第10代崇神天皇が実在する初めての天皇で、倭の五王「武」=第21代雄略天皇が現れるまでは、ヤマト政権はずっと連合国家であり、天皇は連合の盟主だったと考えています。
「宋書倭国伝」には讃と珍は兄弟、興と武も父親を済とする兄弟であると書かれています。
ところが、珍と済がいかなる関係にあったのかについては書かれておりません。
二つの系譜は血縁関係になかった可能性があります。
このことから倭の五王の頃までの天皇というのは、万世一系ではなく、連合しているクニグニの首長の持ち回り制だった可能性さえあるのではないかと、最近、私は疑っています。
そんな中、第12代景行天皇からヤマトタケルを経て第14代仲哀天皇までは、血族で皇統を引き継ぎ、専制君主を目指して東奔西走していたのではないでしょうか。
代が替わるごとに宮を遷す歴代遷宮が当たり前の中、景行天皇の志賀高穴穂宮で子の成務、孫の仲哀天皇が即位している特殊性はこのことと関係しているのではないでしょうか。
そして九州は連合制を良しとし、専制君主をめざす天皇に反発していたのだと思うのです。
尾張も連合政権支持派であり、反発しレガリアである草薙剣を手元に取り戻したのでは。
仲哀天皇の皇后である神功皇后は、実は「連合の盟主たる天皇制」を支持する勢力の一員であったとは考えられないでしょうか。
日本海勢力と思われる神功皇后は、いかにも北部九州と繋がっていそうです。
「専制君主たる天皇制」をめざす派の仲哀天皇の元へ、刺客として乗り込んだのが神功皇后だったと妄想しております。
北部九州の首長たちは仲哀天皇にではなく、日本海勢力の神功皇后がやってきたからこそ、こぞって恭順したのでは?
ヤマトが裏切ったのではなく、裏切ったのは神功皇后で、北部九州と通じ合い仲哀天皇を亡き者としてしまったように思えます。
熊襲を征討にきたのだという名目を果たすために山門県の女首長を滅ぼして、
実は仲哀天皇の子ではなく武内宿禰の子である、後の応神天皇を連れてヤマトに帰還しようとします。
仲哀天皇の皇子・忍熊王は父を殺された故、ヤマトに戻ろうとする神功皇后一派を向かえ撃ったのではないでしょうか。
神功皇后が「連合の盟主たる天皇」を出せる家柄であったため、ごたごたはあったものの、応神天皇が天皇として認められる結果となったように思えるのです。
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