神子屋教育🇯🇵(かみこやきょういく)

我が家流/みみかとママの「おうち」教育

神子屋教育の場/我が家

2014年04月21日 | 不登校
※「神子屋教育の礎」※

神子屋教育の場である我が家では「生命礼拝・尊重・祝福」の「生命教育」、そして「神の御心のままに(大いなる自然の力に)」全托の姿勢が基本です。

・全ての人間は、神の子であり仏の子であり、神性たるもの仏性たるものが宿る霊的な生命的な存在である。

・この世界は愛や光や善のみの素晴らしい実在であって、愛を知るため・愛を表現するため・愛を体験するために全ては存在している。

・自分の目の前に現れる全てのものは、自分のために何かを教えて下さる観世音菩薩様の展開であり、個個は全体の生命の一部であり自他一体の繋がった生命の世界である。

・『思ったとおりになる』世界であり、自分の想念が自分の世界を創り出している、従って全ては『自己の責任』である。

・地球にとって人類にとって自分にとっての純粋なる奉仕活動は、自己の魂に純粋に誠実にそして潔く、真理に根ざした生活を実践することである。

これらが、我が家の基本姿勢であり生き方であり教育となっています。
私とみみか、そしてジジバァバと一緒に生活をするようになった、この素晴らしい神子屋教育の場/我が家への導きも、「神の御心のままに(大いなる自然の力に)」全托の基本姿勢から始まっています。

みみかが生まれた当時、私たちは父母のいる実家で暮らしていました。
しかし、みみかが一歳のころ『自然のある田舎で暮らしたい!』そんな思いが私の中で湧き起こりました。
漠然とした思いのまま、私とみみかが暮らすための家探しが始まりました。
何の当てもなくただ心の赴くまま家探しをする私たちでした。
これと言ったいい所が見つからず、ある日辿り着いた神社に向かって「一番いい所へお導き下さい」と祈りを捧げました。
すると、程なく私とみみかが住むべき家に辿り着きました。
その家は今の我が家と同じ地域にあり、私が心で描いていた条件とほとんど合致していて、みみかと暮らすには十分でした。
また、その地域はどうしてだか分からないけれど、過去に無性に惹かれるものを感じたことのある地域でもありました。
気が付けば、私は知らず知らずその場所へと導かれていたのでした。
その家を真理に根ざした拠点にしたいと私は願い、そこで数年を過ごしました。

実家で暮らしていたころも今ほどではありませんが、すでに父の認知症の症状はありました。
父の認知症に対する原点となっている私の思い『関係性を超えて』にもあるように、最初は受け入れること自体が難しく悲しく切なかった私でした。
ですが、父のそのままありのままを受け入れ、一人の人間として彼を愛することを目指した私の姿勢は、実家を出てからもずっと変わることはありませんでした。

やがて、父のさまざまな症状が見え始め、母のストレスも感じられるようになってきました。
自然があるわけでも特別な施設があるわけでもない実家で、母のいない一人きりの時間を過ごすより、環境的にも私たちの住む地域の方が父には良いように私は感じていました。
それに、話し相手のいない父にとって、みみかといるということがどれほど大きな喜びになるか分からないと、私には思えていました。
この先、父の症状もどのように変化するのか予想も出来ず、母にとっても仕事を持ちながらの父のお世話はかなり難しくなってくるだろう。
もしかしたら、父の下のお世話をしなくちゃいけない日がやって来るかも知れない・・。
そんな想像をしながら考えあぐね、「娘として父の生活のお世話をしたい!」「母の負担を軽くしてあげたい!」そう思う日々を重ねていました。
やがて、私の心の奥底から魂の叫びといわんばかりに、『父母と一緒に暮らして親孝行がしたい!』そんな思いが溢れ出して来ました。
(2007/07/18掲載文)


『父母と一緒に暮らして親孝行がしたい!』。
このような気持ちになり得た私に今出来ること・・、それをしてあげたい!
私の内にそういう強い願いが起こりました。
その上どういう訳か、私のこういった気持ちを何も知らないはずのみみかが、「ジジとバァバもこっちに来ればいいのに」とか「みんな一緒に住めたらいいのに」などと、突如言い出しました。

私は、父に対し『お父さんのため』という言い方を使わず、「お父さんが一緒に居てくれたら、みみかの学校の送り迎えやらを見てもらえて助かる」という具合に、みみかの思いをこれ幸いとばかりに、口実に使わせてもらい誘っていました。
父は、いくら症状があってもプライドだけは強く持っている人です。
その父のプライドは、基本的に尊重すべきものだと私は思っていましたので、『お父さんのため』とか『お父さんのことで・・』とかは、決して使わない方が良いと思っていました。
それに、実際のところの中心となるものは、『父の生活のお世話をしたい!という私のため』であったのですから。

何度も父母に「こちらにおいでよ」「一緒に住もうよ」と言いますが、その当時父は首を縦には振りませんでした。
母も、利便性を追求する気持ちからと、みんなで暮らすには手狭な当時の家に対し、乗り気になれずにいました。
今思うとそのころの母は、現在よりはまだマシだったその当時の父の症状を、余り深く考えず重く受け止めていなかったように思います。
しかし、私は自分の奥底から出てくる純粋な願いと感覚に従い、「神の御心のままに(大いなる自然の力に)」全托の姿勢で祈りました。

『神の御心にかなった素晴らしい家がすでに与えられております。ありがとうございます!』と、私は大きな紙(神)に書いて、常に自分の目に触れる場所に貼り付けました。
父母にとって私たちにとって全てにとって、一番善い道が必ずあることを私は信じ、そしてそれはすでに今此処にあることを確信して、私は祈り続けました。
神様にただただお任せでした。
すると、発願してから半年も経たないうちに、私は今の我が家に移り住むことになったのでした。
(2007/07/19掲載文)


発願し御心のままに任せ祈り続けた私は、あれよあれよと不思議な経緯で、今の我が家に辿り着きました。
それは、昔ながらの集落の一角にあり、地形的に家の前をほとんど誰も通らない、静かな隠れ家的な雰囲気をもつ古家。
主を失って野放し状態の庭には、様々な木々に様々な草花や果樹、季節ごとに芽吹く山野草や訪れる可愛い小鳥達。
大きな窓から庭を眺める時、本当に静かで穏やかで、時間がゆっくり流れているのか、はたまた止まっているのか・・。
私たちは、そういった素晴らしい家に迎え入れられたのでした。

実際問題、多くのお金を持たない私たちに、神様は素晴らしい協力者を与えて下さり、いろいろな幸せな工夫や方法を考え出す知恵を授けてくれます。
正式に我が家に住むことになるにも、本当に不思議な神様の計らい事の連続でした。
それに、我が家に住むには、当初最低限の修繕が必要でした。
最小限の金銭しか使えない私たちは、ある程度は自力でリフォームしましたが、昔ながらの壁の修繕には頭を悩ましていました。
そんな折、ひょんな事から知り合った方の紹介を通じ、ご縁あった方に頼むことにしました。
それぞれの知り合うタイミングの良さにも驚きましたが、一番驚いたのは、格安でお願いする私たちに対し、彼は「神様に言われて来ました」「やれるだけやってあげなさいと言われました」と、我が家の修繕を引き受けるに至った経緯をお話されたのです。
彼は深い信仰心をお持ちの方で、通って来て下さっている間、いろいろと楽しいお話を聞かせて下さいました。

いろんな不思議な神様の働きによる導きに、当初から私はこの家を、自分の所有物だとは思っていませんでした。
しかし、このような出会いに、私はさらに神様の手配を感じずにはいられませんでした。
まさしくこの家は『神様の家』、真理に根ざした生活をする場の家なのだと、私は思いを深めて行きました。
そして、実際、今こうして『神子屋教育』という神様の導きで、私は尊いかけがえのない素晴らしい体験をさせて頂いているのです。
それは、父も母もみみかも同じで、それぞれにしか織り成せない、素晴らしい世界を紡ぎ出し展開させているのです。

本当は、すべての『我が家』がそんな場であり、そこで紡ぎ織り成される曼荼羅は、素晴らしい神様の世界なのかも知れません。
(2007/07/20掲載文)
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