崇神天皇が実在する初代天皇であるなら、神武天皇から欠史8代の天皇は実在しなかったとみるべきなのでしょうか。
天皇家の歴史を古くみせるために、崇神天皇の主に前半生を神武天皇として書いたのだという有力な説があります。
しかし纏向遺跡の発掘が進み、纏向遺跡からは九州の土器がほとんど出ないことが判ってきた今、神武天皇と崇神天皇が同一人物とみるのは難しいように感じます。
崇神天皇と神武天皇が同一人物なら、崇神天皇は南九州からやって来た人のはず。纏向遺跡の出土物から考えるとそれはなさそうです。
では神武天皇は崇神天皇とは別人で、南九州から「橿原」にやって来た人なのでしょうか?
畝傍山の東南麓に広がる橿原遺跡は縄文から奈良時代までの遺跡群です。
諸説あるものの神武天皇が紀元前660年に即位したとするなら、神武天皇の頃に橿原に一つの勢力が存在したことは確かです。
ただし、統一王朝があったという話ではありません。
橿原遺跡からは近畿では突出した数の土偶が出土しています。
青森・亀ヶ岡式土器の西限端とされ、縄文晩期では東北の大洞土器や中部山岳、北陸の特徴を持った土器が出土しているようです。
九州地方の土器に類以する文様を持ったものも少量は出土しているようですが、東からの土器が圧倒的に多いのが、橿原遺跡です。
縄文後期に気候が寒冷化したために、東から人々が移動してきたのでしょうか。
神武天皇がどこかから橿原に来たというのであれば、西からではなく東からだと遺跡は語っています。
秋田物部文書では、ニギハヤヒは出羽の鳥海山に降臨し、東国を平定後に大和まで進んだと記されているそうです。
遺跡は記紀ではなく、秋田物部文書のいう「ニギハヤヒは東から来た」を明らかにしているように思えます。
もしニギハヤヒが東から来たとして、では神武天皇はどこから来たのでしょう?
南九州から来ていないのであれば、なぜ南九州から来たという設定になったのでしょうか?
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