※「神子屋教育の礎」※
私は過去に、鬱になった経験があります。
鬱になり死ぬほどの苦しみを体験した私は、そんな風になってしまうような私を育てた常識枠や刷り込み的価値観を教えた学校教育システムをとても憎みました。
もっと自由に個性のまま、ありのままの私を出させてくれなかった、型にはまった従来の教育現場のあり方、そういった現存の学校システムや社会を嫌いました。
私はある意味では“いい子”でした。
その時代時代にある価値観を私はそのまんま吸収しました。
「我慢はするものだ。犠牲は払うものだ。誰かが得をすれば誰かが損をする。自分が生きようと思えば誰かが死ぬ。等々。」そんな限定された有限的な感覚や価値観を、素直で純粋な私は何の疑いもなく受け入れて来ました。
しかし、事有るごとに、教えられたことと自分の心の奥底に感じる純粋なものとの矛盾や違和感に、いつしか自分の力では処理出来なくなっていき、この世での生き辛さに私の心は死んでしまいました。
しかし、私は真理を知りました、愛(神様)を知りました、この世界の本当の姿を知りました。
私の心臓を動かす、滞ることない自然なリズム。
朝が来て夜が来て、また朝が来て夜が明ける、繰り返される自然な流れ。
そんな当たり前な自然な力に私は生かされている!私は愛であって生命である!
だったら、私はこの世を生きられる!!そう思いました。
私はただ、“無知”だったのです、無知な人間は苦しみます。
無知でありながら素直で純粋な人間は結果的にはこの世を生きては行けません。
私のように鬱になり苦しみ、自らの生命を絶つ人たちが出てきてしまいます。
〝もう、これ以上子供たちを殺してはいけない!〟と強く思いました。
〝すべての人間は本当の真理を知るべきだ!学ぶべきだ!!〟そのように強く思いました。
学校という教育現場で行われるべきは、真理を教えることが最も重要な課題だと思います。
生命、愛、光を、子供たちに教えるべきではないでしょうか。
人間は素晴らしい存在なのだと、「あなたは素晴らしい生命なのだ」と。
そうでないと、「人間とは?自分とは?」という人間として本質的な素晴らしい疑問が、本当に虚しいだけのただの疑問で終わってしまうことになりかねず、自他共の生命(いのち)を粗末に扱える人間になってしまうことも考えられると思うのです。
子供にとって先生は学校であり、学校は社会であります。社会は人間一人一人の想念の産物だと考えるならば、問題のある子供は究極、現社会を創り出している人間やその象徴である先生や学校を恐れ、不安を感じ不信感を抱いているのだと思うのです。
そういった意味を教えてくれるために、学校や社会に出ることが出来ないような登校拒否やひきこもり、働けない者たちに姿を変え、問題提議をしてくれているのではないかと思います。
≪子供と学校との信頼関係≫において大切なことは、子供たちが安心して頼れる「生命を大切にする大人」との関係を構築することが、一番大事なのではないだろうかと思います。
「生命を大切にする大人」そういった大人(先生、親、社会人・・)との関係において初めて、子供たちは安心し信頼を寄せ、そういった大人たちの創る学校や社会に明るく楽しく生きられるのではないでしょうか。
(2007/06/02掲載文)
私は過去に、鬱になった経験があります。
鬱になり死ぬほどの苦しみを体験した私は、そんな風になってしまうような私を育てた常識枠や刷り込み的価値観を教えた学校教育システムをとても憎みました。
もっと自由に個性のまま、ありのままの私を出させてくれなかった、型にはまった従来の教育現場のあり方、そういった現存の学校システムや社会を嫌いました。
私はある意味では“いい子”でした。
その時代時代にある価値観を私はそのまんま吸収しました。
「我慢はするものだ。犠牲は払うものだ。誰かが得をすれば誰かが損をする。自分が生きようと思えば誰かが死ぬ。等々。」そんな限定された有限的な感覚や価値観を、素直で純粋な私は何の疑いもなく受け入れて来ました。
しかし、事有るごとに、教えられたことと自分の心の奥底に感じる純粋なものとの矛盾や違和感に、いつしか自分の力では処理出来なくなっていき、この世での生き辛さに私の心は死んでしまいました。
しかし、私は真理を知りました、愛(神様)を知りました、この世界の本当の姿を知りました。
私の心臓を動かす、滞ることない自然なリズム。
朝が来て夜が来て、また朝が来て夜が明ける、繰り返される自然な流れ。
そんな当たり前な自然な力に私は生かされている!私は愛であって生命である!
だったら、私はこの世を生きられる!!そう思いました。
私はただ、“無知”だったのです、無知な人間は苦しみます。
無知でありながら素直で純粋な人間は結果的にはこの世を生きては行けません。
私のように鬱になり苦しみ、自らの生命を絶つ人たちが出てきてしまいます。
〝もう、これ以上子供たちを殺してはいけない!〟と強く思いました。
〝すべての人間は本当の真理を知るべきだ!学ぶべきだ!!〟そのように強く思いました。
学校という教育現場で行われるべきは、真理を教えることが最も重要な課題だと思います。
生命、愛、光を、子供たちに教えるべきではないでしょうか。
人間は素晴らしい存在なのだと、「あなたは素晴らしい生命なのだ」と。
そうでないと、「人間とは?自分とは?」という人間として本質的な素晴らしい疑問が、本当に虚しいだけのただの疑問で終わってしまうことになりかねず、自他共の生命(いのち)を粗末に扱える人間になってしまうことも考えられると思うのです。
子供にとって先生は学校であり、学校は社会であります。社会は人間一人一人の想念の産物だと考えるならば、問題のある子供は究極、現社会を創り出している人間やその象徴である先生や学校を恐れ、不安を感じ不信感を抱いているのだと思うのです。
そういった意味を教えてくれるために、学校や社会に出ることが出来ないような登校拒否やひきこもり、働けない者たちに姿を変え、問題提議をしてくれているのではないかと思います。
≪子供と学校との信頼関係≫において大切なことは、子供たちが安心して頼れる「生命を大切にする大人」との関係を構築することが、一番大事なのではないだろうかと思います。
「生命を大切にする大人」そういった大人(先生、親、社会人・・)との関係において初めて、子供たちは安心し信頼を寄せ、そういった大人たちの創る学校や社会に明るく楽しく生きられるのではないでしょうか。
(2007/06/02掲載文)