違うセンスで


新潟市の図書館で絵本の読み聞かせをする方々は、『センス・オブ・ワンダー』という本を大切にされている方が多いです。環境問題を扱った啓蒙書のようなものですが、自然の感覚を大切にしましょう、というふうに私は受け取って、自分では「野生の感覚」と言い換えています。
 これは、数日前に書いた「自分の見方で」の内容と合っています。論理的な「良い悪い」でなく「好き嫌い」を大切に感じること、その人の心の中のごく本音の部分、動物的な勘のようなもの、そういうことを大切にしましょう、ということです。
 それぞれが、一人ひとり違う感覚があり、それぞれの見方で本を解釈して自分なりに読めば良く、そしてそれぞれが違うことを認めればいいわけです。ところが・・・

どうしたわけか、特定の誰かの感覚(センス・オブ・ワンダー)に合わせるのがよい、みたいなことになっているのが随分前から気になっています。特定の誰かというのは、経験の長い先生とか、偉い先生とか、ですね。その先生と違う見方をすると、
「あなたは勉強不足」
(心の中で)〖でも、勉強すればするほど野性から離れると思うんだけど・・〗
「ちゃんと『センス・オブ・ワンダー』を読まなくちゃね」
(心の中で)〖エッ、読んだからこうしてるんだけど・・・〗
などと言われて、とても混乱しました。そんなことが長く続き、新人はおどおどとベテランの目を気にして、長くやっている人が発言権を握る、というスタイルも見られます。

 不思議に思うことは、そういう状態で学校にボランティアに入ることに、仲間内で何の抵抗もないのだろうか、ということです。そうですね、受け持った60分を、つつがなくおはなし会として成り立たせれば、会の内部のことなどどうでもよい、のかも知れませんね。
 けれど、子どもにも「野性の感覚」を持って欲しいと思いませんか?ならば、自分でも野生の感覚を、さえぎられたくはないし、さえぎりたくはないと、私は思うのです。
 思い出してください、子どもの優等生的感想文のことを。子どもは、ボランティアの姿を鏡のように映し出して、優等生の感想文を書くのだと思えませんか?

 もう一つ付け加えます。
私は、数年前に新潟市に入られた地域の読み聞かせボランティアさんに、同じような思いをさせるのは、おかしいと思っているのです。AさんにはAさんの、BさんにはBさんの、C子ちゃんにはC子ちゃんの、一人ひとり違うセンスオブワンダーが保証されなくてはなりません。
 基幹図書館制度になって、各地区の基幹図書館に、自分の本のセンスが正しいと思い込んでいる司書が配置され、新人司書の指導にあたったらどうなるでしょう。下からの自由な意見が言えなくなったらどうなるでしょう。そのことを、とても心配しています。
 
 当たり前ですが、一人ひとりの違いを認めませんか。それは新人であっても同じこと。団体で同じ気風でやりたい気持ちは分かりますが、感性まで「群れる」のでなく、知恵を絞って違うことそのものを表面に出して、それを利点にしてやるという方法はどうでしょう。

  ●●●話がややこしくなるので、
      この件は次から「紙芝居の窓」ブログに書くことにします●●●
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