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国立近代美術館で開催していた、片岡球子展。
1、2年前、山種美術館で観た富士山の絵が印象深くて、
他の絵も観てみたいと、
会期終了ぎりぎりに、飛び込んだ。
キャンバスいっぱいにほとばしるデッサン、
主張の強い色。
でも不思議と、荒々しさとか怒りとか、
負の感情は感じさせない。
生命力の勢いだったり、
突き抜けた明るさや、存在の誇示だったり
それは結果的に、絵から私が受け取る印象であり、
おそらく球子氏は、「対象をただ、描いただけ」なのだろう。
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浅間山は、黄金の穂先もともに、天に向かって。
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そして何枚か展示されていた富士山の中で、この一枚を観たとき、
理由もわからず、涙ぐんでしまった。
今回の展示では、
1962年に初めてヨーロッパへ行ったときのメモ書きもあった。
パリの美術館を訪れて、ピエール・ボナールとモーリス・ユトリロの絵を観たときの感想が
心に残った。
-ボナール
青い海の美しく近代性のある事 この絵はよい白い色ろみがいきている-
-ユトリロ
町のゆきだまりの所のあつかいがどれもステキだ-
また、日ごろ写生等で使ったスケッチブックの展示も見応えあったが、
その中に書かれていたという次の文章が、球子氏の絵画に対する姿勢を
よくあらわしていると思った。
基礎のできているものは、
スケッチは困らぬ
毎日写生する
頭と心がすみちぎらないと
よい色がみえてこない
形の大きい変化をみる
全体をみる事により
形を正確にとらえ得る事になる
私も写生を 生命にする
かいて描いて
描きぬく 勉強
球子氏にとって、絵を描くことは生涯かけての「勉強」だったのだなと
新鮮な驚きだった。
大胆な作風からは窺えない、
謙虚さや、「絵画」という表現方法に「胸を借りる」ような
姿勢を感じ取ったからだ。
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こちらの小冊子によると、
女子美での教諭時代の球子氏は、
ずいぶんエキセントリックな面もあったようだが
ひたすらに絵画とは何かを追求していたゆえ、ということはよくわかる。
私は冒頭で、
「力が欲しい」と書いたけれど、
それは、外からもらう類のものではなく、
もともと自分の中にあるはずのものを
自分が見ようとしていないだけのことではないか、と
ふと、思った。