②8月16日
7時30分起床。昨夜の食べ過ぎ飲み過ぎで、まだ腹が苦しく、兄に朝食に誘われるが、まだ腹がふさがっていて食べられないと固辞した。
一周忌は午前11時から。引き出物を運ぶのと受付をするのとで9時まで身支度を整える。すると9時前に矢本の英雄先生がすでに到着しており、引き出物を車に運んでおられる。慌てて階下に降りて手伝う。引き出物は異様に重い。何kgあるかわからないが、広辞苑2冊ぐらいの重さがあり、私が片手で一袋持つと、肩が抜けそうな気がしたので、これは七十過ぎのじいさん、ばあさんが持つ荷物ではないなと思った。
英雄先生と俊二さんが手伝ってくれて、大文字屋の大きい方のバン(車)に引き出物を積み終わり、これは兄が運転し、私は俊二さんの運転する矢本の車に同乗して称法寺に向かう。英雄先生は車中で、女川の淳こちゃんが車で来たのを見て、「今日は呑む相手がいないから呑むのは諦めた」とひどく消沈している。私は慰める言葉もなく(「私も呑みますので…」と申し上げたが効果ゼロであった)、称法寺まで車に揺られていった。
称法寺に到着し、引き出物をお寺の中に運ぶ。(お寺の方は「お引き」と呼んでいた。)たいした数ではないが、何せ重いので、少し大変であった。
二台の車はいったん大文字屋に引き返し、私は来客案内も兼ねて寺に残ることに。お勤めまで1時間以上あるので、境内を撮影して回る。人気もないのに鐘楼の鐘が鳴り出す。最近のお寺の鐘は機械で自動で鳴らすらしい。
10時30分頃から参列の方々がお見えになる。私は受付と撮影係を務める。因みに兄は前回同様「写ルンデス」を用意したが、私が使おうとしないので兄が自ら撮影していた。
11時05分より読経。同15分頃より焼香。同40分頃に仏事は終了し、広間に移動し、兄の挨拶の後、会食・歓談。
料理は、かわりごはん、海老の素揚げ、一口寿司、雲丹、茹でたかに、おひら(クルミドウフ、しいたけ、筍の入った、とろみのついたおすまし)などなど、飲み物はビール(スーパードライ350ml)、日本酒(墨廼江のワンカップ)である。
私は少し食べた後に、参列の方とのお話と撮影。
午後1時頃散会となった。帰宅の方には、引き出物が重いので、私が近所の方には運んだり、車まで運んだりした。後から兄や恵美ちゃんが持ち帰りの折りと一緒に車で届けた方も多かった。私はもりやさんの引き出物を車までお持ちし、斎藤商店さんの自宅まで引き出物をお持ちした。恵美ちゃんに同乗して西村さんを自宅までお送りする。
そういうわけで、父、憲ちゃんの一周期は無事終了した。
* * * * *
すべてが片付き、大文字屋に戻ったのが午後3時半から4時ぐらいだった。
すでに女川の淳こちゃんと矢本の英雄先生はできあがっていた。おばちゃんたちも話に花を咲かせている。
ビールを飲んでいた私に淳こちゃんが「何だ? こっちは飲まねのが?」と一升瓶を指差す。「あっ、いただきます。」と私。
銘柄は「鬼殺し」。日本全国にいくつか同名の銘柄があるが、これがどこの「鬼殺し」かは確認しなかった。
英雄先生は「毎朝、家の外を1時間以上歩く」と言う。ウォーキングのことらしい。「それは歩き過ぎじゃないっすか?」と私が言うと、「いや、夜のコレのためだから」と一升瓶を指差す。「でねど、これが旨ぐねがら。」元気だ。
電車やバス通勤していた時代に、何度か駅を乗り過ごし、駅のベンチや旅館に泊まった話も。
淳こちゃんとこの日の引き出物の重かったことを話していて、私が「あれは年寄り殺しだっちゃ」と言うと、おんちゃんは「当たり~!!」
その後、憲ちゃんの話になり、「おら、はっきり言うげっとっしゃぁ、あんだのお父さんさぁ、お客さん来てさぁ、おらがさぁ、豆腐の工場ささぁ、工場(こうば)って分かる? 裏のさぁ、そこでさぁ、豆腐作ってる時にさぁ、お客さん来てんのにさぁ、起きて来ねんだがら。そんで、あれ、ゴッホだどかセザンヌだどかって展覧会あるっていうど行ぐんだから。…自分でも言ってんのさぁ。おら、商売向がねんだ、って。」
私はこの話を聞いていて、二十代の頃に春彦おんちゃんと憲ちゃんについて話したことを思い出した。若い頃は文学青年だった憲ちゃんが、それをおくびにも出さず、八百屋のおやじに収まっていることについて「どう思う?」と問う春彦おんちゃん。「ニヒルだな、って思う。」と答える私。
実は昨年12月の帰省の際には、母(喜久子)から、亡くなる数ヶ月前に書いたらしい憲ちゃんのメモの話を聞いた。そこには、自分があと何年生きられるか分からないが云々という書き出しで、自分が大文字屋を継いだ時のことなどが綴られていたという。母の話からは、それがどこまでどんなふうに書かれていたのかは分からなかったが、母の「小糸さんがどういう考えでお父さんを跡継ぎに決めたのがは分がんねげど…」などの言葉から、憲ちゃんが大文字屋を継ぐことは当時もそれほど当然のことではなかったように察せられた。
私は憲ちゃんが大文字屋を継いだのは、家制度の遺風が強い大文字屋家で、ごく当然の自然な流れとしてあったのだと思っていた。これは特に子どものころはそうであった。小学校高学年ぐらいになり父の性格についてある程度客観的に見られるようになると、憲ちゃんが根っからの商売人気質でないことは分かったが、それでも、「長男だから家を継いだ」、ただ単純にそう思っていた。ちょっと次男坊的なところの感じられる憲ちゃんに多少自分と通じるものを感じながら。
文学青年としての憲ちゃんから大文字屋の跡継ぎとしての憲ちゃんに、どのようにして「なった」のか、その経緯は分からない。憲ちゃんの心の中も分からない。
実際、憲ちゃんがふだん読んでいたものといえば河北新報と日本経済新聞と日本経済産業新聞だけであり、まわりにある書籍といえば小さな国語辞典と六法全書ぐらいのものであったから、私はただ、憲ちゃんは、大文字屋の家督を継ぐことを、大文字屋家の長男として従容として受け入れ、文学青年たる自分を殺して大文字屋の大黒柱に徹しようとしたのだろうと想像・推測するのみであった。
これは今も変わらない。
ただ、今の私にはそれとは違う思いもある。
大文字屋にある昔の写真には、生まれて間もなくの産着にくるまった兄や私を抱いて笑っている父の写真がある。父は心から笑っている。
門中のグラウンドで兄や私とキャチチボールに興ずる写真。にこやかである。
毎年の春の日帰り旅行、秋の一泊旅行で家族や店員さんたちと収まった写真。
残された憲ちゃんの毎年の手帳には中央商店会や商工会議所、豆腐組合や講和会や西村会の会合や研修の予定が書き込まれている。
朝は石巻青果市場に、さらに高級食材を仕入れに仙台の市場や問屋に通い、午後の配達、夕方の「くるみ豆腐」づくり、夜には会合や研修に出向いた。
母と二人三脚で大文字屋という店を大きくし、石巻と商店会のために働き、兄と私を育て上げた。
そこには「喜び」があったのではないか。「心の充実」があったのではないか。
明治の高等遊民ではないが、大学を出たものの人生の目標も定められず浮遊していた憲ちゃんは、戦後困窮していた大文字屋という店を再興し、地域や同業者の方々とつながり合いながら、働くことによって人生の喜びを味わっていたのではないか。
そうして働き続けて六十歳を過ぎ、病に倒れた。
身体を動かすのもままならぬ日々。それでも自らの歩んだ道にささやかな満足を得て過ごすことができたのではないか。
そう私は思う。
* * * *
トヨさんの度重なる厳しい視線に英雄さんは酒宴を切り上げて帰宅の途へ。宴は7時過ぎ開きに。私は飲み足りなかったが、もう一本あったはずの日本酒の一升瓶を開けても飲みきれるわけもなく、開栓して誰も飲まない日本酒を残していくのはもったいないし、恵美ちゃんの冷たい視線も感じたので、セブンイレブンまで行き、「日高見」の4合瓶(吟醸酒)があったので、それを買って半分程飲んだ。この日は都合4合は呑んだであろうか。母、兄、恵美ちゃんらと折の残りなどを食べ腹がはちきれそうになる。午後10時頃、やや酩酊の体で父の仏壇のある居間で床に就いた。
こうして一周忌の一日は終わったのである。
7時30分起床。昨夜の食べ過ぎ飲み過ぎで、まだ腹が苦しく、兄に朝食に誘われるが、まだ腹がふさがっていて食べられないと固辞した。
一周忌は午前11時から。引き出物を運ぶのと受付をするのとで9時まで身支度を整える。すると9時前に矢本の英雄先生がすでに到着しており、引き出物を車に運んでおられる。慌てて階下に降りて手伝う。引き出物は異様に重い。何kgあるかわからないが、広辞苑2冊ぐらいの重さがあり、私が片手で一袋持つと、肩が抜けそうな気がしたので、これは七十過ぎのじいさん、ばあさんが持つ荷物ではないなと思った。
英雄先生と俊二さんが手伝ってくれて、大文字屋の大きい方のバン(車)に引き出物を積み終わり、これは兄が運転し、私は俊二さんの運転する矢本の車に同乗して称法寺に向かう。英雄先生は車中で、女川の淳こちゃんが車で来たのを見て、「今日は呑む相手がいないから呑むのは諦めた」とひどく消沈している。私は慰める言葉もなく(「私も呑みますので…」と申し上げたが効果ゼロであった)、称法寺まで車に揺られていった。
称法寺に到着し、引き出物をお寺の中に運ぶ。(お寺の方は「お引き」と呼んでいた。)たいした数ではないが、何せ重いので、少し大変であった。
二台の車はいったん大文字屋に引き返し、私は来客案内も兼ねて寺に残ることに。お勤めまで1時間以上あるので、境内を撮影して回る。人気もないのに鐘楼の鐘が鳴り出す。最近のお寺の鐘は機械で自動で鳴らすらしい。
10時30分頃から参列の方々がお見えになる。私は受付と撮影係を務める。因みに兄は前回同様「写ルンデス」を用意したが、私が使おうとしないので兄が自ら撮影していた。
11時05分より読経。同15分頃より焼香。同40分頃に仏事は終了し、広間に移動し、兄の挨拶の後、会食・歓談。
料理は、かわりごはん、海老の素揚げ、一口寿司、雲丹、茹でたかに、おひら(クルミドウフ、しいたけ、筍の入った、とろみのついたおすまし)などなど、飲み物はビール(スーパードライ350ml)、日本酒(墨廼江のワンカップ)である。
私は少し食べた後に、参列の方とのお話と撮影。
午後1時頃散会となった。帰宅の方には、引き出物が重いので、私が近所の方には運んだり、車まで運んだりした。後から兄や恵美ちゃんが持ち帰りの折りと一緒に車で届けた方も多かった。私はもりやさんの引き出物を車までお持ちし、斎藤商店さんの自宅まで引き出物をお持ちした。恵美ちゃんに同乗して西村さんを自宅までお送りする。
そういうわけで、父、憲ちゃんの一周期は無事終了した。
* * * * *
すべてが片付き、大文字屋に戻ったのが午後3時半から4時ぐらいだった。
すでに女川の淳こちゃんと矢本の英雄先生はできあがっていた。おばちゃんたちも話に花を咲かせている。
ビールを飲んでいた私に淳こちゃんが「何だ? こっちは飲まねのが?」と一升瓶を指差す。「あっ、いただきます。」と私。
銘柄は「鬼殺し」。日本全国にいくつか同名の銘柄があるが、これがどこの「鬼殺し」かは確認しなかった。
英雄先生は「毎朝、家の外を1時間以上歩く」と言う。ウォーキングのことらしい。「それは歩き過ぎじゃないっすか?」と私が言うと、「いや、夜のコレのためだから」と一升瓶を指差す。「でねど、これが旨ぐねがら。」元気だ。
電車やバス通勤していた時代に、何度か駅を乗り過ごし、駅のベンチや旅館に泊まった話も。
淳こちゃんとこの日の引き出物の重かったことを話していて、私が「あれは年寄り殺しだっちゃ」と言うと、おんちゃんは「当たり~!!」
その後、憲ちゃんの話になり、「おら、はっきり言うげっとっしゃぁ、あんだのお父さんさぁ、お客さん来てさぁ、おらがさぁ、豆腐の工場ささぁ、工場(こうば)って分かる? 裏のさぁ、そこでさぁ、豆腐作ってる時にさぁ、お客さん来てんのにさぁ、起きて来ねんだがら。そんで、あれ、ゴッホだどかセザンヌだどかって展覧会あるっていうど行ぐんだから。…自分でも言ってんのさぁ。おら、商売向がねんだ、って。」
私はこの話を聞いていて、二十代の頃に春彦おんちゃんと憲ちゃんについて話したことを思い出した。若い頃は文学青年だった憲ちゃんが、それをおくびにも出さず、八百屋のおやじに収まっていることについて「どう思う?」と問う春彦おんちゃん。「ニヒルだな、って思う。」と答える私。
実は昨年12月の帰省の際には、母(喜久子)から、亡くなる数ヶ月前に書いたらしい憲ちゃんのメモの話を聞いた。そこには、自分があと何年生きられるか分からないが云々という書き出しで、自分が大文字屋を継いだ時のことなどが綴られていたという。母の話からは、それがどこまでどんなふうに書かれていたのかは分からなかったが、母の「小糸さんがどういう考えでお父さんを跡継ぎに決めたのがは分がんねげど…」などの言葉から、憲ちゃんが大文字屋を継ぐことは当時もそれほど当然のことではなかったように察せられた。
私は憲ちゃんが大文字屋を継いだのは、家制度の遺風が強い大文字屋家で、ごく当然の自然な流れとしてあったのだと思っていた。これは特に子どものころはそうであった。小学校高学年ぐらいになり父の性格についてある程度客観的に見られるようになると、憲ちゃんが根っからの商売人気質でないことは分かったが、それでも、「長男だから家を継いだ」、ただ単純にそう思っていた。ちょっと次男坊的なところの感じられる憲ちゃんに多少自分と通じるものを感じながら。
文学青年としての憲ちゃんから大文字屋の跡継ぎとしての憲ちゃんに、どのようにして「なった」のか、その経緯は分からない。憲ちゃんの心の中も分からない。
実際、憲ちゃんがふだん読んでいたものといえば河北新報と日本経済新聞と日本経済産業新聞だけであり、まわりにある書籍といえば小さな国語辞典と六法全書ぐらいのものであったから、私はただ、憲ちゃんは、大文字屋の家督を継ぐことを、大文字屋家の長男として従容として受け入れ、文学青年たる自分を殺して大文字屋の大黒柱に徹しようとしたのだろうと想像・推測するのみであった。
これは今も変わらない。
ただ、今の私にはそれとは違う思いもある。
大文字屋にある昔の写真には、生まれて間もなくの産着にくるまった兄や私を抱いて笑っている父の写真がある。父は心から笑っている。
門中のグラウンドで兄や私とキャチチボールに興ずる写真。にこやかである。
毎年の春の日帰り旅行、秋の一泊旅行で家族や店員さんたちと収まった写真。
残された憲ちゃんの毎年の手帳には中央商店会や商工会議所、豆腐組合や講和会や西村会の会合や研修の予定が書き込まれている。
朝は石巻青果市場に、さらに高級食材を仕入れに仙台の市場や問屋に通い、午後の配達、夕方の「くるみ豆腐」づくり、夜には会合や研修に出向いた。
母と二人三脚で大文字屋という店を大きくし、石巻と商店会のために働き、兄と私を育て上げた。
そこには「喜び」があったのではないか。「心の充実」があったのではないか。
明治の高等遊民ではないが、大学を出たものの人生の目標も定められず浮遊していた憲ちゃんは、戦後困窮していた大文字屋という店を再興し、地域や同業者の方々とつながり合いながら、働くことによって人生の喜びを味わっていたのではないか。
そうして働き続けて六十歳を過ぎ、病に倒れた。
身体を動かすのもままならぬ日々。それでも自らの歩んだ道にささやかな満足を得て過ごすことができたのではないか。
そう私は思う。
* * * *
トヨさんの度重なる厳しい視線に英雄さんは酒宴を切り上げて帰宅の途へ。宴は7時過ぎ開きに。私は飲み足りなかったが、もう一本あったはずの日本酒の一升瓶を開けても飲みきれるわけもなく、開栓して誰も飲まない日本酒を残していくのはもったいないし、恵美ちゃんの冷たい視線も感じたので、セブンイレブンまで行き、「日高見」の4合瓶(吟醸酒)があったので、それを買って半分程飲んだ。この日は都合4合は呑んだであろうか。母、兄、恵美ちゃんらと折の残りなどを食べ腹がはちきれそうになる。午後10時頃、やや酩酊の体で父の仏壇のある居間で床に就いた。
こうして一周忌の一日は終わったのである。
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