持続可能にするために

SDGsが盛んに言われています。持続可能な世界にするために、いろいろな指針が出ています。プログラム構成にも多様なものを入れようと、前に書きました。

いろいろな指針を読んで、ふと昔のことを思い出しました。小澤俊夫昔ばなし大学のことです。この、設立目的の中に、昔話が広がりすぎているから、というのがありました。情緒的な表現の昔話が増えているから、そうでないものを広めたいというのが趣旨だったと思います。まことに高いこころざし、などと讃える声も聞こえました。

  私はこれを聞いて「どうして広がりすぎるといけないんだろう」と思ったのです。昔話が続いていくためには、いろいろな試みがあって当然だし、庶民が語るのですから脇道にそれたり、風刺が差し込まれたり、そういうのが面白みになって、敷居を低くして、気楽に楽しめるような語りの場になるように思えたのです。
 他に参加費用など不審に思うことがあって、昔ばなし大学には参加しませんでしたが、そのことが原因でいじめにあったことは、ずいぶん昔に書きました。書いたあと、あわてて私に近寄ってきてあやまる人もいらっしゃいました。別の人には「私は語法の本を読んだから別にいいかと思って」と言って納得してもらったこともありました。

 語法は一定の特徴ですから、研究者は、自分の語法に合致しているのは昔話全体の何割位にあたるのか、統計をとったらどうでしょうか。「昔話は原色を好む」といったところで、そうでない話の方が多いわけで、その割合が知りたいところです。そうでないと、例えば「女性は背が低いという特徴がある」と言って背の低い女性を連れてきて「そうだ」という、あやふやな理屈に終始している様子があります。
 そして今は、「男はこうで女はこうで」という世界は薄くなり、男でも女でも、またどちらでもない、そういう何色も含まれる虹色の世界に向かっているのではないでしょうか。多様性の尊重や包摂するという考えです。語法に合わせるのに必死になるのでなく、いまのありようを認めることで継続可能になると思っています。研究者や語り手は「今までこうだったから今後もそうだろう」というのでなく、持続可能にするために、これからの道を現実をよく見ながら開拓していく必要があると思います。そういうリーダーがいいのではないでしょうか。

 NPO法人語り手たちの会では「昔ばなし大学を受けた人も増えた。語り方も多様である」というような意見が出て(機関誌で読みました)本のまま語る人もいます。この前ZOOMで見ました。本の文字のまま楽しそうに語っておられました。昔ばなし大学を受けた方も入会されているでしょう。いろいろな問題に対してSDGsに書いてあるように、包摂して、いろいろ含めて進んでいる様子が、とても安心できました。

 

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