古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

邪馬台国を考える  伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる②

2020-08-31 11:22:49 | 歴史

須玖岡本遺跡は南北2キロ、東西1キロの大きさがあり、おびただしい量の遺物が出土し、鏡・青銅製武器・勾玉の三種の神器様のセットも出土しています。

青銅器鋳造工房跡も見つかっています。

またガラスの璧が出土しているのは、三雲南小路遺跡とこちらの2例のみのようです。

奴国の丘歴史資料館・奴国の丘歴史公園として整備されているこの地が、いにしえの奴国なのでしょうか。

奴国がどこかについて考えるにあたっては、志賀島で見つかった金印について気になるところですが、偽印説もあり今回は棚上げしておきます。

 

もし奴国が春日市ならば、東へ百里の不彌国は太宰府あたりになるのでしょうか。

不彌国の有力候補地である宇美だと方向が違ってしまいます。

しかし、太宰府のような7世紀後半に地方行政機関が置かれる要所が不彌国で良いのか、という思いも…。

壱岐から伊都国に直行せずに末慮国へ寄ることの意味は、伊都国と末慮国の関係が後の太宰府と那の津の関係と同様だったからでは?

思い切って太宰府を伊都国としたいところですが、そんなところに伊都国をもってくると、他の国がますますわからなくなるので断念します。

 

では不彌国が太宰府だとすると、南へ水行する投馬国へはどうやって向かうのでしょう。

南へ向かうとなると、宝満川を使ったのでしょうか。

宝満川を使えば、有明海に出ることができそうです。有明海をさらに南に向かうことも可能です。

でも宝満川を使うとなると、御笠川を使わなかったのは何故?

官名の記載さえなく4千戸の規模の末慮国には立ち寄らず、壱岐から伊都国たる糸島へ直行する。

再び船に乗りこみ御笠川を上り、須玖岡本の奴国に立ち寄り、太宰府へ向かう。

そういうルートをとらない理由は何なのでしょうか。

どうもわかりません。

 

末慮国から不彌国がどこにあるか私にはわかりません。

こうなるともう、これまでに知られていない凄い遺跡が発見されることを期待するしかありません。

しかし、発見されたらされたで「いやこの遺跡を○○国とすると××国より大きくなるからそれはないか」等となり、結局わからないままの気が…。

 


邪馬台国を考える  伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる①

2020-08-28 12:10:54 | 歴史

私の邪馬台国への道程は、末慮国、伊都国の段階で行き詰ってしまったのですが、もうちょっと先に進みたいので強引に話を進めてみます。

末慮国の津である呼子に上陸し、末慮国の市街地である唐津に東南に向かって歩き始めましょうか。これなら一旦は東南に進めます。

(呼子だと壱岐から千余里には近すぎるぞという心の声は聞こえなかったこととします)

東南陸行して糸島=伊都国と仮定し、ひとまず進んでいくこととします。

 

伊都国は不思議な国です。

たった千余戸しかないのに、代々王がいたと記されています。

帯方郡からやってきた使者が常に滞在するところであり、国家間の公文書や贈り物を伊都国の津で点検し、中国の刺史のような監察官である「一大率」が派遣されていました。

邪馬台国でさえ悪字が使用されているのに、伊都は良い字で記されています。

どう考えても北部九州きっての重要国です。

千余戸は、魏略の記載のとおり一万余戸の間違いなのでしょうか。

「一大率」を派遣したのが邪馬台国であるとしたならば、伊都国からの出土品には邪馬台国との繋がりが見いだせるはずです。

その伊都国がどこにあるのか私には特定できないのですから、困ったものです。

 

仮に糸島=伊都とするなら、東南陸行百里の奴国は早良平野のあたりでしょうか。

最古の王墓といわれ、三種の神器を彷彿させる銅鏡・青銅製武器・勾玉というセットが出土している吉武高木遺跡群は弥生後期はじめころにはすでに衰退しているようですので、野方遺跡あたりでしょうか。糸島からだと東南というよりは東よりになってしまいますが。

奴国は2万戸と大きな国なので領地も広かろうかと思います。

早良平野の奴国から東へ百里の不彌国が須玖岡本遺跡?

いやいやそうすれば、奴国より不彌国のほうが大きくなってしまいそうです。

かと言って、不彌国を例えば早良平野中央部の有田遺跡などに比定とすると(方向も変ですが)、須玖岡本遺跡はどこの国?となります。

規模、遺物の質や量から須玖岡本遺跡は無視できない、無視できないといって須玖岡本遺跡を奴国とすれば距離がおかしい…。

距離については短里、長里、対馬や壱岐の島周から計算したりと諸説があります。私はその説を読むたびに「もっともだ」と思ってしまい、どの説をとるべきなのか未だわかりません。

とりあえず、末慮国~伊都国の5分の1の距離を目途として考えたいと思います。

すると須玖岡本遺跡では遠すぎるのですよね。

…またもや迷宮入りです。

 

 

 


邪馬台国を考える    末慮国・伊都国へたどり着けません②

2020-08-26 11:34:15 | 歴史

平原遺跡1号墓は伊都国王墓と考えられている弥生終末期の方形周溝墓です。

ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数は弥生時代としては日本一で、大量の朱も使用されています。副葬品の中に武器がなく装身具が多いこと、中国で女性が身に着ける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることから女性の墓と目されており、卑弥呼の墓であると考える人もたくさんいらっしゃいます。

 

佐賀方面に伊都国から先を比定する場合、平原に存在していた国が邪馬台国とは関係のない国だったと考えるのでしょうか。

糸島平野・福岡平野周辺に、当時の日本列島の中でも先進的な国々が形成されていたことは間違いありません。

鏡を副葬品の主体とするのは、弥生時代では三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡だけです。

邪馬台国を考える上で、古代遺跡のメッカといえる糸島平野・福岡平野を私は無視できません。

実際に訪れたであろう末慮国より大きな国がすぐ近くにあるにも関わらず、触れてもいない理由は何だというのでしょう。投馬国の記載はあるというのに。

 

末慮国に上陸して伊都国まで歩いたのは「海の難所、関門海峡を避けたかったから」というのは、陸行する上で魅力的な理由です。

末慮国を例えば宗像~北九州方面に比定して「海路で伊都国に行くには関門海峡を通らないといけないので陸路をとった」と言われれば、ああそうかと納得します。

ただ、この場合も糸島や福岡を無視してしまいますよね。

 

では伊都国を糸島市と比定してみましょう。

この場合も何故壱岐から直行しなかったのかわかりません。

その上唐津が末慮国であるならば、方向が変です。

方向が違っていることについては多くの場合、

 魏の使節が来たのは夏であり夏至の太陽は真東からではなく28度(29度)ほど北から昇る

つまり夏至の日の出の方向を東とするならば、糸島はほぼ南東に位置するのだと説明されます。

う~ん、私には魏の使者が太陽の昇る位置が季節によって違っていることを知らなかったとは考えられません。

今の我々よりずっと敏感かつ正確に太陽や星の位置から方向を見いだせたと考えます。

私は魏の使節は不彌国(あるいは伊都国)までは実際に訪れたと考えます。実際に訪れたのであれば、方向が大きくズレ過ぎています。

もし唐津街道が当時は海中だったとしたら、背振山地を登ったというのでしょうか。

 

伊都国を糸島とするのであれば、末慮国=唐津が間違っていることになります。

ここで地図を見て唖然とします。

そもそも糸島へ「東南陸行」できる陸地が存在しないではありませんか。

 

「糸島には平原王墓や三雲少路遺跡があるんやで」

「ほな伊都国やろ」

「せやけど魏志がいうには、伊都国は末慮国から東南に陸行するねん」

「ほな伊都国ちゃうか。糸島なら唐津から東南ちゃうし、壱岐から直行しよるわな」

私の頭の中ではミルクボーイの漫才さながらのやり取りが繰り広げられ、かくして私の邪馬台国への道は末慮国や伊都国の地点から、早くも閉ざされてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


邪馬台国を考える    末慮国・伊都国へたどり着けません①

2020-08-24 11:37:20 | 歴史

日本古代史最大であり永遠の謎である邪馬台国論争。

邪馬台国の所在地をめぐり、学者の方からアマチュアに至るまでまさに議論百出です。

私も古代史ファンとして邪馬台国関連の書籍を長年に亘って読み続けてきました。そろそろ自分なりの邪馬台国を見つけてみたいと思うのですが、これがまた一向に判りません。

偉い学者の方々が一生をかけて研究されても決定打が出ていないのですから、私に判らないのは当然といえば当然なのですが、いい加減「私は邪馬台国〇〇説を支持します」と言ってみたいのです。

でも現時点では本当に私にはどこだかわかりません。

何がどうわからないのか整理するために、わからない点を思いつくままに綴ってみようかと思います。

 

対馬国、壱岐国までは問題ありません。

末慮国から既にわからないのです。

 

末慮国は魏志倭人伝で対馬・壱岐を経由して最初に本土に上陸する地になります。

2007年に唐津市の桜馬場遺跡が再発見され、後韓鏡、銅釧、巴形銅器などが出土し、ここが末慮国の王墓かと言われています。

末慮国の次は「東南に陸行すること五百里、伊都国に到る」とあります。

ここでちょっと待てよ となります。

例えば末慮国=唐津、伊都=筑前国怡土郡だとする場合、壱岐から伊都国へ直接向かわない意味がわかりません。

しかも船をおりて陸行して伊都国へ向かうと言うのですよ。

魏志倭人伝には末慮国の説明として「草木が盛んに茂り、前に行く人が見えない」と書かれており、歩きづらそうなこと、この上ありません。

ますます直行せずに陸行する意味がわかりません。

かと言って、末慮国が寄り道に値するような描写もありません。

 

では伊都国は、壱岐から直行できない、津に面していない地にあったのでしょうか。

伊都国に津はなかったとの説を採っておられるのが、MRIの世界的権威である中田力氏です。

伊都国には津はなく「皆津に臨みて捜露し」の津とは末慮国、つまり唐津そのものを意味していたというのが氏の考えです。

唐津に着き「東南」に陸行するには、松浦川沿いに佐賀に向かう道が最も自然であるともおっしゃっています。

 

もし唐津に着き「東南に陸行」するのであれば、松浦川沿いの道しかないと、私も思います。

ただ、伊都国を佐賀方面に比定した場合、例えば糸島市の平原遺跡をどう考えていいのかわからなくなるのです。

 

 

 


棄てられた銅鐸神②

2020-08-21 19:10:22 | 歴史

さて棄てられた銅鐸神はどの神様なのでしょう。

 

まずは出雲国風土記において「御財を積んでおいた所」と記されている場所から銅鐸が出土した、大国主が考えられます。

 

鉄鐸を作ったとして先代旧事本紀や古語拾遺に名を残しているのが天目一箇命です。

この神と同一視されている天御影命の祀られる御上神社のほど近く、野洲市の大岩山からは24個もの銅鐸が出土し、日本最大の銅鐸も含まれています。

天御影も銅鐸神でしょうか。

 

また雷神であり稲作の神であるアジスキタカヒコネも銅鐸神だと思われます。

雷神=鳴神であることと、銅鐸の農耕絵画から「スキ=鋤」の名を持つアジスキタカヒコネは銅鐸神と解釈されています。

 

イザナギを「サナキ」の神(鉄鐸)と仮定して、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴神をそれぞれ鏡、勾玉、剣の神と仮定するならば、

 棄てられた銅鐸神は「蛭子

と考えるのは無理でしょうか。

福男選びで有名な西宮神社の御祭神は蛭児大神です。蛭児大神は古くは廣田神社の「浜南宮」内に鎮座していたといいます。梁塵秘抄に

 南宮の本山は信濃のくにとぞ承る さぞ申す 美濃の国には中の宮 伊賀の国には幼き稚児の宮

とあるように、南宮は諏訪大社に通じます。鉄鐸と銅鐸の違いはあるものの、棄てられる神としては蛭子ほどふさわしい神はないでしょう。

 

えべっさんと言えば、「鳴り物が好き」な事代主も銅鐸神でしょうか。

ひょっとして出雲国造神賀詞の大国主、アジスキタカヒコネ、事代主、カヤナルミは全て「鐸」の神だったりはしないでしょうか。

 

近江三尾神社に「猿田彦神曰く 吾が死ぬと銅鐸が鳴り響くであろう」と伝わる猿田彦も銅鐸と関係がありそうです。

伊賀国風土記逸文に「猿田彦の女の吾娥津媛命は、四神之御神が天上から投げ下ろしなさった三種の宝器のうち、黄金の鈴を受領してお守りになった」という記載があるといいます。

 

佐那神社に祀られる手力男も佐那=サナキでしょう。田力男なのですから、鉄鐸ではなく銅鐸でしょうし。

 

他にも伊福部の祖である櫛玉饒速日だとか、金属神の金山彦とかいろいろと該当しそうな神様はいらっしゃいますね。

 

銅鐸に纏わるたくさんの神々が各地で棄てられてしまった中、棄てられなかった「鉄鐸」って凄いな、と思います。

諏訪から出ないことを条件に棄てられなかったのでしょうか。