※「神子屋教育の礎」※
学校へ行きたがらない子供たち(登校拒否・ひきこもり等)や昨今のいじめや自殺、今なお止む事のない子供たちの生命に関わるあらゆる事件事故、そういった社会的問題現象の奥底には、私たち大人のそして社会全体の「生命に対する姿勢」が問われているのではないかと感じています。
大袈裟ではなく、砂が指の隙間からどんどんこぼれ落ちてしまうような、今日の生命に対する扱われ方の現状に、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」などと大人たちは必死に子供たちに訴え、子供たちの生命に関わる事件事故に対して「生命を守ろう!」と躍起になって叫びます。
しかし、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」と子供たちに訴えるその前に、まず大人たち(先生、親、社会人・・)がそれを実践すること、その姿を子供たちに見せることこそ大切な事だと思うのです。
「生命を守ろう!」そう言う大人たちが、無抵抗な一番弱い子供である赤ちゃんの生命を殺し(堕胎中絶=殺人)、動物生命を殺して肉を喰らい(人間自己中心の欲求)、小さな虫たちの生命を尊ぶことなく平気で殺しています(殺生)。
更に、そういった価値観や意識をもつ大人たち(先生/指導者)に、子供たちは教育を受けています・・・。
悲しいですが、それが今の社会の現状だと思います。
家庭においては親が教師の役目を果たします。
我が家の場合は生命尊重、生命礼拝の姿勢で子供を教育しております。
そういった意味からすれば、彼女にとって家庭教育と学校教育での内容にギャップを感じるのではないかと思います。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫そう泣き叫び訴える彼女は、その当たり前の違和感を素直に直感的に訴えているように感じます。
母親である私も、彼女のその訴えには理解が出来るのです。
純粋で素直で、平和で調和した心を持つ子供たちが、それに反する世界に触れるとき、直感的に抵抗を感じるのは当然だと思います。
また、そのような純粋な子供心を大切に育ててあげることが、子供の教育にとってとても大切なことだと思うのです。
これまでのように私が彼女の嫌がる手を無理やり引き離し、学校へ我慢させて行かせた場合、後々取り返しのつかない問題点が残ることも考えられると思うようになってきました。
たとえば、自分(の感覚や違和感)を犠牲にし我慢して、母親の喜ぶこと(学校へ行く)を無理にすることを身に付け、自分を偽ることを覚えてしまうと、「人生は自分を押し殺し〝犠牲〟や〝我慢〟が必要である」との間違った人生観を教育することになると思います。
たとえば、「あなただけではないんだよ、みんなも我慢しているんだよ」と学校へ行かないというその行動を、みんなと違うんだという理由で抑え込もうとすれば、「みんなと同じように我慢できない自分はダメで〝おかしい子〟で〝悪い子〟なんだ」と、自分の個性的な感覚的行動を自身で責めてしまう心を育てることになります。
(2007/06/02掲載文)
学校へ行きたがらない子供たち(登校拒否・ひきこもり等)や昨今のいじめや自殺、今なお止む事のない子供たちの生命に関わるあらゆる事件事故、そういった社会的問題現象の奥底には、私たち大人のそして社会全体の「生命に対する姿勢」が問われているのではないかと感じています。
大袈裟ではなく、砂が指の隙間からどんどんこぼれ落ちてしまうような、今日の生命に対する扱われ方の現状に、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」などと大人たちは必死に子供たちに訴え、子供たちの生命に関わる事件事故に対して「生命を守ろう!」と躍起になって叫びます。
しかし、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」と子供たちに訴えるその前に、まず大人たち(先生、親、社会人・・)がそれを実践すること、その姿を子供たちに見せることこそ大切な事だと思うのです。
「生命を守ろう!」そう言う大人たちが、無抵抗な一番弱い子供である赤ちゃんの生命を殺し(堕胎中絶=殺人)、動物生命を殺して肉を喰らい(人間自己中心の欲求)、小さな虫たちの生命を尊ぶことなく平気で殺しています(殺生)。
更に、そういった価値観や意識をもつ大人たち(先生/指導者)に、子供たちは教育を受けています・・・。
悲しいですが、それが今の社会の現状だと思います。
家庭においては親が教師の役目を果たします。
我が家の場合は生命尊重、生命礼拝の姿勢で子供を教育しております。
そういった意味からすれば、彼女にとって家庭教育と学校教育での内容にギャップを感じるのではないかと思います。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫そう泣き叫び訴える彼女は、その当たり前の違和感を素直に直感的に訴えているように感じます。
母親である私も、彼女のその訴えには理解が出来るのです。
純粋で素直で、平和で調和した心を持つ子供たちが、それに反する世界に触れるとき、直感的に抵抗を感じるのは当然だと思います。
また、そのような純粋な子供心を大切に育ててあげることが、子供の教育にとってとても大切なことだと思うのです。
これまでのように私が彼女の嫌がる手を無理やり引き離し、学校へ我慢させて行かせた場合、後々取り返しのつかない問題点が残ることも考えられると思うようになってきました。
たとえば、自分(の感覚や違和感)を犠牲にし我慢して、母親の喜ぶこと(学校へ行く)を無理にすることを身に付け、自分を偽ることを覚えてしまうと、「人生は自分を押し殺し〝犠牲〟や〝我慢〟が必要である」との間違った人生観を教育することになると思います。
たとえば、「あなただけではないんだよ、みんなも我慢しているんだよ」と学校へ行かないというその行動を、みんなと違うんだという理由で抑え込もうとすれば、「みんなと同じように我慢できない自分はダメで〝おかしい子〟で〝悪い子〟なんだ」と、自分の個性的な感覚的行動を自身で責めてしまう心を育てることになります。
(2007/06/02掲載文)