ママです。
父とみみかは観音様。
ママを磨き導く観世音菩薩様です。
ママが『ママの世界を創り生きていく』ために、目の前に現われている素晴らしい有り難い存在です!
<父に学ぶ>
散歩する愉快な認知症の父は、全然知らない人にも朝でも昼でも夕方でも、「ぉはよぉーす!」と元気にニコニコ挨拶をする。
愛想良く挨拶を返してくれる人、『誰だっけ?』と思いながらの思案顔で返してくれる人、明らかに知らん顔の人、反応は様々である。
ママの観察では、だれかれ全員にしているのではなく、彼なりに何かを基準に選んでしているようである。
挨拶を返してきてくれた時には、隣にいる私も一緒に挨拶しホッっとするのだが、知らん顔で返してもらえない時などは、私の挨拶にも当然返してもらえず父がショボンとならないだろうかと気になっていた。
しかし、当の本人は相手からの挨拶があろうが無かろうが、一向にお構い無しのご様子でスタスタと散歩の足が乱れることはない。
彼の場合、自分がしたいからやりたいから、そう心が動くからするだけなのだ。
なんとシンプルなんでしょう!
相手の顔色・反応など関係ない、自分だけの世界!
父の行動は実にシンプルで、求めているのは相手の反応ではないのだからショボンとなるはずがない。
結局のところ、ショボンの心は私の心の反応であって、挨拶を返して来てくれない相手への反応。
見返りを望む心で行動すると、返って来なかった時に起きる『ショボン現象』。
シンプルの大切さを父に学ぶ私でした。
<みみかに学ぶ>
みみかの感覚は素晴らしく明瞭である。
この点、父の『自分がしたいからやりたいから、そう心が動くからする』と完全に合致する。
だから、逆にやりたくないと思う時、その理由や言い訳が必要なくなる。
みみかが本当に嫌だと思えば、頑として動くことは無い。
そこに理由や言い訳は存在しない。
ただ『したいと思う』『したいと思わない』そのシンプルな動機だけ。
私などは、頭では理解していたつもりだったけれど、あれやこれやと今でも何かと理由や言い訳をしていることが多々ある。
たとえば、みみかに「一緒に遊ぼう!」と言われても、本当に用事があるときは別にして、『心』動かない時もある。
そういったときには、あれやこれやと理由を作り言い訳をして断っていた。
でも、それは自分の本心とは違うもの。
本当は「やりたくない」「やりたいと思わない」と言うのが本当のところ。
みみかを倣って、私もシンプルに返ってみた。
みみかのお出かけのお誘いに「行かない」と返事をすると、「どうして?」と言う。
(これは、今まで散々私が理由や言い訳をみみかに聞かせてきた結果の反応。
人は理由や言い訳を聞かないと納得しなくなるもの、そして相手の納得のために嘘や脚色いろいろな装飾をつけた理由や言い訳が必要になってきたりもする。)
「どうして?」に対して、「行きたいと思わないから」と答える。
さらに「なんで?」と聞くので、「みみかはどうして学校へ行きたくないの?」とすかさず返す。
「・・・」と、みみか。
「ね、それとおんなじだよ。どうしてかは分からないけど行きたいと思わない、ただそれだけ」と、私。
それを聞いたみみかは、感覚的に理解できるのでしょう、それ以上は誘ってきませんでした。
本音本心で自分を語ることの大切さを、みみかに学ぶ私でした。
シンプルにシンプルに、シンプルは単純なさま・簡単なようす・素朴なさま。
本音で本心で、本音は楽器から出る本物の音、本心は本来の正しい心・偽り飾らない本当の気持ち。
二人の菩薩様のお陰をもって、私は『こうなりたい自分』を常に表現出来つつあるのだと、感謝する毎日であります。
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父とみみかは観音様。
ママを磨き導く観世音菩薩様です。
ママが『ママの世界を創り生きていく』ために、目の前に現われている素晴らしい有り難い存在です!
<父に学ぶ>
散歩する愉快な認知症の父は、全然知らない人にも朝でも昼でも夕方でも、「ぉはよぉーす!」と元気にニコニコ挨拶をする。
愛想良く挨拶を返してくれる人、『誰だっけ?』と思いながらの思案顔で返してくれる人、明らかに知らん顔の人、反応は様々である。
ママの観察では、だれかれ全員にしているのではなく、彼なりに何かを基準に選んでしているようである。
挨拶を返してきてくれた時には、隣にいる私も一緒に挨拶しホッっとするのだが、知らん顔で返してもらえない時などは、私の挨拶にも当然返してもらえず父がショボンとならないだろうかと気になっていた。
しかし、当の本人は相手からの挨拶があろうが無かろうが、一向にお構い無しのご様子でスタスタと散歩の足が乱れることはない。
彼の場合、自分がしたいからやりたいから、そう心が動くからするだけなのだ。
なんとシンプルなんでしょう!
相手の顔色・反応など関係ない、自分だけの世界!
父の行動は実にシンプルで、求めているのは相手の反応ではないのだからショボンとなるはずがない。
結局のところ、ショボンの心は私の心の反応であって、挨拶を返して来てくれない相手への反応。
見返りを望む心で行動すると、返って来なかった時に起きる『ショボン現象』。
シンプルの大切さを父に学ぶ私でした。
<みみかに学ぶ>
みみかの感覚は素晴らしく明瞭である。
この点、父の『自分がしたいからやりたいから、そう心が動くからする』と完全に合致する。
だから、逆にやりたくないと思う時、その理由や言い訳が必要なくなる。
みみかが本当に嫌だと思えば、頑として動くことは無い。
そこに理由や言い訳は存在しない。
ただ『したいと思う』『したいと思わない』そのシンプルな動機だけ。
私などは、頭では理解していたつもりだったけれど、あれやこれやと今でも何かと理由や言い訳をしていることが多々ある。
たとえば、みみかに「一緒に遊ぼう!」と言われても、本当に用事があるときは別にして、『心』動かない時もある。
そういったときには、あれやこれやと理由を作り言い訳をして断っていた。
でも、それは自分の本心とは違うもの。
本当は「やりたくない」「やりたいと思わない」と言うのが本当のところ。
みみかを倣って、私もシンプルに返ってみた。
みみかのお出かけのお誘いに「行かない」と返事をすると、「どうして?」と言う。
(これは、今まで散々私が理由や言い訳をみみかに聞かせてきた結果の反応。
人は理由や言い訳を聞かないと納得しなくなるもの、そして相手の納得のために嘘や脚色いろいろな装飾をつけた理由や言い訳が必要になってきたりもする。)
「どうして?」に対して、「行きたいと思わないから」と答える。
さらに「なんで?」と聞くので、「みみかはどうして学校へ行きたくないの?」とすかさず返す。
「・・・」と、みみか。
「ね、それとおんなじだよ。どうしてかは分からないけど行きたいと思わない、ただそれだけ」と、私。
それを聞いたみみかは、感覚的に理解できるのでしょう、それ以上は誘ってきませんでした。
本音本心で自分を語ることの大切さを、みみかに学ぶ私でした。
シンプルにシンプルに、シンプルは単純なさま・簡単なようす・素朴なさま。
本音で本心で、本音は楽器から出る本物の音、本心は本来の正しい心・偽り飾らない本当の気持ち。
二人の菩薩様のお陰をもって、私は『こうなりたい自分』を常に表現出来つつあるのだと、感謝する毎日であります。