「プログラムありき」からの転換を

先日、図書館読み聞かせ講座の受講生との交流会に参加しました。
「図書館の、本やボランティアの差別問題」をなんとか改善したいというのが私のライフワークになっているので、代表である期間はせっせとそういった会合に出るようにしています。

聞き手選書は、プログラムが均一にならないというような意見が出たように思います。
 細かい説明はしませんでしたが、絵本の会がらがらどんが学校でやるときは、最初の本とメインになる本、語りの演目、息抜きの体験型、は自分たちで決め、大体のプログラムを作って行きます。聞き手選書は1冊か時間が余ったときの選択肢です。
 で、それに対しての異論は、「自分たちはきちんとプログラムを立てて、一定のレベルにした上で、どの子供にも公平に本を届けているのだ」というのがその内容です。まさに、プログラムありきのおはなし会です。人よりプログラムが大事ということ。自分たちの選んだ本やプログラムは良いものだ、一定レベルだという、「傲慢さ」も感じます。かつての図書館権力者の思想でしょう。

 これは、ものの立ち位置が違うんだな、と思いました。私は、本の良しあしは送り手側でなく、受け取る側が決めると思うのです。

あの場で別の団体の意見にあった、読み手や出会う時期により、本はどのようにも受け取れるというのに私も同感です。本とは流れる水のように一期一会であり、この良い本に出合ったからラッキーだったとかいう思いは、送り手側の勝手な思い込みだと感じています。
 その思い込みが、読み手に「私たちはお勉強してるの」的な雰囲気を与え(事実そういう発言をした団体もありました)、会に微妙な「お高くとまった感じ」を与え、息苦しいおはなし会を作り、会員の序列を作るもとになるのではないでしょうか。
 自分たちは自分のことをそんなことないと思っているかもしれません、けれど他の市民から見たらどうでしょうか。私はかつて「皆さんは優等生ですね」と言われて、ハッと我に返りました。そんなボランティアを子どもは欲しているだろうか。
 「私たちは一定のレベルをクリアしたし、最高のお料理を最適な順番で出すから遊びに来てね」というおばさんの家にいくのは、どうも気の重いものです。

 下手に読んだから相手に届かないだろう、とも思いません。下手な読みは、聞き手が一生懸命不足分を補おうとして、とても集中している様子が見てとれます。子どもは話も聞くけど、読み手の人柄も「聞く」のだと思っています。

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