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ここのコメントで すきかってに情報をあげてください。 2013.05.19 管理者
ここにあがったコメント(各位の近況)は2年たったら削除することとします。 2017.10.25 管理者
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相鉄とJR、東急との相互乗り入れは呑んべえにとっては本当に便利。日本橋の大江戸、大手町の寿司屋の勘八、淡路町のみますや、新宿のどぶ板横丁、渋谷のレインボーカラオケ、如何に酩酊していても、最寄りの駅から一気に希望ヶ丘にご帰還。千鳥足で横浜駅の雑踏をふらふらしていた時代は過去の遺物。
K20の面々が母校に足を運ぶのに便利になればいいなと思う。
首都圏の鉄道がどんどん相互乗り入れで発展進化していくなかで、横浜-海老名間運転を死守してるかに見てましたが・・・。
大和駅で次列車を待つ時、「次はどこ行きが来るんだ?」と自分にクイズをだせる程。それと、「この列車はどこの地下を走るのかな」の興味も尽きません。
首都圏の電車網は世界一じゃないですかね。外人さんの立場になると、便利な反面、痛い失敗をした観光客も多いと推測してます。語学下手な自分が外国でこんな鉄道網に出逢ったら、乗れないね。
ところで、便利になったからと言って、遠いかなたの呑み屋に想いを馳せる年齢でもないのかと・・・。 ほどほどがよろしいかと。
でも先日、変わった相鉄線を利用して川越に行って来ました。二俣川で特急の和光行に乗り、ひたすら通勤電車の横長の座席に座り続けて東京を横断。和光で隣に止まっていた電車に乗換川越まで。帰りは川越から元町中華街行に乗り、武蔵小杉で海老名行に乗換て三ツ境まで。
埼玉まで2時間かからず。ずっと座れましたが、横長の座席に座り続けるのもつかれますね。
川越在住の妹の友人が、色々と贈り物をしてくれます。妹が、そのお礼を兼ねて、ついでに鰻を食べに行きたいと。鰻の名店が3軒ぐらいあるそうです。
そうでした、以前にランチ会を緑園のコミセンパーティルームで開催したときに、多大なご寄付をくださった朝日大僧正の時宗のお寺にもお礼参りしたいです。
便利になった相鉄線の恩恵に浴した実感は、5月に亡き母の分骨で、東本願寺の大谷祖廟への京都の旅でした。緑園の駅から乗り換え無しの直通で新横浜駅まで座って行けたこと、帰りも同様で、新横浜駅の近さには感激しました。これで京都も近い!
遠い彼方のレストランや、料亭に思いを馳せるのも楽しいものです。
鎌倉学園の「K」、横浜商業の「Y」、いわゆる古豪のユニフォームを見るたびに、当時の我が母校の「J」のユニフォームを思い起こす。前身の神奈川一中から名を取り「神高」として親しまれた「J」である。田中投手、加藤捕手、上原遊撃手の雄姿が目に浮かぶ。また、当時はY高戦という定期戦があって、横浜商業と互角に戦うほどであった。
OB会は心の中の母校を共有する集いである。ユニフォームも異なり、校歌も異なる現役選手を応援するのも進化する伝統校としての宿命ではないか。新しい指導者、新しい指導方法、そして、それに呼応する選手のひたむきさに「今日の熱盛」を期待したい。
ちなみに、私は孫が通う慶應義塾高校の熱烈なファンの一人である。個別の事情はお許しいただきたい。フレ、フレ、神高!!
2回以降は、0点に抑えましたが、魔の1回に10点を取られ、惨敗でした。暑さが、響いたのかな???
選手は、頑張っていたと思いますよ!ご苦労さんでした。
私にとって西谷駅は通勤電車の通過駅であったが、今は必ず止まる駅として変貌を遂げている。
その停車中の車窓から見える小料理屋〇〇〇がいつの日か気になる存在になっていった。路地の角にぽつんと佇み、白い清潔な暖簾、薄明りの行灯が何とも呑んべいを魅了する。○○〇は女将の名前の配したものであろうか。相棒の花の里の鈴木杏樹さんのような女将であろうか。3分間の停車時間で想像を巡らす。
そして、アドマチのカメラは余計なことをする。K20諸氏の10年後の同期会の風景が映し出される。カウンターの中心にいるのは鈴木杏樹さんのお母さんであった。
ご関心のある方は是非是非ご来店を。
四季を持つ日本人の語り継がれた知識に感動する。そしてもっと深堀してみたくなったが、残念ながららんまんの牧野先生のように植物に造詣が深くなく、安易な代案を思いついてしまった。
花暦、ならぬ腹暦である。天空の茶園で新茶をいただきたくなったら夏野菜のタネ蒔き、東京会館にマロンシャンテが並んだら白菜の植え付け、天せいろが大海老からキノコ尽くしに変わったらだいこんのタネ蒔き、たいめいけんに牡蠣フライが登場したら寒冷紗の設営・・・これならできそうな気がしてきた。
冷凍ものを使えば人為的に制御できるなどという野暮な理系の思考回路は封印して、想像を膨らましている。
の方の参加もあり、まあまあ盛会でした。我々(K20)より上の代はK4/1名、K13/3名の計4名。K40代
はいませんでしたが、K25-K30-K50-K60代迄、結構バランス良く参加してました。自分が高齢者だと、再認識しました。
(2回戦・常盤公園G)対横浜商工 21:3 勝、
(3回戦・神奈川工高G)対神奈川工高 6:6抽選勝、
(準決勝・神奈川工高G)対南高 14:5 勝、
(決勝・三ツ沢G・1967/5/28)対桐蔭高 9:勝、
◎市民大会に優勝したので、翌月曜の全校朝礼時、部員全員が呼ばれてスロープに上ったのを思い出しました。
当時の3年は、
FW:馬場(CP),籏野、長谷川、荒井、
BK:濱中、平木、松岡、勝谷 の計8名。
初めての芝生のG(三ッ沢)で桐蔭高を破って優勝したのは忘れられない思い出です。