善導せず

いつか書かなくちゃと思っていたことを、1月の最初に書いておくことにします。
「図書館の自由に関する宣言」から調べていった、「善導」について。

 この項目4です。<国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない>・・とあります。つまり図書館は、過去を反省し、善い方向に導くのでなく、自由を広げていく役割があると宣言しているように思えます。

 「自分が選んだ本は良い本だから、ぜひ読んで欲しい」と、エッセイや講演で仰る先生がいらっしゃいます。自分にとってつまらない本を置いたり、読むボランティアを、批判することもある。そう思われたのだからそう発言されたのだと、大方は思いますし、心を寄せてくれるファンも多いですね。
 私から見ると、それは前記の項目4の歴史的事実にあてはまっていて、間違いをくり返しているように思えるのです。本って、それが児童書でも絵本でも、それは思想ですよね。「みごとな選書」って「善導」ですよね。ちょっと恥ずかしいけど。
まあ、自らよくなりたいという気持ちは自然なことですし、自然にあちこち振れることもあるでしょう。が、特定の団体や人が、ある意思をもって「善い方へ」導こうとすること、意に染まないものを排除しようとすることには、ちょっと待ってよと言いたいものです。予算に限りもあることでしょうから、善導でなく、幅を広げる方に使って欲しいです。
 
 「歴史的事実」は、先の戦争の時にあったことです。紙芝居はその責任をとることになったと歴史の本に書いてありました。ほかのメディアは、個人的に深く反省した人も多かったけど、組織として壊滅状態になったということはなかった。児童文学者は、紙芝居を図書館から排除し、童話を児童文学と言い換えて新しく出発しました。間違った者を排除することが、反省、だったのでしょうか。
 それよりももう一度、「どうしてそういう失敗をしてしまったか」ということに思いを馳せてみたいと思います。小さな紙芝居団体の代表がこういうことを言うのは、なんだか、皮肉なことです。年の最初に、もう一度自分に言い聞かせたいと思います。
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