『子どもの図書館』の大いなる誤読

『子どもの図書館』石井桃子/著(岩波書店)
は、作者が、読み手の勘違いが多いことに困って、絶版にしたと聞いたことがあります。
「この本を読んで感動して、私も文庫をやってみようと思いまして・・・」などと読者に言われて、自分の思いとは違う方向に向かっている、ということに気づいたのでしょう。

子ども文庫は、そこで調査したことを、公共図書館に還元する目的だったはずです。現場で生の子どもの感覚を集めて、図書館の選書に生かすということです。また、作家の立場で、現実の子どもに合った物を作りたいという願いから、子どもとごく近くいられる場所を自ら作ったのでしょうか。
 つまり、今で言えば、自治体や企業のアンテナショップのようなもので、各種商品を一般の生活者につき合わせてみてそこから感想を引き出して、商品を作る側が生活者の目線に合わせていけるようにするためのものです。もちろんPRも兼ねているでしょうが、アンテナショップというからにはアンテナは利用者(消費者)に向いていなくてはなりません。
 石井桃子は、いつのまにか、「自分たちが世の中の子どもを教育するのだ」というような感覚の人間が家庭文庫創設に次々となだれ込んでいくのに気づいたのではないでしょうか。
 赤瀬川原平さんの「老人力」も、「力を抜くことや視点を変えること」を説いたはずなのに、いつのまにか「元気な老人パワー」と受け取られてしまい、作者が黙り込む、そんなことがあったと記憶しています。それと同じことで、受け止める側の上昇志向にハマってしまうことは、よくあることです。落ち着いてよく考えてみればいいのに。
 
 同じことが、読み聞かせボランティアにも言えると思うのです。新潟市の図書館の読み聞かせ講座は、明らかに「図書館のやり方を世の中に広める」という感覚で行われています。
 入門講座は「こうやってやるんですよ」と教えるのではなく、本来の「子どもの図書館」の意味に則って「アンテナは利用者に向けることを教える」ものではないかと思うのです。「ステップアップ」にあたるのは、利用者の感覚を受け止めることができること、またそれを活かすことができるようになること、ではないかと思っています。
 昨年度は盛大に税金を使って「チェンジ大人」とメッセージを発したはずなのに、図書館自体がアンテナを利用者に向けず、偉い先生に向けたり自分(司書)自身に向けたりすることが後を絶ちません。「読み聞かせのやり方は司書や職員が教えてあげるわ~~~」の感覚から抜け出せないのなら、高価な講師料も策定委員会の方の手間もすべてドブに捨てたようなものです。それは税金です。
 「真面目に過ぎる」という意見もいただいたでしょう?それもドブに捨てるつもりでしょうか。「学ばせていただいた」・・・暗誦するように「manabasete itadaita」と策定委員の先生に言うのなら、なぜそれと同じように、一般市民や子どもから学びを受け取ろうとしないのか。一般市民は程度が低いとでも思っているのか、自分が教えてあげる程度の低い人間の集団と思っているのか。そして、なぜ自分で考える人間を育てようとしないのか。

 図書館の職員がおはなし会をするんだったら、自分たちが習ったようにやればいい。しかし、ボランティアは市民の側にいるのですから、図書館のアンテナショップの立場にたち、今の子どもの求めるものをアンテナにキャッチし、それを図書館に還元していく立場に立たなくてはなりません。大人から見て低俗であってもそれを受け止め子どもの目線に立ち否定することなく、そして子どもから学ぶ、大変難しい感覚だと思います。それが本来の「子どもの図書館」の向かう方向ではないかと思っています。
 中央集権型で特定のやり方を広めるとか、本の表現の細部や読み方の細部をつついて統一させるとか、そういう講座には、反対します。
 別に私がこう言ったとしても、私などは「たかがボランティア」と思っておられるのでしょうから、別に痛くもかゆくもないかも知れません。粛々と、高みに登るボランティアが再生産されることでしょう。
 おまけに、入門講座そのものが、ここ数年はこの方法でやってこられた様子。ひどく型にはまっているという声も聞きました。どっぷり司書に依存した受講生がステップアップするときに、また母親のように司書に指導を仰ぎ、同じことが繰り返されることでしょう。
 




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