まず、楽器の「盗作」の話から始めよう。
写真左は1970年代に製造された国産ギターで、マーチンD-41のモデルだと思われる。右は本物のマーチンで、こちらは2008年製のD-42。どちらも今僕の部屋にある。
わが国ではマーチン社やギブソン社のギターを真似た製品が多数作られ、かつてはこの写真のように、社名やロゴまでパクっているものも見られた。こうした現象について、当時のマーチン社代表は次のように語ったという。
「このように安いギターが当社の製品と誤認されることはないだろう。模造品だと納得したうえで買われるのなら、それで良いではないか。こういうギターで日本の若者が手軽に音楽に親しみ、いずれは当社の本物を使うようになってくれたら、そんなに嬉しいことはない」
ふうむ、さすがは天下のマーチン社。先を見ている。実際に、偽物のマーチンでギターを始め、中年になってから本物を手に入れた人は多数いる。言うまでもなく、僕もその一人だ。中学生や高校生に向けた模造品に目くじらを立てて訴えたところで、どうせ彼らが本物を買うことはできない。本物のマーチンと偽物のマーチンとでは価格が違いすぎて、そもそも競合する商品ではないのだ。偽物が売れたところで、マーチン社が損をすることはない。
実は音楽、文学、美術などについてもこれと同じことが言えるのではないか。
例えば、日本の作詞家がボブ・ディランの詞を真似たとしても、そのことでボブ・ディランのレコード売上が減るわけでなく、彼自身には経済的な損失は生じない。いや、逆に、盗作疑惑云々で、その原作者たるボブ・ディランの名が広まれば、彼の音楽活動にとってプラスの効果が生まれる可能性だってある。
例えば誰かが、村上春樹の小説からあちらこちらをパクって「ノルウェイの林」とか「執事をめぐる冒険」なんてのを書いて出版したとしても、そのことで村上氏に経済的な損害が生じることはない。そもそも原作が素晴らしいから真似されるのであり、そういうふうに考えれば精神的苦痛すら生まれてこないのではないか。
だったら、いったい盗作の何が悪いのだろう?
原作者からすれば、自分の作品に寄生して他人が儲けるのは、感情的に腹立たしいということだろうか。もっと社会的な見地から言えば、才能のない人間が他人の才能を盗んで金儲けをするのは人道的に許されないということだろうか。もし後者だとすれば、盗作をした者は、原作者からの訴えによる民事訴訟でなく、社会的に罰せられるべきである。
ボブ・ディランの詞をパクった者に対してほんとに怒るのは、ボブ・ディラン本人でなく、その歌詞を聞いて感動したり、そのために対価を支払ってレコードやCDを購入した一般聴衆であるべきだ。
うーん、なんだか難しい話になってきた。
僕が先ほどからボブ・ディランの例を持ち出しているのには理由がある。まず、次の詞を読んでみてほしい。
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スペイン革のブーツ
詞:ボブ・ディラン 訳:片桐ユズル
おお、恋人よ、わたしは船出する
朝には船出してしまうのよ
海のむこうから送ってほしいものはないかしら
わたしが行く国から
いいや、恋人よ、おくってほしいものはない
なんにもほしいものはない
ただ汚れずにかえっておいで
あのさびしい海のむこうから
おお、でもなにかほしいとかおもって
銀とか金でできたものを
マドリッドの山や
バルセロナの岸辺から
おお、まっくらな夜からとった星と
ふかい海からとったダイヤモンドだって
あなたのやさしいキスのほうがいい
わたしがほしいのはそれだけだ
(中略)
さびしい日に手紙がきた
それは船出した彼女からいってきた
いつかえるかわかりません
それはわたしの気分しだい
(中略)
では気をつけて、西風に気をつけて
あらしの天気に気をつけて
そう、なにかおくってくれるのならば
スペイン革のスペイン・ブーツ
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男女の立場が逆転しているけど、内容は「木綿のハンカチーフ」にそっくり。
かつて僕は、ボブ・ディランのこの詞を知って愕然とした。大好きだったあの歌がパクリだったとは! 作詞者の松本某は、この曲でたくさんのお金を儲けたのである。そして僕の大好きな太田裕美は、盗作と知ってか知らずか、この曲を一所懸命に歌い続けたのである。これは絶対に罪だ。