※「神子屋教育の礎」※
「学校へ行きたくない」そう思う最大の理由について。
彼女が見せてくれたさまざまな表現と実体験から、「学校へ行きたくない」そう思う最大の理由は2つあると、私は考えるに至りました。
それは≪子供と学校との信頼関係≫と、≪子供と母親との信頼関係≫です。
1.≪子供と学校との信頼関係≫
子供への教育は「子供に内在する生命力(個性的無限の能力)を、如何に引き出すか」ということが本質であると思います。その点において、学校という施設の存在は実に素晴らしく、私たち親にとっても大変有り難いものだと痛感しております。
さまざまな専門分野の教養を身に付けられた先生方、図書室や運動場や体育館等のさまざまな施設、長年の教育的ノウハウ、・・・これらを備えた学校という施設は子供の教育に最も相応しいところです。
この素晴らしい教育施設で子供達が喜んで楽しく学び、そこで自分自身の個性的な能力を最大限に見出し、さらに社会に出て人類のお役に立つ有意義な人間に育成されることは、学校の大きな使命だと思います。
しかし、問題は子供がその学校へ〝喜んで〟行き、〝喜んで〟学んでいるか、ということかと思います。
人間は子供でも大人でも、〝喜んで〟学んだり仕事をするのでなければ、その人の潜在的な能力は引き出されることも発揮されることも少ないと思います。
〝喜んで〟学校へ行き、〝喜んで〟勉強するのでなければ、子供の学習意欲は湧かず、その子にしかない素晴らしい生命力(個性)が萎縮してしまうことになりかねません。
当初、「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」・・・そう先生方は仰って下さいました。・・・私もそう思っていました。
そう思えばこそ、私は「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」に焦点を合わせ、無理やり嫌がる彼女の手を引き離して来ました。
でも、やはりそれには無理があって自然ではありません、“不自然”だと感じます。
なぜ彼女は〝喜んで〟行かないのか?
そこにこそ、問題が潜んでいるのだと気が付きました。
〝喜んで〟行かないのには、それなりの理由が必ずある筈です。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫
そう泣き叫び訴える子供は、暗に次のようなことを私たちに教えてくれているのではないだろうかと感じています。
学校は本来、子供にとって精神的にも環境的にも「安心」で「楽しい」場所の象徴である筈です。しかし、子供の心の世界ではもはや学校はそういう場所ではなくなってしまっています。そういう意味からも、学校になんらかの問題があると感じられます。
それはまた、学校(及び社会全体)が抱えている重大かつ深刻な問題から来ていると思います。
現状の教育現場では肉体人間としての表面的な教育は為されていますが、人間が霊的実在の生命であるということの教育が為されていません。
これは本質的に教育者自身が、「人間が如何なるものであるか」という人生における根本的な問題について、如何に考えているかということに起因していると思います。
子供たちにとって、学校において一番感化されるのは〝先生〟です。
勿論、学校のお友達も大切ですが、それらの子供たちに対して最も影響力を持っているのも、やはり〝先生〟だと思います。
その〝先生〟が如何なる人生観人間観を持って生徒に接しておられるのか。
このことが大変大切なことであり、先生の人格からにじみ出る雰囲気が、子供たちを引き付ける〝魅力〟となり、子供が喜んで学校に行き、勉強する下地を作っているのではないかと思うのです。
子供にとっては〝先生〟が〝学校〟なのです。
ヘレン・ケラーの内在の無限力を信じ、愛し、引き出したのは、サリバン先生の力です。サリバン先生という素晴らしい存在が無ければ、ヘレン・ケラーは世に出ることは無かったでしょう。
サリバン先生の忍耐強く深い愛をヘレンは感じ取り、またそれに応えようとするヘレンのサリバン先生への信頼と愛があったからこそ、奇跡は起きたのだと学びました。
逆に、赤子の時に〝狼〟に育てられた少年は、その後人間に保護されましたが、一生言葉を覚えず、自分は〝狼〟であると信じて四足で歩き、人間には戻らなかったといいます。
子供の教育にとって、特に〝先生〟の存在は子供たちに絶対的な影響力を及ぼすものと思われます。
(2007/06/02掲載文)
「学校へ行きたくない」そう思う最大の理由について。
彼女が見せてくれたさまざまな表現と実体験から、「学校へ行きたくない」そう思う最大の理由は2つあると、私は考えるに至りました。
それは≪子供と学校との信頼関係≫と、≪子供と母親との信頼関係≫です。
1.≪子供と学校との信頼関係≫
子供への教育は「子供に内在する生命力(個性的無限の能力)を、如何に引き出すか」ということが本質であると思います。その点において、学校という施設の存在は実に素晴らしく、私たち親にとっても大変有り難いものだと痛感しております。
さまざまな専門分野の教養を身に付けられた先生方、図書室や運動場や体育館等のさまざまな施設、長年の教育的ノウハウ、・・・これらを備えた学校という施設は子供の教育に最も相応しいところです。
この素晴らしい教育施設で子供達が喜んで楽しく学び、そこで自分自身の個性的な能力を最大限に見出し、さらに社会に出て人類のお役に立つ有意義な人間に育成されることは、学校の大きな使命だと思います。
しかし、問題は子供がその学校へ〝喜んで〟行き、〝喜んで〟学んでいるか、ということかと思います。
人間は子供でも大人でも、〝喜んで〟学んだり仕事をするのでなければ、その人の潜在的な能力は引き出されることも発揮されることも少ないと思います。
〝喜んで〟学校へ行き、〝喜んで〟勉強するのでなければ、子供の学習意欲は湧かず、その子にしかない素晴らしい生命力(個性)が萎縮してしまうことになりかねません。
当初、「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」・・・そう先生方は仰って下さいました。・・・私もそう思っていました。
そう思えばこそ、私は「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」に焦点を合わせ、無理やり嫌がる彼女の手を引き離して来ました。
でも、やはりそれには無理があって自然ではありません、“不自然”だと感じます。
なぜ彼女は〝喜んで〟行かないのか?
そこにこそ、問題が潜んでいるのだと気が付きました。
〝喜んで〟行かないのには、それなりの理由が必ずある筈です。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫
そう泣き叫び訴える子供は、暗に次のようなことを私たちに教えてくれているのではないだろうかと感じています。
学校は本来、子供にとって精神的にも環境的にも「安心」で「楽しい」場所の象徴である筈です。しかし、子供の心の世界ではもはや学校はそういう場所ではなくなってしまっています。そういう意味からも、学校になんらかの問題があると感じられます。
それはまた、学校(及び社会全体)が抱えている重大かつ深刻な問題から来ていると思います。
現状の教育現場では肉体人間としての表面的な教育は為されていますが、人間が霊的実在の生命であるということの教育が為されていません。
これは本質的に教育者自身が、「人間が如何なるものであるか」という人生における根本的な問題について、如何に考えているかということに起因していると思います。
子供たちにとって、学校において一番感化されるのは〝先生〟です。
勿論、学校のお友達も大切ですが、それらの子供たちに対して最も影響力を持っているのも、やはり〝先生〟だと思います。
その〝先生〟が如何なる人生観人間観を持って生徒に接しておられるのか。
このことが大変大切なことであり、先生の人格からにじみ出る雰囲気が、子供たちを引き付ける〝魅力〟となり、子供が喜んで学校に行き、勉強する下地を作っているのではないかと思うのです。
子供にとっては〝先生〟が〝学校〟なのです。
ヘレン・ケラーの内在の無限力を信じ、愛し、引き出したのは、サリバン先生の力です。サリバン先生という素晴らしい存在が無ければ、ヘレン・ケラーは世に出ることは無かったでしょう。
サリバン先生の忍耐強く深い愛をヘレンは感じ取り、またそれに応えようとするヘレンのサリバン先生への信頼と愛があったからこそ、奇跡は起きたのだと学びました。
逆に、赤子の時に〝狼〟に育てられた少年は、その後人間に保護されましたが、一生言葉を覚えず、自分は〝狼〟であると信じて四足で歩き、人間には戻らなかったといいます。
子供の教育にとって、特に〝先生〟の存在は子供たちに絶対的な影響力を及ぼすものと思われます。
(2007/06/02掲載文)