大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

『豆千代』へ行く 帰省2010.08.15.-18. 3/4

2010-09-20 03:43:57 | 日記

③8月17日


朝7時30分頃起床。

前晩のアルコールが残っていて頭痛がする。
まだ「腹くっつい」状態なので、朝食はトマト・ジュースとヨーグルトとコーヒーだけ。

午前中は、母が父の蔵書や手帳を新たに見つけておいてくれたので、これを整理し記帳する。蔵書、といってもほとんどが文庫本であるが、昨年12月の帰省の際に調べた時は巻数の不揃いや抜けがあったものが、今回出てきたものを加えてほぼ巻数が揃った。手帳も今回ので1977年から2006年まで1978年を除いて揃った。これらを調べて父の病歴と生活ぶりを確認するつもりである。

ちなみに蔵書の内容は次の通りである。



○鬼平犯科帳(一)~(二十三) 池波正太郎、文春文庫

○鬼平犯科帳の世界 池波正太郎編 文春文庫

○真田太平記三、十、十二 池波正太郎 文春文庫

○真田騒動 池波正太郎 新潮文庫

○秘密 池波正太郎 文春文庫
 
○江戸の暗黒街 池波正太郎 角川文庫

○戦雲の夢 司馬遼太郎 講談社文庫

○小説・政変石巻 野上茂 

○医者の目に涙 石川恭三 集英社文庫

○阿修羅のごとく 向田邦子 文春文庫

○あ・うん 向田邦子 文春文庫

○父の詫び状 向田邦子 文春文庫

○天使の牙 大沢在昌 小学館

○スキップ 北村薫 新潮文庫

○ゼロからの出発 徳田虎雄 徳田虎雄の出版を支援する会

○医療の最前線 医療法人仙台徳州会病院

○冠動脈手術を受けられる方のために 2002年1月発行:星稜心臓友の会 監修:小田克彦、岡林晄一 (東北大学附属病院 心臓血管外科)

○さわりで覚えるクラッシク名曲50選1 洋書ブックス編集部 ㈱樂書館(2004年初刷、2006年10刷)

○さわりで覚えるクラッシク名曲50選2 洋書ブックス編集部 ㈱樂書館

○やさしいギターソロ らくらく入門 株式会社タイムリーミュージック


○誰でも歌えるカラオケ 800集

○ゴッホ巡礼 向田直幹・匠秀夫 他 新潮社

○都市地図宮城県1仙台市 昭文社(2003年7月)

○世界地図 中野尊正 監修 国際地学協会

○仙台の散策 佐々久 株式会社 宝文堂

○「超」整理法 野口悠紀夫 中公新書1994

○デイリーコンサイス英和辞典 三省堂
 
○パーソナル和英辞典 学研(2004年初版、2006年第二版)

○国際情報社会の外来語・略語辞典(最新版) immidas 1993別冊付録 Shueisha

○防火管理の知識 全国消防長会編

○運転免許学科教本 平尾出版(文・本郷6-7-3) 日本自動車出版協会 S54.2.10.



前夜の残りをつまんでお昼にする。午後は母とテレビを見ながらのんびりする。

4時30分過ぎに今回の帰省の裏の目的であった『豆千代』訪問に出かける。

『豆千代』は、私の中学時代の同級生、同じ柔道部員であった吉田浩くんの経営する居酒屋である。新宿ボルガで毛塚さんから「チヨ(吉田くんの愛称)は石巻で飲み屋やってるよ。」と聞いて、今回行くことにしていた。

住所は帰省前にネットで調べて地図も入手してあった。蛇田駅から徒歩で行けそうなので仙石線で蛇田まで行く。蛇田駅からは国道45号線に出て南下し、大街道と交差するところで右折(仙台方向に向かう)、二つ目の角を右に曲がって100mほど行った右側にある。蛇田駅からは歩いて20分程かかった。前夜のアルコールがまだ残っていたので、夕日の照りつける中、汗が出てちょうどよいと思いながら歩いた。

『豆千代』は通り沿いにあるこじんまりした一棟の建物である。5時50分頃到着し、暖簾をくぐった。はじめ店内に人影がなく、少し待っていると男が出てきた。顔の造作を確認しなくても、そのずんぐりした体つきからチヨだとわかった。「いらっしゃい」でもなく、ことばを発したその男に、「チヨ?」と確かめるように声を掛けると、ややあって「ダイモンが?」

10席ほどあるカウンターに座る。小上がりの4人掛けが3卓ほどある。ビールをもらい、適当につまみを見繕ってもらう。ランチに出して好評だという焼肉皿を食す。肉が柔らかく、程よく甘辛い味付けも良い。

可愛らしい奥様も紹介された。

まだ客が私一人だったので、いろいろ話ができた。

まず、毛塚さんからこの店を聞いたこと。

坂本忠厚くんと一緒に来るつもりが、連絡がとれずに私一人になったこと。

チヨのこと。高校卒業後自衛隊に入隊、その後この店を開いたのが平成8年で、開店14年目になること。

中学の同級生のこと。柔道部では、武藤くんが家業の電気屋を継いでおられること、小田島くんや飯田くんや小野寺くんのことは詳しくわからなかった。ちょうど数日前に山小の同窓会があったとのことで、そこからいろんな情報が得られたとのこと。

山田のことは、…残念ながら噂通りであったようだ。今はこの世にいない。「話せば長くなるけど…」とチヨは言い、かいつまんで要点を語ってくれた。事が事だけにあまり詳しくではないが。残念である。

山田とは中学時代によく遊んだ。彼の家に遊びに行って初めて聞いたニニ・ロッソの「夜空のトランペット」を思い出す。彼とは中学時代に一緒に柔道をしたし、自転車でよく遊びに出かけた。高校時代も柔道の試合で戦って勝ったり負けたりした。たまに悪いこともするヤツだったが、基本はイイヤツだった。そんなヤツがいなくなったことがさびしい。

話していると、常連らしき男性客が来て、その日に釣り上げたというブリを『豆千代』に差し入れた。「まだ死後硬直の段階だな」と言いながらも、チヨはそれをさばいて刺身にし、私もお相伴にあずかった。季節外れの、しかも、ルアーで釣ったというそのブリは、確かにまだ味がのっていなかったが、十分楽しめる肴だった。第一こんなラッキーはそうそうあるものではない。そう嬉しくなるだけで大変なご馳走である。

店には他にも仕事帰りの女性客や近所のお盆休みの帰省客など、常連と思しき面々が続々と現れて、チヨはどんどん忙しくなるのだった。

その日のこの時間帯(午後6時半頃)は、ちょうど高校野球夏の甲子園大会で、仙台育英が3回戦興南(沖縄)と戦っているところだった。『豆千代』のカウンター上の小さなテレビもそれにチャンネルを合わせ、カウンター客は私を含めみんなあーだこーだ言いながら高校野球のパブリックビューイングをしていた。おかげで隣の女性客と楽しくお話しさせてもらった。

その時である。一人の男性客が店に入ってきた。それを見てチヨは「おう、同級生、来てっと」と声をかけ、私の方を指差す。チヨは私の方を向いて「わがっか?」と笑いながら言う。私はその客を見た。直前に四倉くんの話が出ていたので、一瞬、四倉くんかと思ったが、どうもちがう。髪を茶と白の霜降り状に染め(そんな染め方があるかどうか分からないが、見たまま言うとそんな感じである)、色白で目鼻が大きく、厚ぼったい唇。分かった。「金森!」

金森であった。しかし、彼が私の隣の席に座るまでの数秒の間に、私はこういうことを言った。

「いやあ、中学の時は会う度に、リトルリーグでオレがエラーして負けたことを『おめのせいで負けたんだど』ってイジメられたんだ。」

ちょっと自分でも驚くぐらい咄嗟にこんなことを口にした。

私は小学6年の時、同級生の津田君男くんの誘い(だったと思うが)で、リトルリーグの「石巻レッドソックス」に入っていた。練習は山小(山下小学校)か貞山小で行っていたと思う。監督は佐藤和丸先生。

このチームは前年には宮城県大会で準優勝している強豪チームだった。試合が仙台放送のローカルで放映されたのを私も見たことがある。

私はたんに面白そうだという気持ちから参加していて、はじめは体型からだろうがキャッチャーのポジションを与えられたが、キャッチャーフライをどのように判断するのかが全く理解できなかったためにキャッチャー失格となり、それでもただ練習するのが楽しくて参加していたのだが、たまたま打撃練習で良い当たりを飛ばしていたためか、次の年の公式戦の1回戦で初めてスタメンとして起用される。たしかライトで9番だったと思う。試合前にメンバーが発表されると、星くんなんかに「良かったな」と祝福されたが、私自身はあまり試合に出るとかレギュラーになるとかいう目標意識はなかったので、あまりピンとこないまま試合に出場した。

結局その試合で私は二つのエラーをする。いずれも初回で、一つはフィルダース・チョイス、もう一つはトンネルである。私は打席に立つこともなく交代させられる。チームは序盤に大量失点。後半に追い上げるも、及ばず敗戦したのである。

明らかに私のせいであった。

それは私にも分かっていた。

しかし、私はみんなに対して謝るとか、済まなそうにすることはなかった。そうしなければならないという気持ちにもならなかった。それはなぜだか分からない。おそらく、チームスポーツにおいては一人の犯したミスの責任はチーム全体が負わなければならないということを何となく分かっていたからかもしれないが(とはいえこの時の私の立場では言う筋合いではないが)、それ以上に、その時の私にとって、野球はいくつかある遊びのうちの一つに過ぎなかったからであろう。だから、私は帰りの電車(試合は仙台で行われた)の中で一年下の高橋一二三くんと笑いながらバカ話をしていて、それを見て佐藤和丸先生が少しあきれた顔をしていたのを私は覚えている。おそらく私以外の選手たちは前年の準優勝を超える優勝を意識してプレーしていたのであろう。そういう意識は私にはなかった。今思えば、これは非常に大きな教訓である。

そんな調子だったから、中学に入って、金森が校舎内で顔を合わせる度に、私に向かって「おめのせいで負げだんだ」と言うのも無理はなかった。ただ、私自身は、そう言われていい気分はしなかったにしても、金森のことをいやなヤツだと思ったり、嫌いになったりしたことはなかった。練習試合で私のいい当たりが野手の正面をついてアウトになると「惜しかったな」などと声を掛けてくれたりした。金森は元々そういういいヤツだと分かっていたからだ。

そんな金森と突然の遭遇をして、なぜあの時のことがこんなふうに私の口から出たのか。おそらく私の心の中に、自分のエラーのためにチームが負けたことをみんなに対して悪いと思っているところがあって、そのことを何らかの形で金森、そしてチームのみんなに伝えたかったのではないかと思う。謝るという形でではなく、「ぼくはあの時のことを忘れていないよ」と言うことによって。

金森はそれには答えず、私の隣の席に座った。家には50インチの大画面モニターがあるが、仙台育英の劣勢を一人で見続けるのは耐え難く、それでこの『豆千代』での観戦にかけつけたとのこと。確かにその時仙台育英は負けていた。初回に3点を入れられ、その裏に1点をソロホームランで返すが、3回ぐらいに逆に追加点を1点入れられている。対戦相手の興南は、春の選抜で優勝している強豪校である。見ていて、走攻守の随所に仙台育英より一枚上と思えるところがあった。金森は石巻のシニアリーグの副会長をしているとのこと。今年は仙台育英の選手の中に石巻出身者が多かったが、そのほとんどをよく知っているらしい。だから、「こいづらこの店に連れてくっから」と言っていた。そうして試合中の一球一球について他のお客さんたちに解説していた。

私の隣の女性のお客さんが、雰囲気的に押され気味の仙台育英ナインの様子に、「結果なんか考えずにダメ元で思い切って行けばいいのに」と言うと、金森は「そういう戦い方のレベルではもうないんだ」と言った。私が疑問に思って「それはどういういことか」と訊くと、仙台育英は高校野球ではすでに全国的な強豪校、有名校であり、相手に対して「やっぱり仙台育英は強い」「底力がある」と思わせ動揺させるような戦い方をしないといけない、というような意味のことを言った。なるほどと思った。私は最近高校野球を見ていないが、1980年代のPLや箕島のような「勝って当たり前」的な戦い方、自らのチームの名声、ブランド力をも武器にするような戦い方をしないといけない、ということのようだ。これは一種の心理作戦であるが、その中でも高等技術に属するだろう。

仙台育英はチャンスをつくるがあと一本が出ないまま終盤へ。金森は、この日の興南のピッチャーは少しおかしい、ストレートに拘り過ぎている、意地になっている。育英にチャンスはある、という。

この頃、店はほぼ満員に。私は生ビールを2杯を飲んだ後、日本酒(日高見の冷酒300ml)を飲んでいたが、その後は金森のキープしてある焼酎(「財宝」という名前だったと思う)をロックでいただいていた。私は金森に中学でなぜ野球部に入らなかったのかと訊いた。それに対してはっきりした答えはなかった。その代わり中学時代に結構悪さをしたこと、そのためよく管理室(1組の教室の隣にある先生方が詰めている細長い部屋)に呼び出されたこと、オカザキやコイズミはバガ(バカ正直)だから悪さをしてもすぐに見つかって呼び出され、ムラタは逃げるのがうまかったなどと、中学時代の悪行を振り返った。悪さと言ってもたかが知れている。私は彼らが長ランを着ていたとか、夜中に酒を飲んで暴れたとか(中学生でそれはさすがにまずいか)、もろもろ聞いても「そんなんで不良とかっていう見方はしなかったな」と言った。金森は「石小のやづらはおぼっちゃんだがんな。」と石中でも石小出身者は山小出身者を見下していたところがあったようなことを言った。私が「そうがや?」と言うと、「そんなふうには思ってねぇって言うんだべ」と少し拗ねたような言い方をした。私なぞは小学校4年ぐらいから大文字屋の配達で飲み屋の勝手口に出入りしていたので、それほどおぼっちゃんとは言えないのだが、まあ「あまちゃん」であることは確かだろう。そして山小の生徒たちは私から見て石小の生徒に比べて「野性的」に感じられるところはあった。しかし彼の「ワル」話を聞いている中で一つだけかなり悪いことがあったので、私は思わず「それは、悪いなあ~!」と大声を出してしまった。金森は「な!」と嬉しそうに笑っている。私も笑った。二人で大笑いである。まあ人の生き死にに関わることではないからいいが、時効とはいえ、ここには書けないような悪行である。まあその図がかなり笑える悪行ではあるが。

結局仙台育英はあと一本が出ないまま敗れた。金森は「負けだがら、こいづら連れてこねくていいべ」と苦笑いしながら言った。その後、仕事の話をした。現在の彼が家業の運送業を継いでいること、10代後半から東京や関西で運送関係の仕事をしていたこと、高速道で他の大型トラックと並走しているとバックミラーをどちらが前方に出すかで位置争いが決まるとか、今の時期に会社を経営していくことの難しさ、厳しさについて語っていた。話していて彼の顔貌には今まで潜ってきた修羅場の数が現れているように見えたので、そう告げると、彼は軽く笑った。

母には7時ぐらいに帰ると言って出てきたが、気がつくと10時近くになっていた。8時頃に恵美ちゃんから携帯着信があったので返信して少し遅くなる旨伝えてはあった。金森と携帯番号を交換する。彼は自分の携帯の番号の入れ方を知らないので、私に入れさせる。着信画面には1歳ぐらいのお孫さんの写真がある。もう野球の練習をさせているそうである。「帰ってくる時には必ず前もって電話しろよ。オレもいづでもっていうわけにはいがねがらや。」タクシー代をおごるという。忝い。途中から金森の酒を飲んだので、あまり『豆千代』の売り上げに貢献できなかったが、勘定を済ませ、チヨとは握手して、『豆千代』を辞去した。本当に楽しい一夜であった。

駅前でタクシーを降り、小柳町を歩いて、ラーメン屋でふつうの醤油ラーメンをシメに食べて、大文字屋に帰還したのが11時近くだったろうか。軽くシャワーを浴びて、この日はもう寝るだけであった。





付記1

『豆千代』情報である。

>http://restaurant.gourmet.yahoo.co.jp/0003098806/review/


付記2

星くんは、ピッチャーで名前が「星」だったので、本当に「巨人の星」かと思いました。彼の二つ上のお兄さんも野球をやっていて、石中、石高の野球部で活躍した。


付記3

この日『豆千代』には桜井浩樹くんの姉上も来店されていた。桜井浩樹くんは鰐陵(がくりょう=石巻高校)柔道部の私の一年後輩である。こちらは家業が鰻屋さんで、現在は姉弟それぞれに店を出しているとのこと。席が離れていたのであまりお話はできなかったが「浩樹くんによろしく。」と声をかけた。


付記4

金森については、石中文化祭の時に中庭でビートルズナンバーをバンド演奏して盛り上げたこと(これに関する毛塚さんのコメントにちょいとばかりうらみごとを言っていたが)、球技大会のバレーボールでクマとのコンビで活躍したことなどが思い出される。


付記5

ニニ・ロッソについては、今年6月12日朝日新聞の土曜版の「うたの旅人」という記事に特集されていた。イタリア北部のトリノに生まれ、5歳の時の地元教会のブラスバンドでトランペットに夢中になり、近所の長老がスパイの嫌疑をかけられ目の前でナチスに銃殺されたことがきっかけで17歳でレジスタンス運動に身を投じ、戦後に映画『道』(フェリーニ監督)のサウンドトラック演奏オーディションで「ニニが音を出した途端他の9人はお払い箱になった」という映画音楽作曲家ニーノ・ロータとの運命的な出会いを果たし(「甘い生活」や「太陽がいっぱい」もニニが演奏)、そして日本を深く愛した…。私が三軒茶屋に住んでいた時に近所にあったイタリア料理屋(たしか「トッポ・ジージョ」の絵が描いてあった」)のイタリア人マスターはニニ・ロッソと一緒に演奏旅行していた。

フェリーニのネオリアリスモとしては最後の作品と言われる『道』はこんな感じの映画。

>http://www.youtube.com/watch?v=cWyZk8s2oyg&feature=related


ニニ・ロッソによる『道』の演奏。

>http://www.youtube.com/watch?v=_5Zp-xhlvxw&feature=fvw


『道』の音楽(ジェルソミーナ)は、最近では男子フィギュアスケートの高橋大輔選手がトリノ世界選手権(金メダル)のフリー演技で採用したのが記憶に新しい。

>http://www.youtube.com/watch?v=bM3H07D6V5g

ちょっとマニアックなヴァージョン

>http://www.youtube.com/watch?v=s2rwllWVmS8&feature=fvw

映画『道』について(20170824追記)

Gelsomina (La Strada 道)-Nino Rota/Katyna Ranier

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