古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

崇神天皇と纏向遺跡 ①

2020-09-29 11:18:52 | 歴史

第10代崇神天皇は、実在する初めての天皇と思われます。

彼の時代、日本のどこかに卑弥呼女王の都する邪馬台国がありました。

崇神天皇の御代に疫病が流行り、人口が半分以下に激減したことが日本書紀に記されています。

崇神天皇の都・纏向遺跡には広い範囲から大勢の人間が集まった様子ですから、感染症が流行るのも、うなずけますね。

でも昔の話ですから、疫病は大物主神の祟りだと考えられました。

大物主は、大国主の荒魂ではなく和魂。

和魂に祟られるって、崇神天皇は一体何をしでかしたというのでしょう⁉

崇神天皇の大叔母とされるモモソヒメは大物主神との神婚に破れ、事故死なのか自死なのか亡くなっているし、本当に一体何があったというのでしょう?

倭成す大物主…と崇神天皇は歌に詠みますし、大物主のお告げを夢見もしています。

両者の間に交流がなかったはずはありません。

 

纏向遺跡の時代に前方後円墳は創り出されたといわれます。

前方後円墳には各地の墓制の影響が見られ、ヤマト・吉備・北部九州 そして出雲が主となったであろうと推測されています。

出雲の要素が前方後円墳にあると言われるにもかかわらず、出雲はこの時期に前方後円墳を造っていません。

出雲が前方後円墳を造営するのは4世紀後半になってから、それも小さな規模のものです。

出雲は纏向に参画していたものの、何かしらの理由でその連合から外れた(外された?)ようです。

そして繁栄を誇っていた出雲は纏向遺跡の出現後、没落していきます。

 

モモソヒメの眠る箸墓古墳。

箸墓古墳は「夜は神が造った」と語られています。

神とは三輪山の大物主=出雲だと思われます。

この不思議な伝承は、ヤマトと決裂した出雲が、前方後円墳を創り出すことには貢献していたことを暗示する物語なのでしょうか。

 


倭成す大物主神

2020-09-27 11:49:28 | 歴史

奈良・三輪山に祀られる大物主神は、出雲の大貴己神の和魂と言われています。

ニギハヤヒ神や、あるいは事代主命と同一神とも言われます。

大物主神は神婚譚を残しています。

 

三島溝咋の女・勢夜陀多良比売は見目麗しい女性でした。

その美しい姫に見惚れた大物主神は、丹塗矢に化けて用便中の姫のホトを突きます。

姫がその矢を持ち帰り、床の辺に置いたところ、忽ち麗しい壮夫になり姫と結ばれました。

二人の間に生まれた子が神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫です。

 

卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫の元にも大物主神は通います。

夜だけにしか通ってこない男に姫は「朝までいて。姿を見たい」とお願いします。

すると男は「明日の朝、あなたの櫛笥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」と言います。

翌朝、男=大物主神は櫛笥の中に美しい小蛇の姿で現れます。

倭迹迹日百襲姫は驚き叫んでしまい、大物主神は恥じて三輪山へ登ってしまわれます。

後悔した姫が腰を落としたところ、箸が陰部を突いてしまい、姫は亡くなりました。

 

神が丹塗矢に変身してホトを突いた姫とは子を成し、子を成さなかった姫は箸でホトをついて死んでしまう、何ともやるせない対比です。

賀茂の玉依姫も丹塗矢を持ち帰り、賀茂別雷神を生んでいます。

一方、スサノオが馬を逆剥ぎにして投げ入れたことに驚いた機織女も梭で陰部を突いて死んでいます。

陰部を突いて死ぬというのは、子孫を成さなかったことを象徴しているのでしょうか。

諸説あるものの、何を表しているのかどうも納得いきません。

古墳に「箸」墓という名をつけて呼んでいることを考えると、その時代の人は「箸」といえば何かを連想するものだったのでしょうか。

スサノオのヤマタノオロチ退治においても箸が川を流れてきますが。

 

崇神天皇と神武天皇が同一人物であるならば、義父 大物主が大叔母モモソヒメのもとに身分を隠して通っており、大叔母は義父との関係を苦に自殺する…

なんともワイドショー的な話です。

大物主神が出雲であれば、摂津の勢力と思われる三島溝杭とはうまく連合してやっていたが、纏向連合政権・崇神天皇とは決裂したということなのでしょうか。

 

倭迹迹日百襲姫の墓は、夜は神が造ったといいます。この神とは大物主神なのですか?

では大物主神は倭迹迹日百襲姫には恨みはなく、哀れみ慈しみ古墳造営にかかわったということなのですか?

大物主神よ、何を想う?


物部がつくり給うた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命

2020-09-25 10:35:14 | 歴史

趣味は何ですかと聞かれたなら当たり障りなく読書ですと答えますが、本当のところ、趣味は古代妄想です。

 

初めて「纏向遺跡は各地の首長層の寄り合いによって造られた都市」らしいと知ったときも、ある妄想に取りつかれました。

私の妄想は、首長層が連合して卑弥呼を担ぎ出し、邪馬台国を…という方向へは向かいませんでした。

「ニギハヤヒ」は各地の神を寄せ集めた神なのではないかという妄想です。

ははぁん、前方後円墳を各地の墓制を寄せ集めて創り出したように、各地の神を集めてニギハヤヒを造ったな、と。

だから天照国照彦天火明櫛玉饒速日命などという、いろいろな神を寄せ集めたような神名を持っておられるに違いないと思ったのです。

一説のとおり、ニギハヤヒを祖とする「物部」は当初は血族ではなく、各地から集まったモノ(霊威)を祀る職能者たちの総称だったのではないのでしょうか。

全国津々浦々といってもよいほどに、物部氏が各地に足跡を残しているのは、もともと物部が全国から集まった人々だったからではないでしょか。

 

以下、妄想を語ります。

 出雲の大物主がナガスネヒコと共に三輪山の麓あたりを開拓していた。

 それを見た各地の首長が「大乱」をおさめ、連合都市を造ろうと人を纏向へ集めることとした。

 各地の首長たちの話し合いで、共通した祭祀を作ろうということになった。

 各地の祭祀を司る「物部」たちが纏向へ集まった。

 「物部」たちの手により、各地の神々を集合した神、ニギハヤヒが誕生した。

 「物部」たちは前方後円墳や統一した祭りの方法を考え出し、それぞれ祖国へと持ち帰った。

 だから前方後円墳はあれほど早くに各地へと広まった。

 

 あっでも、そうするとニギハヤヒが哮峰に降り立ったという伝承はどう解釈する?

・・・となり妄想から覚めます。

 

物部氏に関しては謎の氏族であり、研究者の方々においても百花繚乱の様相です。

物部氏と天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、どちらも妄想のしがいがあります。

さて今度はどんな妄想に捕らわれることやら。


黥面文身と纏向遺跡

2020-09-23 10:52:10 | 歴史

魏志倭人伝には「男子無大小皆黥面文身」という一文があります。

この大小については大人も子供もと訳されることもありますが、通過儀礼として入れ墨が施されることを考えると「身分の差なく男は皆、顔と体に入れ墨をしている」と訳すほうが自然かと考えます。

この描写が魏志倭人伝にあるということは、北部九州において当時、黥面文身の習慣があったことは間違いありません。

北部九州の宗像は「胸形」や「胸肩」と表記されることもあり、胸などに特徴的な入れ墨を入れていたから宗像という名となったと言われます。

(私は宗像はヌナカタだと思っていますが)

 

対して畿内からは黥面絵画を施された土偶がほぼ出土しないことから、2~4世紀の近畿では黥面の習慣はなかったと考えられています。

日本書記においても、初代神武天皇の皇后となる畿内出身と思われる伊須気余理比売が、天皇の家来である大久米命の入れ墨をした鋭い目を不思議に思うシーンが描かれています。

 

黥面絵画は、2~4世紀の岡山県の平野部・香川県海岸部・愛知県と岐阜県の境目あたりと安城市付近の濃尾平野から集中して出土しています。

東海は纏向遺跡の外来土器の半数近くを占める地域です。

また吉備は特殊器台の存在などから纏向を主導したと考えられている地域です。

外来のメインであったと考えられる東海や吉備は黥面の習慣があったにもかかわらず、纏向では黥面の習慣が引き継がれなかったのは何故なのでしょうか。

黥面文身は氏族によって模様が異なっていたようです。

連合国家であるなら、むしろ出身地を表す黥面は重要なように思えるのですが。

黥面なんて一度施すと取ることができず、纏向に集まった一世たちの顔には黥面が施されていたはずです。

 

かと言って黥面の習慣を持たなかった近畿のクニが発展して、纏向を主導・建設したとも考えにくいところです。

畿内の弥生時代にそれだけの権力があったとは、今のところ考えられていません。

個人的には唐古・鍵遺跡などは、立派な集落だったように思いますが。

畿内は鉄を入手できていない後進地域といわれており、そんな地域が連合国家をつくろうと音頭をとったとて、他のクニが企画にのってくれるでしょうか。

纏向を主導したクニはどこなのでしょうか。

 

纏向には渡来人もいたようですし国際的に蛮族とみなされないように、皆で相談して2世からは黥面文身の慣習を止めた?

前方後円墳などという、大陸にはない墓制を考えだす人たちが??

 


蘇我氏のレイライン? 蘇我氏は出雲の出身ですか?

2020-09-21 11:24:12 | 歴史

私は住吉神に興味を持っておりますので、地図で神戸・本住吉神社と、大阪・住吉大社の位置関係を見ていました。

すると気づいたのです。

本住吉神社と住吉大社を結んだ延長線上に、応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳があるではないですか。

応神天皇は一説に住吉神の子であると疑われています。

これは偶然ではないかもと思い、そのまた延長上を確認すると、飛鳥に行き着くことがわかりました。

飛鳥…。蘇我氏⁉

応神天皇の親かもしれない住吉神は、武内宿禰と同一視されています。

その武内宿禰は、蘇我氏の祖先とされる人物です。

 

蘇我氏の4代の墓は明日香にあると考えられています。

蘇我馬子の墓であることが有力視されている石舞台古墳の下層からは、古い時代の古墳が発見されています。

つまり古い古墳を破壊して、何故かわざわざその場所に石舞台古墳は築造されています。

 

石舞台古墳と応神天皇陵、住吉大社、本住吉神社はかなり一直線上に並んでいます。

これって、所謂 レイライン でしょうか?

 

本住吉神社側の延長線上には何もないのかな?

いや、ありました。

播磨国一之宮 伊和神社です。

伊和神社の祭神は伊和大神=大己貴神とされます。出雲神です。

伊和神社のそのまた先には伯耆国一之宮、倭文神社もあるじゃありませんか。

倭文神社にも大己貴神が祀られています。

 

倭文神社・伊和神社(大己貴神)→本住吉神社(住吉神=アジスキタカヒコネ?)→住吉大社(住吉神=武内宿禰)→誉田御廟山古墳(応神天皇)→飛鳥(蘇我氏)

 

きれいに時代を下って一直線に並んでいました。

蘇我氏はやっぱり「出雲」の出身者なのでしょうか。

それとも伯耆や播磨?

入鹿殺しの犯人と目される秦河勝が播磨に逃げていることを考えると播磨はないでしょうか?

 

(地図を載せたかったのですが、私のパソコンスキルが酷いため無理でした)