今年も石巻川開き祭りにあわせて帰省した。今年第100回となる川開きは8月4日、5日,6日の3日間にわたって行われた。
初日8月4日。暑かった。
2023年8月4日09時37分生田駅発小田急線各駅停車新宿行に乗り09時44分登戸駅にて快速急行新宿行に乗り換え10時09分新宿駅にてJR中央線快速東京行に乗り換えて11時00分東京駅発東北新幹線やまびこ135号仙台行に乗車。12時56分仙台着。エスパルで土産物を買い酒屋を2軒冷やかして14時16分発仙石東北ライン石巻行に乗り15時17分石巻着。
仙台に到着。七夕祭りは8月6日~8日の開催で祭り間近の雰囲気がでていた。駅構内での東北物産展では今年も青森の七郎兵衛(岩木正宗で知られる竹浪酒造店)も出店していた。
石巻に到着。こちらも当然盛り上がっています。
駅を出て最初に思ったのが「暑い! 東京と変わらない! むしろビルが少なく陽射しから逃げ場がない。」ということ。(因みに正確に言うと私は神奈川県民。)
009のお出迎え。
立町のふとん屋さんの店頭で川開きや石高同窓会のポスターなどを撮影していたら中からご主人らしき人が出てきて「石高出身ですか。私は〇〇回生の■■です!!」と元気良く声をかけられた。びっくりしつつ「ああ、どうも…」と慌てて挨拶を返した。やはり祭りの日だからかテンション高めである。
今回お世話になるホテルHAYASHIYAさん。幸い3日間部屋がとれ立地が立町のど真ん中なので撮影拠点にはうってつけである。
部屋は簡素でコンパクト。清潔で必要なものはすべてそろっている。そして内装をはじめとして全体的に何とも言えずセンスがいい。これは郡上八幡の吉田屋さんの時も感じたが快適に過ごす上で結構大事である。
一息ついて早速慰霊祭の会場である住吉公園に向かう。堤防ができてだいぶ景観が変化していた。
出島もだいぶきれいに整備されたようだ。この日は祭りで人出が多くなることを予想してか立入禁止になっていた。
このあたりも撮影用のドローンの発着スペースとして立入禁止となっていた。
かつて望楼があった小山は周りに建物等がなくなりむきだしになった形でちょっと違和感があった。
神社の鐘楼が完全復活していた。
住吉公園で行われる供養祭・慰霊祭の会場である。私が到着した時にはすでに御詠歌が始まっていた。こちらで行われるのは次の3つである。
・川村孫兵衛翁報恩供養祭
・川施餓鬼供養祭
・東日本大震災慰霊祭・13回忌法要
川開き祭りの公式行事のうちこの3つについてはこれまで十分な取材ができていなかったので第100回の今回を機会にしっかり撮影しておきたいと思った。またしばらく御詠歌を聴いていなかったのでこれを聴きたいという思いもあった。
開会に際して行政の長や祭りの主催団体代表などから挨拶があった後各行事が執り行われた。
「川村孫兵衛翁報恩供養祭」は北上川の開通に尽力した川村孫兵衛の偉業を讃え感謝の意を表し供養する祭りである。僧侶からその業績や人となりについての文章が読み上げられ読経が行われた。
川施餓鬼については次の説明がわかりやすい。
施餓鬼(せがき)とは、餓鬼道(がきどう)にあって飢えと渇きに苦しむ餓鬼に飲食を施し、仏に供養することによって餓鬼を救済し、自身も長寿することを願う仏事をいい、特に川辺で死者の霊を弔う施餓鬼を川施餓鬼という。川辺や船を用いて行われ、施餓鬼法要の後に、水死者の法名を記した経木(きょうぎ)や供物(くもつ)などを川に流す。本来は時期を限ったものではなかったが、盆行事と結び付き精霊(しょうりょう)送りや納涼の要素が大きくなっていった。(大阪市HP 「正連寺の川施餓鬼」より)
北上川で水難に遭い亡くなった人の靈を慰め供養する祭りである。
「東日本大震災慰霊祭・13回忌法要」は東日本大震災の犠牲者の霊を慰め供養するもので今回は13回忌を迎えることになる。こちらは僧侶が読経の後に犠牲者2万人余全員の氏名の読み上げが行われた。このようなことが行われていることは初めて知った。亡くなった人の中には私の知っている人もいるのでその名を確認したい思いはあったが数人の僧侶で読み上げられる人の名前をすべて耳で判別することは難しく事はならなかったがこういうことはとても大事なことだと思った。
3つの行事が一通り終了すると一般の方の焼香が始まる。再び御詠歌の調べが響き川では流燈が放流される。流燈の数は4000である。
御詠歌についてはかつてその響きに打たれてくわしく調べたことがあったが今回の御詠歌はその時聴いたのとは少し印象が異なっていた。聞くところでは御詠歌は各寺の檀家の方々が組織して行っているもので言わば寺ごとに別々のグループが行い内容も異なっているとのことであった。以前聴いたのと印象が異なったのにはそういう理由があったのであろう。それにしても御詠歌の響きにはやはり心を鎮められるものがある。浄められるとも言えようか。
また御詠歌が歌であることと関連して思ったことだが上記3つの行事で僧侶が読経以外の文章を読む際にもその読み方には独特の節回しがありそもそも読経自体がそうなのだがこの宗教の中には古来から音楽の起源を伝える何かが存在しているのではないかということだ。仏教はインド発祥であり言葉の響きや言語的なリズムなどインド由来のものと日本に伝わる際に経由してきた中国や朝鮮由来のものや加えて日本独自のものが混交したものが今日の読経や御詠歌のリズムや旋律を形成するに至った。そう考えるとインドの伝統的音楽に現在の日本の仏教の読経や御詠歌との共通点を見出すことができたとしても不思議ではない。私が知っているインド音楽とえいばシタールという楽器を奏するラビ・シャンカールぐらいだがそれでもインドの風土から生まれたものが様々な影響や化学変化を経て日本で息づいていると考えるととても不思議な気がする。分厚い時の地層をくぐり抜けてきたものが今そこにあることの不思議だ。
北上川の川面が徐々に藍色に染まりそこに流燈が広がっていく。少し目線を上げると緑色のランプが空中を横に移動している。撮影用のドローンらしい。御詠歌と流燈とドローンの交錯する川辺。
やがて中瀬の方で花火の打ち上げが始まる。慰霊の花火なので派手なものはない。流燈と花火の取り合わせも悪くないと私の近くで誰かが言った。住吉公園から内海橋へと川面の流燈と夜空の花火を望むその眺めは確かに悪くない。漫画館の姿は微妙だが石巻だからアリとしよう。しっとりした気分になりながら宿への帰路に就いた。
20230804 石巻川開き祭り帰省01 慰霊祭・流燈・供養花火 (73枚)
20230804 石巻川開き祭り01 慰霊祭・流燈・供養花火
付記1
川開きのその他の公式行事を取材したのは2016年で次の記事の主に動画に収められている。
→20160731 石巻川開き祭り帰省01 ―石巻は今年も熱かった!!(いろんな意味で)―
取材した行事は次の通り。(御詠歌についての詳細を含む。)
・重吉神社祭(釜:重吉神社)
・川村孫兵衛翁墓前供養祭(釜:孫兵衛翁墓前)
・縄張神社祭(縄張神社)
・川開き祭典(住吉公園)
・漁港祭・大漁安全祈願祭(石巻魚市場)
・川村孫兵衛報恩祭(日和山公園)
付記2
実は翌5日の花火大会前に中瀬のスペシャルライブ会場でなぜかこの歌が流れていた。懐かしさもありここに載せた。下に私訳を付した。なお、最初の20秒程は虫の声が聞こえます。
Billy Joel - Goodnight Saigon (Audio)
We met as soul mates on Parris Island
We left as inmates from an asylum
And we were sharp
as sharp as knives
And we were so gung ho to lay down our lives
俺たちはパリスアイランドで出会い心の友になった
俺たちは収容所から出所するようにして巣立った
俺たちは鋭かった
ナイフのように研ぎ澄まされていた
命を投げ出さんばかりにやる気に満ち溢れていた
We came in spastic like tameless horses
We left in plastic as numbered corpses
And we learned fast to travel light
Our arms were heavy but our bellies were tight
俺たちは訓練されていない馬のようにオドオドしながらやってきた
俺たちは番号札付きの遺体の入ったビニール袋を残していった
それで俺たちはすぐ身軽に旅することを覚えた
俺たちの腕は武器で重かったが腹は締めつけられていた
We had no home front
We had no soft soap
They sent us Playboy
They gave us Bob Hope
We dug in deep and shot on sight
And prayed to Jesus Christ
with all of our might
俺たちの背後に守りはなかった
俺たちに柔らかい石鹸はなかった
ヤツらは俺たちにプレイボーイ誌を送った
ヤツらはコメディアンのボブ・ホープを慰問に贈った
俺たちは塹壕を深く掘り何か見えると撃った
そしてキリストに祈った
あらん限りの力で
We had no cameras to shoot the landscape
We passed the hash pipe and played our Doors tapes
And it was dark, so dark at night
And we held on to each other
Like brother to brother
We promised our mothers we'd write
俺たちに景色を撮るカメラはなかった
俺たちはハシシのパイプを回しドアーズのテープを流した
それにしても暗かった、夜はことに暗かった
それで俺たちはたがいに支え合った
兄弟同士みたいに
俺たちは約束した 何かあったら互いの母親に手紙を書こうと
And we would all go down together
We said we'd all go down together
Yes we would all go down together
そうさ俺たちはみんな一緒に倒れてしまうんだ
倒れる時はみんな一緒だと言ったろう
そうだ俺たちはみんな一緒に倒れるんだ
Remember Charlie
Remember Baker
They left their childhood on every acre
And who was wrong? And who was right?
It didn't matter in the thick of the fight
チャーリーを覚えてるかい
ベーカーを覚えてるかい
彼らは子供時代の面影を残したまま故郷の墓に眠っている
それで誰が悪いのか 誰が正しいのか
そんなこと戦闘の真只中ではどうでもよかった
We held the day in the palm of our hands
They ruled the night, and the night
Seemed to last as long as six weeks
On Parris Island
We held the coastline
They held the highlands
俺たちは日中を掌握していた
ヤツらは夜を制していた その夜は
6週間も続くように思えた
パリスアイランドでのように
俺たちは海岸線を制し
ヤツらは高地を制していた
And they were sharp
as sharp as knives
They heard the hum of our motors
They counted the rotors
And waited for us to arrive
それにしてもヤツらは鋭かった
ナイフのように研ぎ澄まされていた
ヤツらは俺たちの車両のかすかな音を聴いた
ヤツらは俺たちのヘリの回転数を数えた
そうやって俺たちを待ち伏せた
And we would all go down together
We said we'd all go down together
Yes we would all go down together
そして俺たちはみんな一緒に倒れてしまうんだ
倒れるときはみんな一緒だと言ったろう
そうさ俺たちはみんな一緒に倒れるんだ
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