人間本来の姿・・・「愛」なんだ!
「金が土台」の世界を生きる限り、必然的に「金」のために働き、「金」のために生きる(生活する)ことになる。
どうあがいても、土台がそうである限り「金」に関わらないと生きて行けない仕組み・システムになっている。
これは対価を求める世界であり、報酬を要求する世界であり、見返りを期待し土台とする世界だ。
「金が土台」の世界の上に「愛」を表現することは、本質的には不可能なのだ。
「愛」とは無償であり、見返りを求めない世界であり、そのままの姿で存在することだから。
・・・☆・・・
自分がどういう土台の世界に立っているかが分かってしまった私。
そして、そういった世界での自分の生き方に意味を見出せなくなってしまった。
(ある会話)
何の目的も意欲も無く虚ろ。
お金を土台とした世界に違和感を持ったまま、その世界をこれからもずっと生きなきゃいけないのかと思うと気が狂いそうになる。
こんな土台の世界では、私の生きる意味が見つからないし喜びも見出せない。
何より、楽しく感じられるようなやりたいことややるべきことが思い浮かばない・・・。
そんな状態に自分があることを理解して、土台に乗っかって世界を生きてることが、ますます精神を不安定にさせる。
心がすごくしんどい。
精神的に不安定になる。
いっそのこと、断崖絶壁から海にでも飛び込んで死にたくなる。
↓
お金を土台としている今の世界に対する違和感を感じていること自体に大きな意味がある。
ヒッピーなど一部の人たちは、お金を土台としている現代文明の問題点をかんじているだろうけど・・・ほとんどの人は問題とも感じないで生きている。
多少問題と感じている人はとても多いんだけど、自分でお金の問題点を探って、えぐり出すまではできない。
だから、お金は重要な要素として、どうしても受け入れることになる。
でも、心のどこかでお金に対する違和感を持ち続けている。
だから、君みたいにお金に対する拒絶反応をしっかり持てている人は、極め稀。
お金を土台とした今の世界に違和感と絶望を感じることは、極めて重要な試金石。
でも、しんどいよね。
夢もなくなるし、当然意欲もなくなってくる。
「お金」への絶望を超えたところに見えるものは、「無償の愛」の存在しかないということ。
だから、唯一やるべきことがあるとすれば、「無償の愛」を生きること以外にないのかもしれない。
「無償の愛」を生きるということは、「無償の愛」の存在をここかしこに見出すことに他ならない。
(ある会話)
「無償の愛」を生きるとか自体、そんな風な意欲も湧かない・・・。
っていうか、分からない。
っていうか、今の私はただのダラダラ生活者。
食べる以外の何もしたくなくてすぐに横になって眠ってしまう。
畑もブログも片付けも、なーんにもしたくない、心も体も動かない。
このままずっと眠っていたい、死にたい病。
↓
今はそれがいいんだと思う。
理由は分らないけど、そのような無気力な経験が君にとって必要だから、必然的にそんな経験をしているのかもね。
今は「冬眠」の時期かもね。
これからどんどん、お金に対する違和感を持つ人が出てきて、土台がひっくり返ってしまって、かといって新しい土台がどこにあって、どうやって生きればいいのか分らない「真面目な人たち」が続出するに違いない。
そうなったら、彼らはきっと「夢」も「希望」も無くなって自殺者が続出するかもね。
そんな彼らの救いになるのは、同じ経験を通り越した人しかいない。
やる気も気力も夢も希望もなくなった人間の気持ちが本当に分る人が今用意されているのかもね。
(ある会話>
目の前で展開されるお金のやり取りの世界や風景が、私にとっては現実的じゃなく感じる。
だから、余計に自分がこの世界の中に存在してることが息苦しい。
些細なことを言えば、何か買ってお店の人にお金を払う時でも、お金を払う人が強くなって優位になる。
お店の人は、それが仕事と言え、媚びるというかそういう態度になって弱い立場になる。
それだけでも、すごいストレスな世界を私は感じる。
お金を払う側になると、自分も自動的にそういう強い立場になり勝ちになる。
「お金払うんだから!」って。
普通なら、それが当り前で、何が悪いのってことになるんだろうけど、そういう自分になってしまうことが嫌で気持ち悪くて違和感。
お店の人側に立つと、お金のために働いてるというストレスをすごく感じて気の毒になる。
本当はそんな世界じゃないはずなのに、愛が土台でお金が介在しなければもっと違う形なはずなのにって、切なくなる。
そんな、今の世界の成り立ちにしんどさを感じていて、心が不安定でしんどいこと自体を、誰にも言えないし隠してる。
こんなしんどさでなければ、体の不調とかただの精神的な不良とかで、解決策がなんとかありそうなことならそんな態度も表現出来るけど。
一般には通用しないし、理解できないだろうから、口になんて出来ない。
そんな今の世界に対する違和感からくる精神的不安定を口に出しても、余計に孤立していくばっかりだし。
↓
分らない人に話しても仕方ない。
すぐに分ってもらえなくていいし、何時かその人なりに分るようになるから、自然の流れに任せるんだね。
(ある会話>
お金が土台の世界に気が付いてしまえば、夢も意欲もなくなってしまうこの世界で生きること。
その中で、あえて「夢」や「意欲」をどうやったら持てるんだろう?
お金に疑問を持っていて、私のように多くの人が今の世界に違和感を持って生きることになったら、私も含めてそういった人たちはどうやったら喜びを見出せる?
相変わらずの変わらない土台の世界の中で・・・。
ほんと、消えてなくなりたい・・・と思ってしまう。
↓
その問題は次に出てくる重要課題。
現実の地球の仕組みを知った人間がどうやって現在の地球の仕組みの中で生きていくことができるのか?
そして、夢や希望や喜びを見出せるのか?
結局それを乗り越える唯一の道は・・・自分自身が「無償の愛」を生きる以外にない・・・・という結論なんだと思う。
大宇宙の実体である「神」は、「無償の愛」と「無限の自由」の心で、全ての個生命とし現れている神の分身たちの思想と選択と行動を見守りながら、個生命たちが創造するすべての物事を、忠実にそのまま提供し続けている。
きっと今もわくわくしながら、面白がって、全く関与することなく、個生命たちの選択を宇宙に忠実に実現させているのだと。
しかも、宇宙の隅々のどんな些細な出来事であっも、神はそれを観察して味わっているのではないだろうか?
その大宇宙の創造主たる本源の「神」とほぼ同一の心持を、自分自身が体現する以外に、その究極の問題を超越する道はないんじゃないだろうか?
多分このことが、この宇宙に個生命とし生を受けていることの最終的な目的の一つであってもいいんじゃないのかな?
このことこそ、最大の「夢」であり、究極の「希望」であってもおかしくないんじゃないだろうか?
自分が大宇宙の創造主と全く同一の存在であるということは、最高の「夢」であり、究極の「希望」なんだ。
「金が土台」の世界を生きる限り、必然的に「金」のために働き、「金」のために生きる(生活する)ことになる。
どうあがいても、土台がそうである限り「金」に関わらないと生きて行けない仕組み・システムになっている。
これは対価を求める世界であり、報酬を要求する世界であり、見返りを期待し土台とする世界だ。
「金が土台」の世界の上に「愛」を表現することは、本質的には不可能なのだ。
「愛」とは無償であり、見返りを求めない世界であり、そのままの姿で存在することだから。
・・・☆・・・
自分がどういう土台の世界に立っているかが分かってしまった私。
そして、そういった世界での自分の生き方に意味を見出せなくなってしまった。
(ある会話)
何の目的も意欲も無く虚ろ。
お金を土台とした世界に違和感を持ったまま、その世界をこれからもずっと生きなきゃいけないのかと思うと気が狂いそうになる。
こんな土台の世界では、私の生きる意味が見つからないし喜びも見出せない。
何より、楽しく感じられるようなやりたいことややるべきことが思い浮かばない・・・。
そんな状態に自分があることを理解して、土台に乗っかって世界を生きてることが、ますます精神を不安定にさせる。
心がすごくしんどい。
精神的に不安定になる。
いっそのこと、断崖絶壁から海にでも飛び込んで死にたくなる。
↓
お金を土台としている今の世界に対する違和感を感じていること自体に大きな意味がある。
ヒッピーなど一部の人たちは、お金を土台としている現代文明の問題点をかんじているだろうけど・・・ほとんどの人は問題とも感じないで生きている。
多少問題と感じている人はとても多いんだけど、自分でお金の問題点を探って、えぐり出すまではできない。
だから、お金は重要な要素として、どうしても受け入れることになる。
でも、心のどこかでお金に対する違和感を持ち続けている。
だから、君みたいにお金に対する拒絶反応をしっかり持てている人は、極め稀。
お金を土台とした今の世界に違和感と絶望を感じることは、極めて重要な試金石。
でも、しんどいよね。
夢もなくなるし、当然意欲もなくなってくる。
「お金」への絶望を超えたところに見えるものは、「無償の愛」の存在しかないということ。
だから、唯一やるべきことがあるとすれば、「無償の愛」を生きること以外にないのかもしれない。
「無償の愛」を生きるということは、「無償の愛」の存在をここかしこに見出すことに他ならない。
(ある会話)
「無償の愛」を生きるとか自体、そんな風な意欲も湧かない・・・。
っていうか、分からない。
っていうか、今の私はただのダラダラ生活者。
食べる以外の何もしたくなくてすぐに横になって眠ってしまう。
畑もブログも片付けも、なーんにもしたくない、心も体も動かない。
このままずっと眠っていたい、死にたい病。
↓
今はそれがいいんだと思う。
理由は分らないけど、そのような無気力な経験が君にとって必要だから、必然的にそんな経験をしているのかもね。
今は「冬眠」の時期かもね。
これからどんどん、お金に対する違和感を持つ人が出てきて、土台がひっくり返ってしまって、かといって新しい土台がどこにあって、どうやって生きればいいのか分らない「真面目な人たち」が続出するに違いない。
そうなったら、彼らはきっと「夢」も「希望」も無くなって自殺者が続出するかもね。
そんな彼らの救いになるのは、同じ経験を通り越した人しかいない。
やる気も気力も夢も希望もなくなった人間の気持ちが本当に分る人が今用意されているのかもね。
(ある会話>
目の前で展開されるお金のやり取りの世界や風景が、私にとっては現実的じゃなく感じる。
だから、余計に自分がこの世界の中に存在してることが息苦しい。
些細なことを言えば、何か買ってお店の人にお金を払う時でも、お金を払う人が強くなって優位になる。
お店の人は、それが仕事と言え、媚びるというかそういう態度になって弱い立場になる。
それだけでも、すごいストレスな世界を私は感じる。
お金を払う側になると、自分も自動的にそういう強い立場になり勝ちになる。
「お金払うんだから!」って。
普通なら、それが当り前で、何が悪いのってことになるんだろうけど、そういう自分になってしまうことが嫌で気持ち悪くて違和感。
お店の人側に立つと、お金のために働いてるというストレスをすごく感じて気の毒になる。
本当はそんな世界じゃないはずなのに、愛が土台でお金が介在しなければもっと違う形なはずなのにって、切なくなる。
そんな、今の世界の成り立ちにしんどさを感じていて、心が不安定でしんどいこと自体を、誰にも言えないし隠してる。
こんなしんどさでなければ、体の不調とかただの精神的な不良とかで、解決策がなんとかありそうなことならそんな態度も表現出来るけど。
一般には通用しないし、理解できないだろうから、口になんて出来ない。
そんな今の世界に対する違和感からくる精神的不安定を口に出しても、余計に孤立していくばっかりだし。
↓
分らない人に話しても仕方ない。
すぐに分ってもらえなくていいし、何時かその人なりに分るようになるから、自然の流れに任せるんだね。
(ある会話>
お金が土台の世界に気が付いてしまえば、夢も意欲もなくなってしまうこの世界で生きること。
その中で、あえて「夢」や「意欲」をどうやったら持てるんだろう?
お金に疑問を持っていて、私のように多くの人が今の世界に違和感を持って生きることになったら、私も含めてそういった人たちはどうやったら喜びを見出せる?
相変わらずの変わらない土台の世界の中で・・・。
ほんと、消えてなくなりたい・・・と思ってしまう。
↓
その問題は次に出てくる重要課題。
現実の地球の仕組みを知った人間がどうやって現在の地球の仕組みの中で生きていくことができるのか?
そして、夢や希望や喜びを見出せるのか?
結局それを乗り越える唯一の道は・・・自分自身が「無償の愛」を生きる以外にない・・・・という結論なんだと思う。
大宇宙の実体である「神」は、「無償の愛」と「無限の自由」の心で、全ての個生命とし現れている神の分身たちの思想と選択と行動を見守りながら、個生命たちが創造するすべての物事を、忠実にそのまま提供し続けている。
きっと今もわくわくしながら、面白がって、全く関与することなく、個生命たちの選択を宇宙に忠実に実現させているのだと。
しかも、宇宙の隅々のどんな些細な出来事であっも、神はそれを観察して味わっているのではないだろうか?
その大宇宙の創造主たる本源の「神」とほぼ同一の心持を、自分自身が体現する以外に、その究極の問題を超越する道はないんじゃないだろうか?
多分このことが、この宇宙に個生命とし生を受けていることの最終的な目的の一つであってもいいんじゃないのかな?
このことこそ、最大の「夢」であり、究極の「希望」であってもおかしくないんじゃないだろうか?
自分が大宇宙の創造主と全く同一の存在であるということは、最高の「夢」であり、究極の「希望」なんだ。