「逝った男の残したものは」
2009年11月6日 (金) 紀伊國屋ホール
作・演出 水谷龍二
出 演 竹下景子/綿引勝彦/ベンガル/山西惇
■ステキなカルテット
水谷作品は 「子供騙し」 以来。私にとっては、身構えないセリフと作り物っぽくない流れを感じる作家。
両作品とも水谷氏が演出も兼ねていることを昨日はじめて知った。
観劇前の予備知識は、「夫が謎の死の真相を知りたい未亡人は、夫の友人や仕事関係の知り合いら三人の男を自宅に呼ぶ。それぞれには面識のない三人が語る夫の人物像は食い違い、未亡人の知らないことが明かされていく。夫の真実? 謎は深まるばかり……」という内容だったのだが、実際はそういう「謎」を追っていくおもしろさや息詰まり感はうすい。
むしろ、夫に急に先立たれ、夫との日々を振り返りながら、むなしさややりきれなさや夫への不信にしばられ先に進めない妻、その妻に招かれて「逝った男」をそれぞれに語る男たちの会話劇、ということか。
妻の胸の内が細やかに伝わってくるわけではなく、むしろ交わされる言葉の端々から、勝ち気だけれど実は自信を失いかけているもろさが浮かび上がる。
竹下景子は艶やかで華やかな美しさがまぶしい。声がきれいで、緩急使い分けた台詞が心地よい。
昔からの友人役の綿引勝彦。ちょっといい加減で独りよがりな男をすごく安定した演技で見せてくれる。この存在感はすごいなあ。ちょっと濃すぎて「ノーサンキュー」なこともあるんだけど、ここではそれがいい方向に出ていたような。
ベンガルはいかにも彼にピッタリな男を楽しそうに演じていた。
山西惇は、すみません、『相棒』の「暇か?」で初めて知った役者さん。三人の男の中ではいちばん癖のない純朴そうな存在で、演技もストレート。心地よい。
ベテランといわれる4人の役者の会話やからみがキーポイントの芝居だと思うのだけれど、なんとなくそれが十分に伝わってこないのは演出のせいなのかな。よくわからないけど、ちょっと空回りみたいなものを感じることもあったし。
■私の愚かな思い込み
プロローグで、カッターシャツを着て帽子を目深にかぶった竹下景子が疲れたようなイライラしたような演技で薪を運び、パソコンのキーを叩く。
次の場面では、金髪にオシャレな服で颯爽と艶やかに登場する未亡人役の竹下景子。
演出の意図としては、そのギャップの中に、お客の前では華やかさを見せる未亡人の日常の寂しさを浮き彫りにしたかったのだろう。
なのに、何を勘違いしたのか、華やかに登校した未亡人を見て、「ああ、さっきの憂うつそうな人は、作家である夫で、竹下景子は二役なんだ~」と思ってしまったのだ。だから未亡人が隠しもつ寂しさややりきれなさが理解できないばかりか、ひとり残された未亡人がキーボードをたたきながら日記(寂しいけれど少し納得して先に向かって歩き始めるのかなという淡い希望も抱かせる)を書く場面(これが実際はラストシーンなんだけど)のあとに、もう一度竹下二役の夫が登場して、その死の真相が明らかになるにちがいない、なんて思ってしまったのだ。
だから、カーテンコールで4人が登場したときには、「ええ、終わり?」なんて
この勘違いは致命的だったな。恥ずかしいけど、なんであんなふうに思ってしまったんだろう。
とりとめのない、脈絡のない、へんてこな文章になってしまった。
すみません。
2009年11月6日 (金) 紀伊國屋ホール
作・演出 水谷龍二
出 演 竹下景子/綿引勝彦/ベンガル/山西惇
■ステキなカルテット
水谷作品は 「子供騙し」 以来。私にとっては、身構えないセリフと作り物っぽくない流れを感じる作家。
両作品とも水谷氏が演出も兼ねていることを昨日はじめて知った。
観劇前の予備知識は、「夫が謎の死の真相を知りたい未亡人は、夫の友人や仕事関係の知り合いら三人の男を自宅に呼ぶ。それぞれには面識のない三人が語る夫の人物像は食い違い、未亡人の知らないことが明かされていく。夫の真実? 謎は深まるばかり……」という内容だったのだが、実際はそういう「謎」を追っていくおもしろさや息詰まり感はうすい。
むしろ、夫に急に先立たれ、夫との日々を振り返りながら、むなしさややりきれなさや夫への不信にしばられ先に進めない妻、その妻に招かれて「逝った男」をそれぞれに語る男たちの会話劇、ということか。
妻の胸の内が細やかに伝わってくるわけではなく、むしろ交わされる言葉の端々から、勝ち気だけれど実は自信を失いかけているもろさが浮かび上がる。
竹下景子は艶やかで華やかな美しさがまぶしい。声がきれいで、緩急使い分けた台詞が心地よい。
昔からの友人役の綿引勝彦。ちょっといい加減で独りよがりな男をすごく安定した演技で見せてくれる。この存在感はすごいなあ。ちょっと濃すぎて「ノーサンキュー」なこともあるんだけど、ここではそれがいい方向に出ていたような。
ベンガルはいかにも彼にピッタリな男を楽しそうに演じていた。
山西惇は、すみません、『相棒』の「暇か?」で初めて知った役者さん。三人の男の中ではいちばん癖のない純朴そうな存在で、演技もストレート。心地よい。
ベテランといわれる4人の役者の会話やからみがキーポイントの芝居だと思うのだけれど、なんとなくそれが十分に伝わってこないのは演出のせいなのかな。よくわからないけど、ちょっと空回りみたいなものを感じることもあったし。
■私の愚かな思い込み
プロローグで、カッターシャツを着て帽子を目深にかぶった竹下景子が疲れたようなイライラしたような演技で薪を運び、パソコンのキーを叩く。
次の場面では、金髪にオシャレな服で颯爽と艶やかに登場する未亡人役の竹下景子。
演出の意図としては、そのギャップの中に、お客の前では華やかさを見せる未亡人の日常の寂しさを浮き彫りにしたかったのだろう。
なのに、何を勘違いしたのか、華やかに登校した未亡人を見て、「ああ、さっきの憂うつそうな人は、作家である夫で、竹下景子は二役なんだ~」と思ってしまったのだ。だから未亡人が隠しもつ寂しさややりきれなさが理解できないばかりか、ひとり残された未亡人がキーボードをたたきながら日記(寂しいけれど少し納得して先に向かって歩き始めるのかなという淡い希望も抱かせる)を書く場面(これが実際はラストシーンなんだけど)のあとに、もう一度竹下二役の夫が登場して、その死の真相が明らかになるにちがいない、なんて思ってしまったのだ。
だから、カーテンコールで4人が登場したときには、「ええ、終わり?」なんて
この勘違いは致命的だったな。恥ずかしいけど、なんであんなふうに思ってしまったんだろう。
とりとめのない、脈絡のない、へんてこな文章になってしまった。
すみません。