■原爆は容赦しない
こまつ座の舞台「父と暮せば」をずっと観たかったのだが機会を逸し、映画「父と暮せば」公開時にも同じようになぜか機会を逸し、やっとのことでGW中にDVDを観ることができた。会いたかった恋人にやっとめぐり合えた心境、とは陳腐な表現だが。
実際に芝居のほうは観ていないのだが、この映画はまるで舞台の上で行われているように、映像が静かに静止したり、大事なものを抱えるようにひそかに動く感じ。原田芳雄と宮沢りえががっぷり四つに組んだ光る作品だ。
広島弁が小気味よくリズミカルで、コケティッシュな(ちょっと誤解される形容かもしれないけど)魅力がある。 公開当時にコピー「おとったん、ありがとありました」を聞いたときは、ただかわいらしいなと感じただけだったが、このフレーズにこめられた娘の思いがいかに残酷でいかに悲しいものか、はじめてわかった。
原田芳雄扮する父親は、後ろめたさを背負い、自分は人を愛してはいけないのだと頑なに思う娘をまるで恫喝するかのように励まし、怒り、そして深い思いで娘の背中を押す。なんて優しい恫喝なんだろう。そして、「むごいのう、むごうのう」とくり返し嘆く言葉は怒りというより悲しさを感じさせる。
宮沢りえ扮する娘は、賢く美しく率直で、図書館での仕事に前向きながらも、清廉で不器用さゆえにか、地獄のような状況から生き残った自分をどんどん追い込んでいく。彼女が語る友人の最後や、父親を救えなかった事実を知っても、この娘が原爆後の三年間をどんな思いで生きてきたのか、それは私の想像をはるかに越える苦悩の日々だっただろうと思う。
最近はいろいろきな臭い議論がなされたり、安易に「愛国心」を植え付けようとする動きが見え隠れしている。国のトップは理屈をつけて靖国参拝を続け、国民の迷いに耳を傾けることすらしない。
けれど、どんなに月日が過ぎても、戦争犯罪者に変わりはない。どんなに政治的な難しさがあったとしても、どんな事情があったとしても、その汚名は消してはならない。ふつうの犯罪とは違うのだ。今後二度とこういう悲劇が引き起こされないためにも、それだけははっきりさせておきたい。
犠牲者と犯罪者が一緒にまつられているところに「行くのは勝手でしょ」と言うだけで深い議論も説明もない人たちに、あの戦争は何を教えたのだろう、何を教えなかったのだろう。
犠牲者の多くに声があったなら、彼らはこう言うにちがいない。参拝に来るとか来ないとか、そんなことより、もっと大事なことがあるんじゃないの?と。
あの父親はきっと二度と現れないだろう。たった一度娘を助けるためにこの世に戻ってきただけなのだ。父親が消えていった先をふっと見やる娘のきれいな悲しそうな目が、そう言っていたような気がする。
むごい状況にあって、父と娘のこまやかな思いやりが美しい。けれど、その美しさは悲しく残酷なものだ。戦争の上にあっては、どんなにすばらしいものでも、悲しみ以上の意味はもたない。
あの娘はかろうじで生き残ったが、あのあとはどうだっただろう。図書館で出会った青年(浅野忠信)と幸せに暮したかもしれないが、被爆しているのだから、その後発病したかもしれない。原爆は生き残った者をも容赦しなかったのだから。
原爆の唯一の体験国として、イランやインド、北朝鮮などの怪しい動きに対して、ほかの国とは明らかに異なる深い重い対応を起こしてもいいのに、いや起こすべきなのに、何もしないこの国が恥ずかしい。
この父娘をはじめ、こんな普通の市井の人々の犠牲の上に、私たちは生きているのか。そう思うとやりきれない。
ちなみに、私の好きな映画に「竜馬暗殺」というのがあります。その映画が「戦争レクイエム三部作」をつくり、先日亡くなった黒木和雄監督の作品だということを、今回はじめて知りました(恥)。
時代劇、歴史劇というよりむしろ、竜馬が暗殺される前二日間を描いた破天荒で「せつない」(表現に困るとすぐに「せつない」という形容詞を使ってしまう、ボキャブラリー不足の私)青春ドラマだったように思います。だいぶ前に観たのでおおかた忘れているんですが、でもかっこよくて単純におもしろい映画でした。
もう一度DVDで観てみたいのですが、感性が衰えていて、観てもおもしろいとおもわなかったらどうしようと思うと、観るのが怖いんです。そういう映画が、これ以外に何本かあるんだな。
こまつ座の舞台「父と暮せば」をずっと観たかったのだが機会を逸し、映画「父と暮せば」公開時にも同じようになぜか機会を逸し、やっとのことでGW中にDVDを観ることができた。会いたかった恋人にやっとめぐり合えた心境、とは陳腐な表現だが。
実際に芝居のほうは観ていないのだが、この映画はまるで舞台の上で行われているように、映像が静かに静止したり、大事なものを抱えるようにひそかに動く感じ。原田芳雄と宮沢りえががっぷり四つに組んだ光る作品だ。
広島弁が小気味よくリズミカルで、コケティッシュな(ちょっと誤解される形容かもしれないけど)魅力がある。 公開当時にコピー「おとったん、ありがとありました」を聞いたときは、ただかわいらしいなと感じただけだったが、このフレーズにこめられた娘の思いがいかに残酷でいかに悲しいものか、はじめてわかった。
原田芳雄扮する父親は、後ろめたさを背負い、自分は人を愛してはいけないのだと頑なに思う娘をまるで恫喝するかのように励まし、怒り、そして深い思いで娘の背中を押す。なんて優しい恫喝なんだろう。そして、「むごいのう、むごうのう」とくり返し嘆く言葉は怒りというより悲しさを感じさせる。
宮沢りえ扮する娘は、賢く美しく率直で、図書館での仕事に前向きながらも、清廉で不器用さゆえにか、地獄のような状況から生き残った自分をどんどん追い込んでいく。彼女が語る友人の最後や、父親を救えなかった事実を知っても、この娘が原爆後の三年間をどんな思いで生きてきたのか、それは私の想像をはるかに越える苦悩の日々だっただろうと思う。
最近はいろいろきな臭い議論がなされたり、安易に「愛国心」を植え付けようとする動きが見え隠れしている。国のトップは理屈をつけて靖国参拝を続け、国民の迷いに耳を傾けることすらしない。
けれど、どんなに月日が過ぎても、戦争犯罪者に変わりはない。どんなに政治的な難しさがあったとしても、どんな事情があったとしても、その汚名は消してはならない。ふつうの犯罪とは違うのだ。今後二度とこういう悲劇が引き起こされないためにも、それだけははっきりさせておきたい。
犠牲者と犯罪者が一緒にまつられているところに「行くのは勝手でしょ」と言うだけで深い議論も説明もない人たちに、あの戦争は何を教えたのだろう、何を教えなかったのだろう。
犠牲者の多くに声があったなら、彼らはこう言うにちがいない。参拝に来るとか来ないとか、そんなことより、もっと大事なことがあるんじゃないの?と。
あの父親はきっと二度と現れないだろう。たった一度娘を助けるためにこの世に戻ってきただけなのだ。父親が消えていった先をふっと見やる娘のきれいな悲しそうな目が、そう言っていたような気がする。
むごい状況にあって、父と娘のこまやかな思いやりが美しい。けれど、その美しさは悲しく残酷なものだ。戦争の上にあっては、どんなにすばらしいものでも、悲しみ以上の意味はもたない。
あの娘はかろうじで生き残ったが、あのあとはどうだっただろう。図書館で出会った青年(浅野忠信)と幸せに暮したかもしれないが、被爆しているのだから、その後発病したかもしれない。原爆は生き残った者をも容赦しなかったのだから。
原爆の唯一の体験国として、イランやインド、北朝鮮などの怪しい動きに対して、ほかの国とは明らかに異なる深い重い対応を起こしてもいいのに、いや起こすべきなのに、何もしないこの国が恥ずかしい。
この父娘をはじめ、こんな普通の市井の人々の犠牲の上に、私たちは生きているのか。そう思うとやりきれない。
ちなみに、私の好きな映画に「竜馬暗殺」というのがあります。その映画が「戦争レクイエム三部作」をつくり、先日亡くなった黒木和雄監督の作品だということを、今回はじめて知りました(恥)。
時代劇、歴史劇というよりむしろ、竜馬が暗殺される前二日間を描いた破天荒で「せつない」(表現に困るとすぐに「せつない」という形容詞を使ってしまう、ボキャブラリー不足の私)青春ドラマだったように思います。だいぶ前に観たのでおおかた忘れているんですが、でもかっこよくて単純におもしろい映画でした。
もう一度DVDで観てみたいのですが、感性が衰えていて、観てもおもしろいとおもわなかったらどうしようと思うと、観るのが怖いんです。そういう映画が、これ以外に何本かあるんだな。