図書館で書籍棚を見ていたら背表紙の「大学紛争」という言葉が目に入った。書名に惹かれて分厚い本を手に取り、ページをめくって少し驚いた。五十数年前に私が通っていた大学の、あの日あの時の、あの場所での出来事が回想されていたのである。著者は当時、学生運動をするために大学に入ったという、全共闘と対峙する側の活動家である。
私は単純に大学は学問の府であると思っていた一学生に過ぎない。ただ学園全体が大きな潮流で動いている時、活動家でなくても多くの学生が目の前の現実に対応を迫られた時代である。本書を読み進むうちに、忘れていた記憶の断片が滓のように浮かびあがってきた。
事実の経過等については自分なりの思いがあるが、まだ読み終わっていない。できれば後日、書いてみたい。それとは別に本書を読みながら、入学式に参列するため母が同伴して上洛した時の様子を思いだした。今回はそのことについて。
高校卒業後の進路については両親に何の相談もしなかった。自分で決めて福岡で行われた地方試験を受けたが、母は何も言わなかった。ただ合格通知が来た時、一言だけ「やっぱり行くとね」とつぶやいた。いまにして思えば、二人息子のうち兄は就職して関東に住んでおり、私は自分のそばにいてほしかったのだろう。
入学式の前日、京都駅前から市電に乗り北白川の下宿先に着いた。桜が満開の季節だった。寝具類は国鉄のチッキで送っていたが、下宿の小母さんが気を利かしてもう一組、布団を出してくれた。あくる日、入学式が終わって会場を出てくると、母が私を見て学生同士で喧嘩をしていたよと言った。当時は何も知らなかったが学園紛争のはしりである。親も来ているのにと、晴れの入学式にケチをつけられた思いだった。
母はその日の夕方に帰郷した。駅のホームで窓越しに見送った時、なにか母に悪かったような気がしたことを憶えている。彼女にとっては初めての京都だったろうが、市内見物もしなかった。入学式のあと下宿に戻り、近くで当座の生活に必要な買い物をしただけである。翌日から、知らない土地での初めての一人暮らしが始まった。
写真は銀閣寺道を流れる疏水分線の浄土寺橋から。下宿はこの橋の手前から左に少し行った下池田町にあった。この場所に、以前投稿したことがある伝説のラーメン屋台があった。
昨日は部屋の中よりも外の方が暖かく感じた一日でした。こちらでは梅の花はまだ蕾が多く、気の早いものが数輪咲き始めたそうです。それでも近くの町からは佐賀城下ひなまつり、天領日田おひなまつり、水郷柳川のさげもんまつりなど、雛祭りイベントの便りが届くようになりました。あとひと月もすれば啓蟄。春の訪れが間近です。
入学当時の様子をよく覚えていらっしゃるので、とても感心しました。ありがとうございます、少し思い出す事ができました。私は北白川辺りに下宿して、そうですね〜唯一、百万遍の中華屋さんの炒飯が美味しかったことくらいでしょうか、それと田舎出身者には珍しい喫茶店、別当町のジュネスに浸かりきり、いい加減な学生でした(笑)
百万遍あたりは京大生の縄張りになるのでしょうか。商店が多くて賑やかだったような記憶があります。アルバイトの口を探しに学徒援護会に行っていました。
白川通のジュネスは、経営が代わっていなければ一度入ったことがある喫茶店だったと思います。洒落た二階建てでした。
当時のことを書いた本を読むといろいろと懐かしく思い出します。
コメント有難うございました。