図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
何度も書くけど、個別読み
新潟日報の8月20日朝刊、県内総合のページに個別に子どもに本を読んでいるボランティアさんの写真が載りました。
県立図書館の夏休み子ども図書室の、お部屋の中で個別に読んでいるスナップです。ある程度長さのある、大きな本のように見受けられます。
もちろんボランティアさんは、事前に読みを練習して読んでいるわけでなく、どれどれと、ちょっと間違えたりしながら読むわけです。
私も、中央図書館の「いっしょによもうよとしょかんのほん」の当番のときに、このように、横に並んで読んだこともありました。
ちょっと読み間違えたり、意味を勘違いしながら読むことを、「本の面白さを損ねる」と批判する向きもあるでしょう。でも、そういった思い違いや間違いを経験しながら、子どもは育つような気がするのです。間違いを認めないような世の中は、息苦しい。
読み聞かせボランティアの講習で、「絵本の選び方」として、集団相手に読み聞かせるために、絵が遠目がきくとか、まっすぐ結末に向かうとか、そういうセオリーを習いました。しかし、そんなこと、いわせてもらえば、たかがそんなこと、です。そういった特徴にあてはまるのは、絵本百冊のうち数冊でしょう。
たくさんある絵本の中の、ごく一部の特徴を照らしあわすために、ボランティアは探していきます。その手間たるや、膨大です。しかも、絵本は、本でもあり物語でもあるわけですから、まっすぐ結末に向かうスタイルもあれば、いろいろ寄り道して楽しむスタイルもあるわけです。ところが、
いつの間にか「まっすぐ結末に向かうのが良い本」というふうに思われてしまっている。
文字を拾って絵と共にある絵本を、口承文芸のように扱おうとしたことに問題があるのではないかと、くり返すことにします。
本の見方は人それぞれだというのに、ボランティアは選書と称して、お互いの感性を批判したりするような状態になっています。
そんなことで、ボランティアを苦しめないで欲しい。
違うというところが面白さにつながるというのに、読み方まで指導し、その人の個性をつぶして、
みんながいつのまにか、同じ感じの読み方になっている。
読み方が同じで、本は均一化された良書。こんなことが原因で面白くないから、聞き手が集まらないのだということに、絵本の読み聞かせ講師は気づいて欲しい。一番、聞き手から学ばなくてはならないのは、今までの絵本の読み聞かせ講師です。
子ども文化は「遊び」で「無意味」です。
3の倍数と3のつく数字のときだけアホになることに、なにか意味があるでしょうか。
無意味だから子どもに受け入れられ遊びになっていくのです。
集団相手の絵本の読み聞かせも、子ども文化にならない限り、子どもに受け入れられることはなく、ただ、我慢して聞くだけの物になるでしょう。
都市伝説のように、言い伝えることにします。
かつて旧新潟市には、一日聞くだけで1万円の講演会がありました。お食事もついていたかもしれない。しかし、それに参加しないといつの間にか「勉強嫌いな人」として言われ、いつのまにか「読み聞かせをする資格がない」と言われるようになりました。こういうことは、くり返してはいけない。これから始める方々が、冷静にコスト計算をして、家元に習う意識を捨て、子ども文化を学ぶことにも、力をいれてくださるように、お願いします。
県立図書館の夏休み子ども図書室の、お部屋の中で個別に読んでいるスナップです。ある程度長さのある、大きな本のように見受けられます。
もちろんボランティアさんは、事前に読みを練習して読んでいるわけでなく、どれどれと、ちょっと間違えたりしながら読むわけです。
私も、中央図書館の「いっしょによもうよとしょかんのほん」の当番のときに、このように、横に並んで読んだこともありました。
ちょっと読み間違えたり、意味を勘違いしながら読むことを、「本の面白さを損ねる」と批判する向きもあるでしょう。でも、そういった思い違いや間違いを経験しながら、子どもは育つような気がするのです。間違いを認めないような世の中は、息苦しい。
読み聞かせボランティアの講習で、「絵本の選び方」として、集団相手に読み聞かせるために、絵が遠目がきくとか、まっすぐ結末に向かうとか、そういうセオリーを習いました。しかし、そんなこと、いわせてもらえば、たかがそんなこと、です。そういった特徴にあてはまるのは、絵本百冊のうち数冊でしょう。
たくさんある絵本の中の、ごく一部の特徴を照らしあわすために、ボランティアは探していきます。その手間たるや、膨大です。しかも、絵本は、本でもあり物語でもあるわけですから、まっすぐ結末に向かうスタイルもあれば、いろいろ寄り道して楽しむスタイルもあるわけです。ところが、
いつの間にか「まっすぐ結末に向かうのが良い本」というふうに思われてしまっている。
文字を拾って絵と共にある絵本を、口承文芸のように扱おうとしたことに問題があるのではないかと、くり返すことにします。
本の見方は人それぞれだというのに、ボランティアは選書と称して、お互いの感性を批判したりするような状態になっています。
そんなことで、ボランティアを苦しめないで欲しい。
違うというところが面白さにつながるというのに、読み方まで指導し、その人の個性をつぶして、
みんながいつのまにか、同じ感じの読み方になっている。
読み方が同じで、本は均一化された良書。こんなことが原因で面白くないから、聞き手が集まらないのだということに、絵本の読み聞かせ講師は気づいて欲しい。一番、聞き手から学ばなくてはならないのは、今までの絵本の読み聞かせ講師です。
子ども文化は「遊び」で「無意味」です。
3の倍数と3のつく数字のときだけアホになることに、なにか意味があるでしょうか。
無意味だから子どもに受け入れられ遊びになっていくのです。
集団相手の絵本の読み聞かせも、子ども文化にならない限り、子どもに受け入れられることはなく、ただ、我慢して聞くだけの物になるでしょう。
都市伝説のように、言い伝えることにします。
かつて旧新潟市には、一日聞くだけで1万円の講演会がありました。お食事もついていたかもしれない。しかし、それに参加しないといつの間にか「勉強嫌いな人」として言われ、いつのまにか「読み聞かせをする資格がない」と言われるようになりました。こういうことは、くり返してはいけない。これから始める方々が、冷静にコスト計算をして、家元に習う意識を捨て、子ども文化を学ぶことにも、力をいれてくださるように、お願いします。
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