10月3日、新国立劇場小ホールで「アジアの女」を観る(意味のないことですが、新国立劇場最年少の演出らしいです)。ここは私の事務所から京王線で3駅目。うれしいことに徒歩も含めて20分もあればたどりつける。下北沢の本多劇場(11月はここで、阿佐ヶ谷スパイダースの「イヌの日」を観る)と並んで、私にはありがたい劇場です。
小ホールの前にはすでに多くの人がタバコを吸ったり談笑したりして開演のときを待っていた。この時間ですね、いつも「たまんないなあ」と思うのは。芝居でもライブでも、開演前の小さな心の高鳴りがいい。
「アジアの女」は、昨年の夏、あの衝撃の「LAST SHOW」のときに配布されたチラシで、「来秋、長塚圭史の新作『アジアの女』!」と見たのが最初だったように思うのですが、そんなことはありえない? 「桜飛沫」(よかったら、ここもみてください)で配布されたチラシだったのでしょうか。どっちにしても、非常に、気の遠くなるくらい(大げさ?)前から楽しみにしていた芝居だったのです、私にとって。先行でチケットをとってからも、もう何カ月かたつし。
●「近未来の震災後の東京」は、今と変わらない
ここの小ホールは芝居の内容によって、舞台や客席のレイアウトが自在に変えられるけれど、今回は中央に舞台、前後に客席がレイアウトされていた。
震災で1階がつぶされ、2階から出入りせざるをえなくなった、小屋と化した住居。次の余震が起こったら倒れてくることが必至な倒壊寸前のビルが客席の上、見えないところに覆い被さっているのだということが台詞からわかる。
避難勧告が発令され立ち入り禁止の地区に、兄(近藤芳正)と妹(富田靖子)が暮らし、配給の食糧を届けるなどの行為で二人を支えている警官・村田(菅原永二)、ボランティアと称して売春まがいの斡旋をする地域の元締め・鳥居(峯村リエ)(「桜飛沫」で、知的な発達の遅れた太った妹を演じていたと思うのですが、非常に印象的な女優さんです)がからみ、兄に恨みをいだく才能のない作家・一ノ瀬(岩松了)(作家、演出家としても有名であることは言うまでもありませぬ)が現れると、表面上はバランスがとれているかのようにみえる兄妹の生活に変化をもたらし始める。
パンフで「近未来」というコピーを見たとき、もっと無機質な、「未来」ってこうなのか、と思わせるような決まりきったイメージを抱いていたが、セットも衣装も、まさに「今」。今震災がこの東京を襲ったら、きっとこういう光景がそこかしこに見られ、私たちはこんなふうに生活するんだろう。悲惨な状況があり、その一方で、今までとなんら変わらない日常があって、くだらない会話や呑気な言葉がかわされたりする。そういう中で異常な毎日が続いていくんだろうと、そんなことを最初に感じたのです。
「近未来」は、まさに明日かもしれない、そういう危うい「未来」なのです。
★才能があるからこそ、人を裏切りたくなる?
ミーハーは意味も含めて「芝居大好き」な私ですが、「長塚圭史作・演出」に出会ったのは意外に最近で、昨年の「悪魔の唄」が最初。土の中から舞い戻った旧日本兵の腐りかけた肉体にマジで脳天キックをくらい、そのグロテスクの極地をいきつつも最後の場面で解放された彼らを乗せた飛行機が飛び立つ音にやけに温かいものを感じてしまって以来(長い説明だけど、たぶんまったく伝わっていないと思われ)、「LAST SHOW」「桜飛沫」「ウィートーマス」(またまた、よかったら、ここも見てください)と彼を追ってきています。もともとホラーは苦手(「エクソシスト」で、もうたくさん!と思ったし、「らせん」「リング」では目を覆った指のあいまからしか映像を見ていない)。それなのに(もちろん長塚圭史はホラーの担い手ではありませんが)彼の作品の、湿った土の匂いのするグロな感じに惹かれ、今まで味わったことのない「後ろめたい(?)おもしろさ」に笑いころげ、気持ち悪さに一瞬小さな悲鳴をあげてのけぞリ…、それが長塚ワールドなんだと思っていたようです。そして、そういうおもしろさ、うしろめたさ、いわゆるブラックユーモアをちゃんと受け入れて、それはそれ、現実は現実、とちゃんと分けて認識できる社会こそ健全なんだ、と思っている。
今回は『朝日新聞』紙上で長塚本人が語っているように、今までの彼の世界とは趣を変え、たたみかけるような台詞より選び抜かれた短いフレーズ、グロではなく富田演じる妹の硬質な清廉さに象徴される清潔さを私たちにつきつける。わずかに、瓦礫の下で死んでいるはずの父親(妹は父親が生きていると信じて、信じたくて?、瓦礫の下の父親に食料を送り続けているのだが)の腕が穴からニョキッと出てきたときに、いやいや、これですむはずがない、陰惨な父親の現実の姿が突然出てくるかもしれない、などと思ってしまったが。
結局、たぶん多くの人が、長塚の作品といえばブラックユーモアとグロを思い描いているのではないだろうか。その中で、あえてその部分をオブラートに包んで、というより路線からはずれて新しい空気を求めたところに、ああ、才能のある人はこうやって自分のイメージや人の勝手な期待をいとも軽やかに乗り越えてしまうんだな、と納得したのです。持ち味をマンネリを恐れずに踏襲し、その中で新たなものを模索するやり方も、私には見事な歩き方に思えるけれど。
●僭越ながら(笑)「人物評」を
兄の近藤芳正の抑えた雰囲気が台詞をウソっぽいものにしない大きな役割を担っている気がする。一見穏やかそうにみえるけれど、実は傾きかけたビルを見上げながら暮らしているここにいるのが怖くて、でもここを一歩でも出たら二度と自分は妹のいるここに戻ってこないだろうということもわかっていて、それを最も恐れている。そういう屈折した思いから逃れるために酒に頼っているのだが、でも破滅の道を歩みそうにはないなと安堵できる安定さをもった悲しい常識人なのかもしれない。作家の一ノ瀬との軽妙なやりとりもあり、こいつはどのくらい深く考えているのか、と不明な点も一つの人物像なのか。新作だしね、再演のときにはもっと輪郭の際立った兄になっているかもしれません。
富田靖子はめっちゃ華奢な女優さんです(そこから入るか?)。ツレが「顔、ちっちぇー!」とあとで愛をこめてつぶやいていました(笑)。一昨年夏に観た「ママがわたしに言ったこと」でも、清潔で傷つきそうな精神を内に秘めた若い女性を演じていたが、この妹もある面で共通する鮮烈なイメージをもっている。
この妹は今、崩れた家の前の日の当たらぬ場所に種をまき、毎日かかさず水をやって、その芽がでるのを今か今かと待ち、淡々と父親に食料を送り、健気に日常の仕事を引き受けている。危ういほど純粋すぎて、こういう人が生きていくのは大変、というのはドラマや小説の題材になりやすいのだけど、この妹にも過去がある。男を愛するがゆえに、その愛が深まれば深まるほど激しく相手を求め、たぶん求めすぎ、精神のバランスを失って相手も自分の家族をも追いつめてしまった、というキツイ過去がある。
だから、兄は妹をおいてここを出ていくことはできない。ここにいれば妹は以前よりずっと穏やかにいられるから、ここで暮らしていくしかないと思っているのだ。警官の村田は妹を愛しているが、兄は男を愛して再びバランスを崩してしまう妹を恐れている。そういう修羅場に自分が再び戻っていくことを恐れている。
結局妹はボランティアと称した売春で外に出る生活を送るようになり、そこで中国人の男性と知り合い、愛するようになっていく。関東大震災のときにそうだったと聞いたことがあるが、それと同じように、自警団なるものが中国人や韓国人、朝鮮人が暴徒と化して強盗をしているなどという風評を流して迫害し始める、という社会的な問題も多少からめつつ、妹の危なっかしい行動がだんだんあらわになっていく。
最後のシーンで、妹は兄に人を愛し始めていることを打ち明け、兄は不安な気持ちを隠しつつ「もう大丈夫だな」と問いかける。強くうなずく妹を見送ったあと、兄は父親に通じると思われていた穴に板を張ってふさいでいく。兄はきっと、妹の再生を信じたのでしょう。 その直後、駆け込んできた村田のただならぬようすをすべてを悟った兄が、今まで一歩も越えられなかった一線を越えて、妹のもとに駆けつけるところで最後の暗転となる。
ツレをはじめ観客の大半は、妹がその中国人男性とともに自警団にやられてしまったとわかったと思うのですが(それを暗示させるような自警団の横暴ぶりが何度も語られていたし)、でも私はまったく別のことを想像していました。妹はその愛する男性との間にトラブルを起こし、再び狂気の世界へと入り込んでしまったのか、と。物語のテーマが何なのかは別として、自警団云々は単なる添え物のエピソードだと感じてしまっていた私がうかつというか,読みがずれていたというか…。
そしてなにより、妹が、「実は昔、不安で愛する人の気持ちを確かめたくて、その人の部屋のあちこちにおしっこをしたことがあるんですよね」という事実を話したとき、強く思ってしまったんですよね、そんな女優・富田靖子を見てみたい、見せてくれるはずでしょっ!って(笑)。それが芝居が進行する中で徐々に大きくなってしまっていたのかもしれません。だって、そういう過去を思わせる雰囲気が、芝居のどこにも感じられないような気がして、そこが一点だけ消化不良だったのです。
●ラストシーンが教えてくれるもの
「才能のないくせにそれを自分で認められない作家」(悲しいほど最悪じゃん)一ノ瀬は、かつて担当編集者だった兄の示唆に頼りつつ、新たな作品にチャレンジする。それが芽など出るはずがないのに水をやりつづける妹の存在に触発された物語なのだが、才能など皆無であったはずの彼から、そう、まるで「泉のように」生きた言葉が生まれてくる。
そしてラストシーン。兄が妹のもとにかけつけるところで暗転した舞台が明るくなる。私の頭の中では、再び余震があってビルが崩れ、その下につぶれた兄妹の家がある…、そんな悲惨な光景ができあがっていました。だって長塚作品だもの。でも実際に目にしたのは、ほぼ変わらぬセットで、ただそこかしこに、緑の小さな植物が光の中で凛と生まれ育っていたのです。存在を誇示するわけでもなく、かといって弱々しくもなく、そう私たちが知っている雑草のようなさりげなさで。 妹の願いはこんなふうにちゃんと形になって、次の世の中につながっていたということなのか。
その印象的な光景をしばらく無言で見つめていた観客から次々に拍手が起こり、カーテンコールのないまま明かりがつき、終演のアナウンスが流れた。客席のあいまを歩いて出口への道を歩きながら、さまざまなことが頭に浮かんで消えていく。どんなふうに消化したらいいのか、言葉にしたらいいのか…そういうことを、ずっと考えながら帰りの電車に乗り、そして今もこのパソコンの前にいるような気がしてならない。
●ひょっとして長塚作品のファンとしては優等生ではないかもしれない私?
…と長い見出しですが(笑)、決して、この作品がおもしろくなかったというわけではないのです(誤解のないように)。新作なのできっと課題は残ったのでしょうが、でも台詞は生き生きしていたし、5人の登場人物はそれぞれにちゃんと実体はあったし(うまく言えないけど、これが私の基本なんです)。
たぶんほかの人の作品なら、文句なく「おもしろかった」と言えちゃうんだろうな。あるいは長塚作品をもっと初期の頃からたっぷりと堪能していたら。私は彼の作品の初心者なんだ、まだまだ。だってまだ5作目だもの。まだ、あの不思議にバランスのとれた、でも「勘弁してよ」と言いたくなる「のけぞりグロ」な長塚ワールドに浸っていたいだけなんだろう、もうちょっとの間。だから、テーマはなに? 何を表現したかったのだろう、とか、普通に思うことを彼の作品では考えたくないんだな。そんなことを超越して、「まいったなー」とまず思えることが大事だったりする。そういう要素が今回は薄かったような気がするだけです。
ま、初心者というより、優等生ではない証拠かも。実は、長塚ワールドの魅力のほんの発端しかわかっていないのかもしれないし。そうだとしたら、それはそれでうれしいことです。これから知ることのできることがまだたくさんあるってことだし。
とりあえず11月の「イヌの日」の再演、そして次の新作を待っています!
観劇からすでに10日が過ぎています。それでも鮮烈にきちんと記憶に残っている台詞があるということで、基本的には脱帽です。
そうそう、たった一点だけ、兄が一ノ瀬との会話で使ったタイトル名「アジアの女」。それが私の中できちんと咀嚼できなかったためか、このタイトルの持つ意味がイマイチわかりません。ほら、私としては、長塚作品では、タイトルの意味なんて考えてはいけないんですけどね(笑)。
小ホールの前にはすでに多くの人がタバコを吸ったり談笑したりして開演のときを待っていた。この時間ですね、いつも「たまんないなあ」と思うのは。芝居でもライブでも、開演前の小さな心の高鳴りがいい。
「アジアの女」は、昨年の夏、あの衝撃の「LAST SHOW」のときに配布されたチラシで、「来秋、長塚圭史の新作『アジアの女』!」と見たのが最初だったように思うのですが、そんなことはありえない? 「桜飛沫」(よかったら、ここもみてください)で配布されたチラシだったのでしょうか。どっちにしても、非常に、気の遠くなるくらい(大げさ?)前から楽しみにしていた芝居だったのです、私にとって。先行でチケットをとってからも、もう何カ月かたつし。
●「近未来の震災後の東京」は、今と変わらない
ここの小ホールは芝居の内容によって、舞台や客席のレイアウトが自在に変えられるけれど、今回は中央に舞台、前後に客席がレイアウトされていた。
震災で1階がつぶされ、2階から出入りせざるをえなくなった、小屋と化した住居。次の余震が起こったら倒れてくることが必至な倒壊寸前のビルが客席の上、見えないところに覆い被さっているのだということが台詞からわかる。
避難勧告が発令され立ち入り禁止の地区に、兄(近藤芳正)と妹(富田靖子)が暮らし、配給の食糧を届けるなどの行為で二人を支えている警官・村田(菅原永二)、ボランティアと称して売春まがいの斡旋をする地域の元締め・鳥居(峯村リエ)(「桜飛沫」で、知的な発達の遅れた太った妹を演じていたと思うのですが、非常に印象的な女優さんです)がからみ、兄に恨みをいだく才能のない作家・一ノ瀬(岩松了)(作家、演出家としても有名であることは言うまでもありませぬ)が現れると、表面上はバランスがとれているかのようにみえる兄妹の生活に変化をもたらし始める。
パンフで「近未来」というコピーを見たとき、もっと無機質な、「未来」ってこうなのか、と思わせるような決まりきったイメージを抱いていたが、セットも衣装も、まさに「今」。今震災がこの東京を襲ったら、きっとこういう光景がそこかしこに見られ、私たちはこんなふうに生活するんだろう。悲惨な状況があり、その一方で、今までとなんら変わらない日常があって、くだらない会話や呑気な言葉がかわされたりする。そういう中で異常な毎日が続いていくんだろうと、そんなことを最初に感じたのです。
「近未来」は、まさに明日かもしれない、そういう危うい「未来」なのです。
★才能があるからこそ、人を裏切りたくなる?
ミーハーは意味も含めて「芝居大好き」な私ですが、「長塚圭史作・演出」に出会ったのは意外に最近で、昨年の「悪魔の唄」が最初。土の中から舞い戻った旧日本兵の腐りかけた肉体にマジで脳天キックをくらい、そのグロテスクの極地をいきつつも最後の場面で解放された彼らを乗せた飛行機が飛び立つ音にやけに温かいものを感じてしまって以来(長い説明だけど、たぶんまったく伝わっていないと思われ)、「LAST SHOW」「桜飛沫」「ウィートーマス」(またまた、よかったら、ここも見てください)と彼を追ってきています。もともとホラーは苦手(「エクソシスト」で、もうたくさん!と思ったし、「らせん」「リング」では目を覆った指のあいまからしか映像を見ていない)。それなのに(もちろん長塚圭史はホラーの担い手ではありませんが)彼の作品の、湿った土の匂いのするグロな感じに惹かれ、今まで味わったことのない「後ろめたい(?)おもしろさ」に笑いころげ、気持ち悪さに一瞬小さな悲鳴をあげてのけぞリ…、それが長塚ワールドなんだと思っていたようです。そして、そういうおもしろさ、うしろめたさ、いわゆるブラックユーモアをちゃんと受け入れて、それはそれ、現実は現実、とちゃんと分けて認識できる社会こそ健全なんだ、と思っている。
今回は『朝日新聞』紙上で長塚本人が語っているように、今までの彼の世界とは趣を変え、たたみかけるような台詞より選び抜かれた短いフレーズ、グロではなく富田演じる妹の硬質な清廉さに象徴される清潔さを私たちにつきつける。わずかに、瓦礫の下で死んでいるはずの父親(妹は父親が生きていると信じて、信じたくて?、瓦礫の下の父親に食料を送り続けているのだが)の腕が穴からニョキッと出てきたときに、いやいや、これですむはずがない、陰惨な父親の現実の姿が突然出てくるかもしれない、などと思ってしまったが。
結局、たぶん多くの人が、長塚の作品といえばブラックユーモアとグロを思い描いているのではないだろうか。その中で、あえてその部分をオブラートに包んで、というより路線からはずれて新しい空気を求めたところに、ああ、才能のある人はこうやって自分のイメージや人の勝手な期待をいとも軽やかに乗り越えてしまうんだな、と納得したのです。持ち味をマンネリを恐れずに踏襲し、その中で新たなものを模索するやり方も、私には見事な歩き方に思えるけれど。
●僭越ながら(笑)「人物評」を
兄の近藤芳正の抑えた雰囲気が台詞をウソっぽいものにしない大きな役割を担っている気がする。一見穏やかそうにみえるけれど、実は傾きかけたビルを見上げながら暮らしているここにいるのが怖くて、でもここを一歩でも出たら二度と自分は妹のいるここに戻ってこないだろうということもわかっていて、それを最も恐れている。そういう屈折した思いから逃れるために酒に頼っているのだが、でも破滅の道を歩みそうにはないなと安堵できる安定さをもった悲しい常識人なのかもしれない。作家の一ノ瀬との軽妙なやりとりもあり、こいつはどのくらい深く考えているのか、と不明な点も一つの人物像なのか。新作だしね、再演のときにはもっと輪郭の際立った兄になっているかもしれません。
富田靖子はめっちゃ華奢な女優さんです(そこから入るか?)。ツレが「顔、ちっちぇー!」とあとで愛をこめてつぶやいていました(笑)。一昨年夏に観た「ママがわたしに言ったこと」でも、清潔で傷つきそうな精神を内に秘めた若い女性を演じていたが、この妹もある面で共通する鮮烈なイメージをもっている。
この妹は今、崩れた家の前の日の当たらぬ場所に種をまき、毎日かかさず水をやって、その芽がでるのを今か今かと待ち、淡々と父親に食料を送り、健気に日常の仕事を引き受けている。危ういほど純粋すぎて、こういう人が生きていくのは大変、というのはドラマや小説の題材になりやすいのだけど、この妹にも過去がある。男を愛するがゆえに、その愛が深まれば深まるほど激しく相手を求め、たぶん求めすぎ、精神のバランスを失って相手も自分の家族をも追いつめてしまった、というキツイ過去がある。
だから、兄は妹をおいてここを出ていくことはできない。ここにいれば妹は以前よりずっと穏やかにいられるから、ここで暮らしていくしかないと思っているのだ。警官の村田は妹を愛しているが、兄は男を愛して再びバランスを崩してしまう妹を恐れている。そういう修羅場に自分が再び戻っていくことを恐れている。
結局妹はボランティアと称した売春で外に出る生活を送るようになり、そこで中国人の男性と知り合い、愛するようになっていく。関東大震災のときにそうだったと聞いたことがあるが、それと同じように、自警団なるものが中国人や韓国人、朝鮮人が暴徒と化して強盗をしているなどという風評を流して迫害し始める、という社会的な問題も多少からめつつ、妹の危なっかしい行動がだんだんあらわになっていく。
最後のシーンで、妹は兄に人を愛し始めていることを打ち明け、兄は不安な気持ちを隠しつつ「もう大丈夫だな」と問いかける。強くうなずく妹を見送ったあと、兄は父親に通じると思われていた穴に板を張ってふさいでいく。兄はきっと、妹の再生を信じたのでしょう。 その直後、駆け込んできた村田のただならぬようすをすべてを悟った兄が、今まで一歩も越えられなかった一線を越えて、妹のもとに駆けつけるところで最後の暗転となる。
ツレをはじめ観客の大半は、妹がその中国人男性とともに自警団にやられてしまったとわかったと思うのですが(それを暗示させるような自警団の横暴ぶりが何度も語られていたし)、でも私はまったく別のことを想像していました。妹はその愛する男性との間にトラブルを起こし、再び狂気の世界へと入り込んでしまったのか、と。物語のテーマが何なのかは別として、自警団云々は単なる添え物のエピソードだと感じてしまっていた私がうかつというか,読みがずれていたというか…。
そしてなにより、妹が、「実は昔、不安で愛する人の気持ちを確かめたくて、その人の部屋のあちこちにおしっこをしたことがあるんですよね」という事実を話したとき、強く思ってしまったんですよね、そんな女優・富田靖子を見てみたい、見せてくれるはずでしょっ!って(笑)。それが芝居が進行する中で徐々に大きくなってしまっていたのかもしれません。だって、そういう過去を思わせる雰囲気が、芝居のどこにも感じられないような気がして、そこが一点だけ消化不良だったのです。
●ラストシーンが教えてくれるもの
「才能のないくせにそれを自分で認められない作家」(悲しいほど最悪じゃん)一ノ瀬は、かつて担当編集者だった兄の示唆に頼りつつ、新たな作品にチャレンジする。それが芽など出るはずがないのに水をやりつづける妹の存在に触発された物語なのだが、才能など皆無であったはずの彼から、そう、まるで「泉のように」生きた言葉が生まれてくる。
そしてラストシーン。兄が妹のもとにかけつけるところで暗転した舞台が明るくなる。私の頭の中では、再び余震があってビルが崩れ、その下につぶれた兄妹の家がある…、そんな悲惨な光景ができあがっていました。だって長塚作品だもの。でも実際に目にしたのは、ほぼ変わらぬセットで、ただそこかしこに、緑の小さな植物が光の中で凛と生まれ育っていたのです。存在を誇示するわけでもなく、かといって弱々しくもなく、そう私たちが知っている雑草のようなさりげなさで。 妹の願いはこんなふうにちゃんと形になって、次の世の中につながっていたということなのか。
その印象的な光景をしばらく無言で見つめていた観客から次々に拍手が起こり、カーテンコールのないまま明かりがつき、終演のアナウンスが流れた。客席のあいまを歩いて出口への道を歩きながら、さまざまなことが頭に浮かんで消えていく。どんなふうに消化したらいいのか、言葉にしたらいいのか…そういうことを、ずっと考えながら帰りの電車に乗り、そして今もこのパソコンの前にいるような気がしてならない。
●ひょっとして長塚作品のファンとしては優等生ではないかもしれない私?
…と長い見出しですが(笑)、決して、この作品がおもしろくなかったというわけではないのです(誤解のないように)。新作なのできっと課題は残ったのでしょうが、でも台詞は生き生きしていたし、5人の登場人物はそれぞれにちゃんと実体はあったし(うまく言えないけど、これが私の基本なんです)。
たぶんほかの人の作品なら、文句なく「おもしろかった」と言えちゃうんだろうな。あるいは長塚作品をもっと初期の頃からたっぷりと堪能していたら。私は彼の作品の初心者なんだ、まだまだ。だってまだ5作目だもの。まだ、あの不思議にバランスのとれた、でも「勘弁してよ」と言いたくなる「のけぞりグロ」な長塚ワールドに浸っていたいだけなんだろう、もうちょっとの間。だから、テーマはなに? 何を表現したかったのだろう、とか、普通に思うことを彼の作品では考えたくないんだな。そんなことを超越して、「まいったなー」とまず思えることが大事だったりする。そういう要素が今回は薄かったような気がするだけです。
ま、初心者というより、優等生ではない証拠かも。実は、長塚ワールドの魅力のほんの発端しかわかっていないのかもしれないし。そうだとしたら、それはそれでうれしいことです。これから知ることのできることがまだたくさんあるってことだし。
とりあえず11月の「イヌの日」の再演、そして次の新作を待っています!
観劇からすでに10日が過ぎています。それでも鮮烈にきちんと記憶に残っている台詞があるということで、基本的には脱帽です。
そうそう、たった一点だけ、兄が一ノ瀬との会話で使ったタイトル名「アジアの女」。それが私の中できちんと咀嚼できなかったためか、このタイトルの持つ意味がイマイチわかりません。ほら、私としては、長塚作品では、タイトルの意味なんて考えてはいけないんですけどね(笑)。