しゃべりたがる子への対応

紙芝居だけでなく、絵本の読み聞かせでも、間に子どもが一斉にいろいろしゃべってきたらどうするのか、という不安を抱える人が多いです。
 ずいぶん昔から、「人の話は黙って聞きましょう」という教育でやってきたせいか、お行儀よく聞いてくれる子どもが増えてきました。おはなし会の最初に先生が「話している間は黙って・・」と念を押される場合もあるので、参加型のお話をするときは子どもも困るだろうなと思ったりもします。
 「おはなし会の極意」などという文書で、子どもがしゃべりたがったら手のひらをかざして制止の合図をすればいいと書いてもありました。

「読み聞かせ」と「読み語り」の違いは、語りであるかどうか、つまり、合いの手を重要に思うかどうかの違いかな、と個人的に思っています。
けれど、言葉として「読み聞かせ」を使っているけれども、語りに近いようにやっている方も多いです。このへんはすごくあいまいで、そこがまたいいところ。
 どこかで線を引いて区分けすることはできないと思います。私だって、その場その場で違う対応をします。 無理に区分けして、これが良くてこれがダメというふうに向かっていくと、自分で考えない人が増えていくような気がしてならないのです。

 「読み聞かせは、おはなしをそっと置いて来るものという気持ち」で、と入門講座で教育を受けました。「ストーリーテリング」もそうでした。そっと置いてきて、相手の受け取り方に任せましょうというものです。自分が本の内容をしっかり把握してそれを表現することになります。私のイメージで申し訳ないですが、鳥の餌箱に黙って餌を入れると黙っていても鳥は近寄ってわれさきに食べる、という感覚です。
 「昔語り」は相手の反応を見ながらであり、「ストーリーテリング」は図書館の人がやるみたいに暗誦するものなんだな、と思い込んでいる方も多いのではないでしょうか。カタカナにするとなんだか近代的で洗練された感じがするので、「ストーリーテリングという清潔な語り」を目指してやってきたような気がします。

 それが、長い時間を経て、行き過ぎが表面化したのだと、私は思います。清潔さの行き過ぎ、ですね。人と人のつながりが薄れて不安が大きくなっている。けれど逆に干渉のしすぎにならないようにしなくちゃいけない。微妙なバランスを上手につかめる人とそうでない人、あるいは私のようにその途中の段階で、試行しながらやっているわけです。
 相手が鳥であっても餌箱に入れる時には「ごはんだよ」などと語りかけているでしょう?そういうことを大切にしたらどうかと思います。
 子どもには、しっかり集中とゆるやかな息抜きのメリハリをつけるように、先生は指導しているのでしょうね。集中させるときも、「さあご飯だよ」の気持ちは表に出していく必要がありますね。人によってはちょっとしたトークになることもあるでしょう。


前置きが長くなりました。私は、こんな感覚でやっています。

① いつでも合いの手を期待するつもりでやること。ちょっとした言葉の合いの手は、目線を動かしてその声の方向を見て頷くといいですね。

② 数人が同時に合いの手を入れてくると、それぞれを聞き分けることができません。うんうんと何度も頷いて、なるべくそれらを自分の耳の中に入れるつもりになります。これで数秒止まってもいいかな、と思っています。

③ または、私の話→合いの手Aちゃん→合いの手Bちゃん→Aちゃん→Bちゃん、と聞き手同士のキャッチボールがはじまりそうになるときがある。途中で、「うん、それでね・・」とさりげなく割って入って本や紙芝居に戻ります。手のひらで制止するのは、おそらく自然な動作でそうなるのでしょうが、やりすぎだと思います。

④ ③の時に、子どもの誰かが「しずかにしろよ!」などと言ってくれる。小さな自治の誕生です。ウレシイ。頷いたあと続けて読みだしても聞き手が無視されたという雰囲気にはならないですね。

⑤ 語り手の声がしっかり届いていれば、やがて聞き手は引き込まれていきます。声をとどかせようとする努力は、聞き手の方に気持ちが向いていれば自然にできていくものだと思うのです。「上手に語ろう」とすると自分の声にばかり気を取られて、語りが閉じていくこともあるような気がします。聞き手の気持ちも離れますね。

⑥ すごく簡単なメロディや繰り返しの言葉で、すーっと、お話に引き込まれていくことが多いので、そういうのが入っていると良いですね。昔話が重宝された理由です。けれど、そういうのが入っていない昔話も多いし、創作でも伝説でも話を語ることに変わりはないのですから、それを自分で付け加えたらどうでしょう。「どんどん」とか「ぎったんばっこん」とかそういうオノマトペとして入れればいいと思うんです。

⑦ そういう以前に、「自分が伝えたい本を読みましょう」という指導のせいで、やたら長い本を持ってくる初心者も多いのです。狭い意味での児童文化です。聞き手がうんざりしているのにも気づかない。他の人が短いのを読んで自分に時間を回しているという心遣いに気付いてくれるまで待つ必要がありますが、事前に時間を計ってね、と言ってもあんまり計らない。書類の提出期限を守れないとか、時間を守れないとか、そういう性格的な部分もあるのでこれを変えるのは難しいですね。
 ボランティアは「相手のニーズに合わせる」ことにポイントがあるのだから、入門講座から変えなくてはなりません。生の現場から離れた人間がボランティア講座の講師をやる、というところに問題があるのでしょう。



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