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花も盛りが近付いたので、
私の着物からはもう桜は消え、帯に花びらが舞うだけ。
帯揚げと帯締めのピンクで春らしさを楽しむことに…。
着物は、先週の小鼓の会でも着た山形の白鷹織。
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ミキモトホールでは、「バラ」が花盛り。
しかも、大正モダンを中心をしたアンティークのバラ。
先に書いておきますが、
この展示はとても見応えあります。無料では申し訳ないくらい。オススメです
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そもそもバラは明治4年、横浜に入ってきてから、庶民にも身近になり、
着物の柄としてもポピュラーになっていったそう。
この日は、とてもラッキーなことに、
入場したときちょうど、
今回この100点もの着物や帯の所有者である永本ツカサさんによる
解説が始まったところだった。
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大正時代から昭和初期にかけて
着物の世界では技術、デザインとも、どんどん斬新なものが取り入れられ、
三越やそごうなどの百貨店がモードを仕掛け、
織機の性能も向上して大量生産が可能になり、技も磨かれ
着物文化もまさに「花開いた」時期だったそう。
名古屋帯が誕生、普及したのも、この時期。
(名古屋女学校の創始者 越原春子氏の考案)
その背景には、通信技術の向上や国際交流の活発化などにより
海外の情報が早く入ってくるようになったことが大きい、と永本さん。
例えば…
「海外でレースが流行っている、という情報が入ると、
まだレースの実物を見ないうちから、レースのバラ柄の入った帯が創られた」
つまり人からの聞き伝えやスケッチなどから、レースというのはこういうもの、と想像し
デザインに取り入れられたそう。
アールヌーボーの象徴ともいえる、孔雀とバラの組み合わせも
ヨーロッパのブームにそう遅れることなく発表されたり、
昭和27年の、エリザベス女王即位の際には、
ウェストミンスターというバラと王冠を大胆に配した振袖が流行ったり。
染料についても
明治時代は化学染料の値段がとても高く(金と同じ価値だったそう!)
ポイント的に赤を使うくらいしかできなかったけれど、
大正に入るとすっかり定着して、洗練された染めが増えた、と永本さん。
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そんな中…。
ある帯の前で、心なしか感慨深げに足を止め、永本さんはこんな話を
し始めた。
「華やかなバラ柄の帯や着物を持っている人は、一定以上裕福なわけです。
それが、戦争が始まると、そんな煌びやかな着物は纏えないし、
かといって地味なものを創ろうにも、戦局が悪くなれば材料がもうない。
そこでどうしたかというと……
手持ちの帯を、真っ黒に染めて締めたんです。」
そこに展示されていたのは、喪の帯とも違う、
黒地にバラの輪郭がわずかに浮き出たような帯。
もともとは、どんなにキレイな色が配されていたのか。
-こういう帯が残っているというのは、その時代を知るのにたいへん貴重なこと-
永本さんが言うとおり、
周囲の展示はみな、贅を尽くしたといってもいいくらいの
カラフルな大柄や、今見てもモダンな柄が多い中で
その黒い帯は…色をつぶされたバラは…自分に課せられた運命に耐えているようでもあり
戦争をもっとも端的に物語る一本として誇らしげでもあり。
それは戦地に赴きそして散った兵士たちと同じではないか、と
複雑な思いがよぎった。
※ミキモトホール「着物に咲いたモダニズム展」WEBサイトはコチラ