須玖岡本遺跡は南北2キロ、東西1キロの大きさがあり、おびただしい量の遺物が出土し、鏡・青銅製武器・勾玉の三種の神器様のセットも出土しています。
青銅器鋳造工房跡も見つかっています。
またガラスの璧が出土しているのは、三雲南小路遺跡とこちらの2例のみのようです。
奴国の丘歴史資料館・奴国の丘歴史公園として整備されているこの地が、いにしえの奴国なのでしょうか。
奴国がどこかについて考えるにあたっては、志賀島で見つかった金印について気になるところですが、偽印説もあり今回は棚上げしておきます。
もし奴国が春日市ならば、東へ百里の不彌国は太宰府あたりになるのでしょうか。
不彌国の有力候補地である宇美だと方向が違ってしまいます。
しかし、太宰府のような7世紀後半に地方行政機関が置かれる要所が不彌国で良いのか、という思いも…。
壱岐から伊都国に直行せずに末慮国へ寄ることの意味は、伊都国と末慮国の関係が後の太宰府と那の津の関係と同様だったからでは?
思い切って太宰府を伊都国としたいところですが、そんなところに伊都国をもってくると、他の国がますますわからなくなるので断念します。
では不彌国が太宰府だとすると、南へ水行する投馬国へはどうやって向かうのでしょう。
南へ向かうとなると、宝満川を使ったのでしょうか。
宝満川を使えば、有明海に出ることができそうです。有明海をさらに南に向かうことも可能です。
でも宝満川を使うとなると、御笠川を使わなかったのは何故?
官名の記載さえなく4千戸の規模の末慮国には立ち寄らず、壱岐から伊都国たる糸島へ直行する。
再び船に乗りこみ御笠川を上り、須玖岡本の奴国に立ち寄り、太宰府へ向かう。
そういうルートをとらない理由は何なのでしょうか。
どうもわかりません。
末慮国から不彌国がどこにあるか私にはわかりません。
こうなるともう、これまでに知られていない凄い遺跡が発見されることを期待するしかありません。
しかし、発見されたらされたで「いやこの遺跡を○○国とすると××国より大きくなるからそれはないか」等となり、結局わからないままの気が…。