ領を経由してイギリス領マレーに侵攻する事を意図していた。日本の計画ではすぐにピブーン政権から進駐同意を得るはずであったが、実際には同意獲得までにはしばらく時間がかかってしまった。交渉の間に、少年兵による義勇軍を含むタイ王国軍及び警察と日本軍との間で戦闘となり、双方で数百人が死傷した。

バッタンバン‥‥‥12/8未明 第15軍と近衛師団がバッタンバン県(現カンボジア領バタンバン)に越境入国。抵抗なし。
チュムポン‥‥‥12/8朝 第143歩兵連隊の第1歩兵大隊が上陸。
ナコンシータマラート‥‥‥第143歩兵連隊の第3歩兵大隊と第18飛行連隊を輸送した3隻の輸送艇が12/7夜のうちに沿岸数キロ地点に停泊。
パタニ‥‥‥第25軍の2番目に重要な目標となった。
プラチャップキリカン‥‥‥タイ王国空軍基地が有る。第143歩兵連隊の第2歩兵大隊が12/8、3時に上陸し警察の抵抗を抑え市街を制圧。更に航空基地ちかくに上陸し包囲。対し、空軍と警察が共闘して翌日の正午まで持ち堪えたものの、政府より停戦の通達を受け降伏。死者は日本側発表115人、タイ側発表217~300人超え。↑「同盟国タイと進駐日本軍ー[大東亜戦争]期の知られざる国際関係ー」吉川利治 著
サムットプラカーン‥‥‥近衛師団第3大隊、12/8早朝に上陸。
ソンクラー‥‥‥第25軍(山下奉文大将麾下)の主要目標となった。12/8早朝上陸。
スラタニ‥‥‥第143歩兵連隊第1歩兵大隊中の1個中隊が12/8早朝沿岸の村バン・ドンに上陸。スラタニに入城したところ警察や一部市民の抵抗にあう、午後には武装解除。タイ側死者17~18人、他詳細不明。

日本とタイの停戦後、日泰攻守同盟条約が締結される事となった。条約では、アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。1941年12月21日に公布され、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。↑「1億人の昭和史 日本の戦史7 太平洋戦争1」

この間、日本軍の計画を予想していたイギリス軍も、開戦直後にタイ領南部へ侵攻しタイ警察と交戦していたが、日本軍の到着で敗退した。さらに条約締結を知ったイギリス及びアメリカ軍が、1942年1月8日からタイ国内の都市攻撃を始めたため、タイ政府は1月25日に英米に対して宣戦布告した。
これによってタイは実質的に枢軸国の一員となり、その報復としてアメリカ合衆国は、国内のタイ王国資産を凍結した。ロンドンのタイ王国イギリス大使は宣戦布告を通達したが、ワシントンDCのアメリカ合衆国大使セーニー・プラーモートは宣戦布告の通達を拒否し、アメリカで自由タイ運動を組織し、対日レジスタンス活動を開始した。↑セーニー・プラーモート
アメリカ合衆国はタイ王国へ宣戦布告を出す代わりに、セーニーの反日レジスタンス活動を支援した。セーニーはアメリカ合衆国を後ろ盾にして、タイ王国の反日保守派貴族を取りまとめ、アメリカ留学中のタイ学生をアメリカ合衆国戦略諜報局(OSS)との任務に任用しつつ、自由タイ運動を組織した。
イギリスとは相互に宣戦布告を交わしたものの、同時にイギリス在住のタイ人によって反日レジスタンス運動を組織。当時ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学していたプワイ・ウンパーゴンやラムパイパンニー王妃(ラーマ7世王妃)と皇兄スパサワットウォンサニット・サワットディワットらが中心となり展開した。
タイ国内の摂政府からは、プリーディー・パノムヨンが対日秘密工作を国内で行い、終戦まで5万人を超えるタイ対日武装レジスタンスを指揮した。

8月15日終戦を迎えると翌16日にプリーディーは国王を代行して対英米への宣戦布告を無効とする宣言を行った。さらにプリーディーから、クワン・アパイウォンが摂政に変わり、1945年9月17日に、自由タイを組織したセーニー・プラーモートがタイに帰国、首相に就任した。しかし内閣はプリーディー・パノムヨンの信奉者によって占められ、プリーディーはクワン・アパイウォン政権時と同様、政権の背後で勢力を振るい続けた。

条約は1945年9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴う日本の敗戦により破棄された。ピブーンは失脚し、タイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴えた。
タイ王国の戦後処理は、自由タイ運動による連合国軍への貢献の結果、アメリカ合衆国に宣戦布告をしていないとしてタイ王国を敵対国としないことに決まった。しかし、他の連合国はすんなりとはタイの戦勝国入りを認めなかった。イギリスはタイ政府に英領マレーへの米輸出での賠償を求めた。フランスは仏領インドシナ占領地域を返還するまで国際連合への加盟を認めない決定をした。ソビエト連邦は国内の反共規則の撤廃を求めた。タイ王国は、1946年から1947年にかけて、回復した旧領土をフランスに返還した。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。
日本に対しては、1951年の日本国との平和条約において戦争強制の賠償を要求、日本は高額な賠償金を支払うことを約束して国交を回復したが、戦費として日本がタイ王国から借りていた20億バーツ(当時10億ドル以上)は、日本の悲惨な状態に同情した使節団によって2500万ドルまでに引き下げられた。また、ピブーンは逮捕、投獄されたがすぐに釈放され、後に首相に返り咲いた。


したたかな国タイ王国である。大東亜戦争は悲惨な戦争で有ったが、戦後賠償を求めず放棄した蒋介石総統や、極東軍事裁判において、事後法(法の不遡及)による点などにより無罪を主張されたインドのパール判事、そしてこの、タイ王国の借款返済額のほとんどの放棄といった行為。いろんな凄い人達が居たのです。そして、日本にも、戦後インドネシアの独立を支援して共に戦って死んでいった元日本兵達。それに、蒋介石総統による内蒙古在留日本人の本国帰還に対する礼として、戦後台湾へ渡り、3年間蒋介石総統に協力して、金門島古寧頭戦役で共産党軍をくい止めた根本博 元陸軍中将など‥‥‥。


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カップヌードル発売

2014-07-28 23:40:44 | 日記
少し前からNISSINのカップヌードルが発売されている。4種類らしいが、一応1個ずつ買ってみて食べている。私的にはシーフードに決まりである。値段的に15バーツ程度なので、今まで食べていたママーと同じ位で有る。ママーの場合はポークのを選んで食べていた。今まではNISSINの大型の物が有って気に入っていたが、少し高価だった。それでも中身が多くて具が多ければ良かったのだが。これも、それも、あれも、皆具が貧弱で有る。それに、日本のカップヌードルだと1個で少々の満足感が有るが、こちらの物は食事代りにはならない程度なので不満が出る。
カップヌードルと焼きおにぎりと串揚げチキンか焼き豚位なら食事になる。何処かでシーフードの物を買い込んでおかねば。
焼きおにぎりも2、3日おきに作っているが、あまり残っていかない。そろそろ炭を買いに行かないといけない。一旦気に入るとしばらく続けるという性癖があるので、冷凍庫にしっかり貯まるまで続きそうである。


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タイの家の建て方

2014-07-27 23:30:22 | 日記
何時も夕方に買い物に行く途中の所で、新しくタウンハウスが建てられています。最初から見ていたけれど、撮影したのは4月からなので‥‥‥最初の方は別の所の画像を持って来ています。
まず、土を運んで土盛りします。しばらくおいて、コンクリートの杭(柱)を打ち込みます。そして、杭の出張った、必要で無い分を取り除いて、基礎のセメントを打ちます。基礎から繋いで鉄筋入りのコンクリート柱を立てます。ここまでが、違う所の画像です。ここからが、先程のタウンハウスです。前には、ここは空き地で少し入った所が池になっていました。半分位使っているのでしょうか?池もかなりか全部が埋められています。この画像の時点で今年の4月1日でした
4軒繋ぎと6軒繋ぎの10軒で、間を開けて、奥に行ける様にしています。コンクリートの柱を立てて、壁はレンガ積み、床は鉄筋入りのコンクリートパネルを使います。2階3階もそうです。

入口の方で1、2階が半分程吹き抜けになっていますね。

で、塗装が、こういう色になるんですね。タイ人の好みの様です。ここまで来て、中の方の作業をしているのか、今日も外観は変わらずでした。吹き抜けにしているので狭いスペースになると思うのですが、店舗用でしょうか?全部売れていると思うのですが。土盛りした頃から何組も見に来ている人達が居たし、現在もそうですから。
これで大体の建て方が解ったと思いますが。完成したら又お知らせします。今の住宅は大体においてコンクリート造りで床はタイル貼りです。私の家は1階がコンクリート柱でレンガ壁、2階が木造で、木の柱で板壁です。40年位前にはこの方式が多かった様です。それ以前は、木造部分がもっと多いです。コンクリート支柱の上に純木造の家というものです。


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焼きおにぎりを作る

2014-07-26 23:59:14 | 日記
焼きおにぎりの様な物がこちらでも売られている。カオニャオ(もち米)で作って、多分ナンプラー(魚醤)を塗って焼いているのだろう。まあわりといける。
で、自分で作ろうと思い、木炭を買いに行った。チャオプロム市場まで行き、いつもピーナッツを買っている店で聞いてみた。すると、朝はこの辺りでも売っているが、今なら、一筋向こうの道に店が有るとの事。早速行ってみるが、なかなか見つからない。その辺で聞いてみると、通り過ぎた所に有ったのだった。
少し戻って見つけて、一袋買う。なんなくぶら下げて帰れる位の量で20バーツだった。
それからだいぶ経ってから、焼きおにぎりに挑戦。米は少し粘りの有る香り米を使う。日本米も売っているのだが(タイ産の)。焼き網も以前に買っておいた。醤油はキッコーマンのが有る(シンガポール産である、ロータスでも売っている)。少々のことだから、七輪は買わずに、植木鉢使用である。
これは前に食べてたタイ産のジャポニカ米。ロータスで売っている。↑今回はカオニャオで作りました。嫁が成形したので、形が‥‥‥。
↓キッコーマンを使い切ったので。これは、この前フジスーパーで買ったヤマモリの醤油(これはタイ産のようである)。作って食べて、残ったのは冷凍しておきます。今度は、日本米買って来て、具入りのおにぎり作って冷凍しておくかな?


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