ゆるふわ屋。 - 鏃キロク・若林浩太郎のブログ -

シナリオライター若林浩太郎のblogです

繋がっている、ツナガッテない?

2006年11月18日 21時29分03秒 | 雑記
・技術の進歩

まだ20代の私にも、近年の技術の進歩はめざましいものが感じられる。

私が毎日触っているPC、これを本格的に触り出した頃の
CPUはPentium120(MHz)だった。

今やIntel社製のCPU、メインストリームは
Core2Duoである。
クアッドコアのMPUすら発表されたほどだ。

現在のメインマシン、そのCPUはPentium4 2.4GHz(B)である。
もちろん単純計算なんてバカげているが、それで考えると20倍である。

ムーアの法則というものがある。
IT関係に勤めるものならば誰もが耳にしたことがあるだろう。

最小部品コストに関連する集積回路における
トランジスタの集積密度は、24ヶ月ごとに倍になる、
という経験則である……と、Wikipediaには記載されている。


・もっと速くなっている

だが通信速度は、倍どころか、もっともっと速くなった。
97、98年頃に主流だったISDNはADSLになり、FTTHも増えた。
ギガビットの通信網すら提供されるようになってきた程だ。

64kbpsだったのが100mbpsになったわけだ。
もちろん理論値だし家庭用のなんて100mも出ない。

余談だがbpsのbはビットであってバイトではない。
( 1byte = 8bit )

通信速度はべらぼうに速くなり、
コミュニケーションという言葉は崩壊した。

狭義のコミュニケーションは顔を合わせて話すことかもしれない。

だがネット上のチャットや、そしてmixiの日記やBBSでの
やり取りもまたコミュニケーションの一種でないとは、
もはや言えないと私は思う。


・コミュニケーション……?

久方ぶりに会った友人が言った。

「会社の隣の机に座ってる人がさあ、しょっちゅうmixi見てるんだよね。
 で、返事がこなかったら鬱になるとか言ってて。
 中毒っぽい人多くない?」

週刊アスキーには以前、こう書かれていた。
マイミクが100人を越え、加入コミュが100を越え、
オフ会に参加し出すようになると立派な中毒者・依存者であると。

このような具体的な数字に表れていなくとも、
依存症の症状をハッキリ見せている人は確かに居る。

友人は続けて、こう言った。

「隣の人の彼女が、突然mixiを退会して……。
 居なくなったからって心配しだして、しまいに突然
 会社を抜けてタクシーを飛ばして兵庫あたりまで
 飛んでいったんだよね。驚いたわ」

その人も、その人の彼女も精神的に疲れているらしい。
ゆっくり休めばいい、休息が必要だと私は思う。

「はなまるカフェ」で、ケータイ依存症について
特集している時があり、少し観ていた。
そこで専門医は言った。

「自分が依存症であると気付いている人は、
 既に半分足を抜け出しているんですよ」と。

だが私は思う。
私も充分、このblogやmixiの中毒症状を持っていると。

私はmixiを主に、仕事用で使っている。
入っているコミュニティ経由で、
随分と仕事の応募をさせてもらったものだ。

結果はどうあれ、様々な人とメッセージなどを交わすことができた。
相手の迷惑にならぬ程度に、出来うる限り売り込みをしてきたつもりだ。

そんな私は何かを社会に対して言いたい、
言った気になりたい人である。だから日記を書く。
それが、どれだけ私的でつまらないものであっても。

そして、レスが来ない日記を書くと時間が経ってから
一抹の「残念さ」みたいなものを感じる。

鬱にもならないし「自己満足で書いている」と
分かっていても反応して欲しい自分が居る。
それはナゼか。


・そこにあるのは心そのものではない

あらゆるデータをデジタル化し、回線を通して共有することが
出来るようになったように思える昨今。

だが、我々が共有しているのはデータであり、
とどのつまり0と1の組み合わせでしかない。

どのように心を尽くして書いた文章でも、
どれだけ魂を燃やして描いた絵でも、
心をそのままアップしているわけじゃない。

心をそのままアップロードできはしない。

有機物のように広がり続けるネットワークの中に
文章を投稿し、それを読んだ時、そこにまるで
第三者が書いたものを見ているような気分になる時がある。

そこには、冷えて固まり、熱を失った活字の羅列があるだけ。
そこに本来の自分の心の声は含まれていない。

ちなみに私の心の声はたいてい「寂しい」だと思う。
動物になりたがっている自分が居る。

携帯メールで、
メッセージで、
Web上で、
コミュニケーションを交わせば交わすほど希薄に
なるように感じるのはナゼだろうか。

冷えた塊を見せつけあえばあうほど、
心を差し出さぬ実感を帯びない時間が増え
今まで感じてきた「生きる実感」が
薄くなっていくように感じてはいないだろうか。

少なくとも好きなものに没頭している時、
愛している人と抱きしめあった時、
優しい父と母の手に抱かれた時に冷えた塊の入り込む余地はない。

求める、アピールすることが出来るようになっているように見える。
それらの手段を使ってそのように伝える機会が増えたように思う。
だが、それは本当だろうか。

生の実感は自分一人だけでは味わえない。
何かに触れてはじめて、自分という者を感じるはずだ。

触れようと手を伸ばす時間は増え、
触れられないことの寂しさが増えていく。

私は引きこもりではない。
その定義すら曖昧ではあるものの、仕事のある非会社員の私は
そうでないとハッキリ言える。だが……?

こんな社会で、プライバシーの守られた部屋で
キーボードを叩く私は孤独なのだろうか。


・繋がっている、つながってない?

一人、眠る前に思い出すことがある。

まさに書いて意味をなさぬコトだが、
私は夕陽が木々の間に沈んでいくのをバスの中から観ながら
「全てが繋がっている」と実感したことがある。

直前に亡くなった叔父の姿、
可愛がってくれた祖父の笑顔、
何もかもが伸ばした左手と太陽、
そしてその向こう側に繋がっていると感じた。

私が書いた物語を読んだ人に
「電波系のを書くんだね」と言われたコトがある。

電波系でいい。

そんな素晴らしい繋がりを思い出せるアンテナなら、
ずっと持ち続けていたいと私は思う。

電波系でない貴方も、決して独りではない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿