先日、マンガで、進撃(しんげき)の巨人(きょじん)を読みました。
この物語は、題名(だいめい)の通り、「進撃の巨人」が主人公であり、進撃の巨人が、物語の中心(ちゅうしん)にあります。
文字の通り、進撃の巨人が、どんな時でも、ともかく、「進撃」、すなわち、前進し続けることによって、ストーリーが展開(てんかい)していきます。
これが、進撃の巨人が、進むことを、やめてしまったら、物語が成(な)り立たなくなるし、終わってしまう。
だから、進撃の巨人が、前進し続けることは、避(さ)けることができないことであり、絶対条件(ぜったいじょうけん)であると、言えます。
けれど、考え方を変えれば、これはマンガ・進撃の巨人に限(かぎ)った話しではなく、あらゆる人間、あらゆるケースに当(あ)てはまることです。
その『進む』ということが、どういう意味合(いみあ)いを持つかは、それぞれの人によって、違(ちが)うと思いますが、もし、進むのをやめてしまったら、その人の『何か』が、終わってしまう。
そう、言えると思います。
だから、どんな人にとっても、進むということは、必要不可欠(ひつようふかけつ)なことであり、絶対条件だと、いえます。
進むということ、前進するということは、人生のすべてといっても、過言(かごん)ではないと思います。
では、その「進む」ということは、どうやって、形成(けいせい)されているのだろうか?
そこに、重要(じゅうよう)な意味合いがあると思います。
マンガ・進撃の巨人に戻(もど)ると、進撃の巨人は、どんな時でも、進み続ける。
進撃の巨人になることのできる、進撃の巨人の持ち主(もちぬし)である、主人公のエレンは、どんなに絶望(ぜつぼう)しても、どんなに悲しくても、どんなに涙(なみだ)を流しても、それでも、前進を続ける・・・!!
なぜか???
どうして、進むことができたのか???
それは、進撃の巨人になることができる、進撃の巨人の持ち主である、エレンが、『未来(みらい)』を、知っていたからです。
進撃の巨人には、未来を見る能力(のうりょく)があり、その能力によって、エレンは、未来を見ていた・・!!
ゆえに、その未来に向(む)かって、そうなるまで、どこまでも、進み続けたわけです。
未来を見ていたがゆえに、どんなことがあっても、進むことが、できた。
その未来があるがゆえに、どんなに過酷(かこく)でも、進むことが、できた!!!
そう、言えると思います。
けれど、ここに、ミソがあり、仮(かり)に、未来が見えたにしても、それ自体、確証(かくしょう)はないし、あやふやです。
人が聞いたら、そんなの、妄想(もうそう)だよ!と、いうかもしれません。
それを、否定(ひてい)する要素(ようそ)は、山ほど、あるわけです。
まして、困難(こんなん)であれは、困難であるほど、それを、否定するのは、たやすくなります。
エレンのような場合、進むのは、辛(つら)く、大変な障害(しょうがい)がともない、悲しみをふりきって進むのは、大変な精神力とエネルギーを、必要としたはずです。
にもかかわらず、エレンは、進み続けた・・!
なぜか?
それは、エレンが、『信じていたからです!!』
これが、進むことの正体(しょうたい)であり、原動力(げんどうりょく)だと、
言えます。
進む原動力は、『信(しん)じる』ことにある。
エレンは、進撃の巨人の能力によって、未来を見て、それを、信じることによって、初めて、進むことが、できた・・!
信じること・・。
ここに、重要なポイントがあるわけです。
だから、「信じること」は、人生においても、未来においても、夢や希望を叶(かな)えるためにも、もっとも、重要な位置(いち)を占(し)めているわけです。
だから、信じることの大小(だいしょう)、信じることの強さやエネルギー、
あるいは、信じるものが、どれだけ正しいか、正しくないか。どれだけ価値(かち)があるか、ないかによって、人生は、大きく左右(さゆう)されていくわけです。
人は、信じるということについて、それほど深(ふか)く、注意を向け、考えようとはしないように思うけれど、実(じつ)は、興味(きょうみ)をいだき、関心(かんしん)を向けなければならないのが、
『信じる』
というこのなのかもしれない。
では、何を信じたらいいのか?
どうしたら、信じる力を最大限に引(ひ)き出し、幸せになっていけるのか?
そこに、最も重要な問題が、あります。
要(よう)は、エレンのように、未来を見ることができて、そのことによって、強力に「信じる力」が生(しょう)じ、その信じる力によって、どんな困難があっても、絶対に負(ま)けないで、最後まで、進むことができれば、いいわけです。
そうすれは、人生を勝利していけるだろうし、幸せにもなっていけるはずです。
幸せの原動力も、やはり、「信じる」ことから始まるということです。
だから、単純(たんじゅん)に考えれば、良い意味で、進撃の巨人に匹敵(ひってき)するような、信じる力をもたらすものがあれば、幸せになっていけるわけです。
信じるといっても、間違ったものを信じたり、不幸(ふこう)になるものを信じたら、当然、幸せになれるはずがありません。
信じるというと、宗教(しゅうきょう)を連想(れんそう)しますが、日本においても、一般的(いっぱんてき)に、それらの宗教が、観光(かんこう)や縁起(えんぎ)もの、儀式(ぎしき)や正月の行事くらいにしか考えられていないのは、それらの宗教が、現実問題として、なんの力もない!ということです。
力がないだけならいいのですが、それらの宗教は、間違っているので、逆(ぎゃく)に、マイナスの作用(さよう)をして、人を、不幸にしてしまいます。
それらの宗教は、人間の中の「幸せになる力」を弱め、不幸へと誘(さそ)い、不幸へと引きずり、結局(けっきょく)のところ、人間を不幸にしてしまいます。
それが、日本の、観光(かんこう)宗教や神社信仰(じんじゃしんこう)、葬式(そうしき)宗教だと、いえます。
だから、それらのものは、幸せになる「信じる力」には、なりえません。
宗教というと、神頼(かみだの)みとか、おすがり信仰、区切(くぎ)りの行事のような、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを連想しますが、そうではなく、エレンが前進したように、「信じる力」によって、人間が本来(ほんらい)、持っている、幸せになる力を無限に引き出し、開花(かいか)させるものが必要だ!ということです。
信じる力によって、幸せになる力を、引き出す!!
そのための宗教が、必要だ!ということです。
宗教と考えるのがいやだったら、幸せになるためのルーティン 、幸せになるために、信じる力を引き出すルーティンと考えても、いいかもしれません。
その、信じる力によって、あらゆる幸せを、無限(むげん)に引き出すルーティンが、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、ご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』だと、いうことです。
たとえるならば、進撃の巨人のように、あたかも、未来が見えているような「信じる力」をもたらすもの、
そして、あたかも進撃の巨人のように、どんなことがあっても、幸せに向かって前進できる、無限の生命力(せいめいりょく)と希望をもたらすものが、創価学会(そうかがっかい)の『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』の信仰だということです。
ここで、正しいということ、間違(まちが)っていないということ、幸せになるために価値があるということが、最も大切(たいせつ)になってきますから言いますが、信じることにおいて、本当(ほんとう)に正しく、本当に価値(かち)があり、本当に幸せになる力をもたらすものは、この、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)しか、ありません。
進撃の巨人に戻ると、マンガの後半で、「始祖(しそ)ユミル 」という人物が、登場します。
始祖ユミルは、マンガ・進撃の巨人に中で、主人公のエレンが生きている時代から二千(2000)年まえに生まれた、奴隷(どれい)の少女で、ほかの奴隷たちの悪事(あくじ)を、かばったため、王に殺されかけます。
逃亡(とうぼう)の途中、多くの矢(や)を受け、死にかけますが、深い穴(あな)に落ち、有機生物(ゆうきせいぶつ)の起源(きげん)のようなものに接触(せっしょく)し、そこで、巨人の力を得て、復活(ふっかつ)します。
マンガ的には、大地の悪魔(あくま)と契約(けいやく)して、巨人になる能力を手に入れたとされています。
その後、巨人になる力は、始祖ユミルの子供たちに受(う)け継(つ)がれ、子供たちから子孫(しそん)へと、受け継がれます。
その巨人になる能力のある人々のことを、「ユミルの民(たみ)」といい、悪魔の民として、恐(おそ)れられます。
そして、始祖ユミルは、死後も、過去も未来もない、時空(じくう)を超(こ)えた世界に存在し、そこで、延々(えんえん)と、巨人を創(つく)り続け、巨人たちの能力や肉体を、つかさどっているとされています。
すなわち、ある意図(いと)をもって、巨人を動かし、操(あやつ)りたかったら、始祖ユミルの存在する世界に行き、始祖ユミルと接触(せっしょく)し、「こうしてくれ!」と、始祖ユミルに願いを伝(つた)えて、始祖ユミルが、その願いを受け入れ、始祖ユミルが、それを実行(じっこう)したとき、願いが実現していくと、いいことです。
そのため、主人公のエレンは、すべての巨人やユミルの民を、意(い)のままに操(あやつ)ることができるという、「始祖の巨人の力」を使うために、始祖ユミル との接触を、試(こころ)みる。
エレンは、始祖ユミルとの接触を阻(はば)もうとする勢力(せいりょく)に、殺されかかるが、すんでのところで、始祖ユミルとの接触を果(は)たす。
やがて、エレンの願いと思いは、始祖ユミルに通(つう)じ、ユミルは、エレンの願いを受け入れ、その願いを実行します。
そして、始祖の巨人の持つ、強大な力が、動き出す。
この始祖ユミルが存在している世界、過去も未来もない、時空を超えた世界に、エレンがいた時間は、永遠のように永(なが)くも感じられる。
けれど、現実の世界に戻ってみると、始祖ユミルの世界にいた時間が、ほんの1秒にも満(み)たなかったことが、わかります。
1秒にも満たない時間の中に、無限のように長(なが)い、ドラマとストーリー、そして、無限の価値があった!と、いうことです。
思うに、もしかしたら、「祈(いの)り」とは、こういうものではないか?と、思いました。
祈りといっても、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことではなく、創価学会の人たちが、ご本尊に、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、信じる力を、無限に引き出そうとする「祈り」のことです。
確かに、南無妙法蓮華経をとなえて祈る時間は、一瞬(いっしゅん)かもしれない。
けれど、そこに、未来を動かす無限のストーリーと価値が、あるのかもしれない。
だから、南無妙法蓮華経をとなえる祈りには、願いを叶える力が、あるのかもしれない。
ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえて祈る、その祈る前(まえ)と、祈った後(あと)では、表面的には、何かが、大きく変(か)わるということは、ないかもしれない。
もちろん、時として、南無妙法蓮華経をとなえた後、劇的(げきてき)に何かが変わるということも、あります。
けれど、普通(ふつう)は、南無妙法蓮華経をとなえた後、見た目(みため)、何かが大きく変わって見えるということは、ないかもしれない。
けれど、表面的には変わっていなくても、何かが、大きく変わっている。
未来という結果(けっか)が、幸せの方向に、大きく変わっていると、いえるかもしれない。
だから、心が、スッキリするし、清々(すがすが)しくなる。
素晴らしい歓喜(かんき)を、感じるときもある。
それは、表面的には変わっていなくても、未来が幸せに変わったから、そう、感(かん)じるのではないだろうか・・。
たとえば、家電(かでん)など、動かなくなって修理(しゅうり)に出すと、修理から戻ってきても、だいたい、見た目が変わるわけではない。
けれど、劇的に変わっている!!
なぜなら、動かなかったものが、動くようになっているのだから!
それと同じように、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、「自分の世界」という家電を、修理するようなものかもしれない。
南無妙法蓮華経をとなえて祈った後は、「自分の世界」の見た目は、変わっていなくても、「自分の未来の世界」が、幸せの方向(ほうこう)に、劇的に変わっている!!
そう、言えるかもしれない・・。
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
「日蓮が弟子檀那等(でしだんなとう)、
正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)
・不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と
無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて
此(こ)の御本尊の宝塔(ほうとう)の中へ入るべきなり」
と言っています。
『宝塔(ほうとう)』とは、金・銀・ダイヤモンドなど、ありとあらゆる宝石、
世界の美しい花や自然、素晴らしい音楽や芸術で飾(かざ)られた、地球の直径の3分の1もの大きさがある、巨大な塔(とう)で、ありとあらゆる幸せが詰(つ)まったものだと、考えられます。
これが、何を意味しているかといえば、この宝塔は、「自分の生命(せいめい)」を、表現(ひょうげん)しています。
「自分の生命」には、それだけスゴイ、宝と幸せが、詰まっていると、いうことです。
また、その、ありとあらゆる宝石や幸せが、詰まった宝塔(ほうとう)を、文字で表現したものが、『ご本尊(ほんぞん)』でもあります。
その宝塔の中に、どうやって入っていくのか?
言い方を変えれば、それだけの宝(たから)や幸せを、どうやって、自分のものにしていくのか?
といえば、
『無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて』
すなわち、純粋(じゅんすい)に、信じることによって、
その宝の塔(とう)の中に入ることができる。
すなわち、ご本尊を、純粋無二(じゅんすいむに)に信じることのよって、ありとあらゆる宝石や幸せを、つかむことが、できる!!
と、言っています。
この話しは、さきほどの、進撃の巨人の中の、「始祖ユミル」の話しに、少し、似(に)ているかもしれない。
信じることによって生(しょう)じた前進する力によって、始祖ユミルの世界に行き、ユミルに自分の願いを伝え、その願いが、始祖ユミルに受け入れられ、始祖ユミルがそれを実行した時に、願いが叶(かな)っていく。
同じように、創価学会の人たちが、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、その「信じる力」のよって、ご本尊という、幸せと宝(たから)が詰(つ)まった宝塔の中に、自分の生命が入っていく。
そして、ご本尊に願いが伝わり、自分の願いが、かなっていく!!
そう、たとえることが、できるかもしれない・・。
ご本尊は、功徳聚(くどくじゅ)といい、功徳(くどく)の集まりだという。
功徳とは、物質的であれ、精神的であれ、この仏法(ぶっぽう)の実践によって、自分の生命に授(さず)けられる、『幸せ』という、とびっきりのプレゼントのようなものだろうか。
また、ご本尊は、輪円具足(りんえんぐそく)ともいい、車輪が円を描くように、ありとあらゆる、一切の功徳が、欠(か)けることなく、そなわっている。
すなわち、ありとあらゆる幸せが、欠けることなく、ご本尊(ほんぞん)の中にある!!ということです。
それが、ご本尊という『宝塔』だろうか。
その、ご本尊という幸せの塔(とう)には、欠けることなく、あらゆる幸せがあるのだから、自分の望む幸せも、必(かなら)ず、存在(そんざい)する!!と考えられます。
ゆえに、純粋無二に、信じて、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえていった時、その中に(ご本尊の中に)、自分の幸せもある!!ので、自分の願いや幸せも、当然(とうぜん)のように、叶(かな)っていく・・!!
そう、表現できるのかも、しれない・・・。
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
子どもが怖(こわ)いことが起こると、「おかあちゃーん」と母親のところへ飛(と)んでいくように、母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋(じゅんすい)というか、それ以外にないのだと言う、その一念(いちねん)で御本尊に直結(ちょっけつ)し、願っていけば、どんなことも通じます。
その祈りは、かないます。
と言っています。
真剣(しんけん)を超(こ)えた、純粋な祈りは、ご本尊に通(つう)じ、そして、祈りは、かなっていく。
それは、進撃の巨人の中で、エレンの、真剣を超えた、必死(ひっし)の願いが、始祖ユミルに通じ、ユミルが、エレンの願いを実現していったようなものです。
ともかく、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンは、進み続けた。
そこにしか、活路(かつろ)はないからです。
そして、その進撃するエネルギーは、強力に信じる力にあった。
その信じる力ゆえに、負けなかった。
信じているがゆえに、どんな絶望にも、耐(た)えた。
どんな悲しみも、乗り越えていくことができた。
それは、人生を勝利し、幸せになっていく道のりと同じだと思う。
そう考えた時、どうしても、信じる力が、必要となる。
強く、誤(あやま)りなく、最高に価値のある「信じる力」が、必要となる。
その、最も、強力で、最も、正しく、最も、価値のある、最高に幸せになる『信じる力』が、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。
それは、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、最後の最後まで、前進し続けて、自分の目的を、果たしていったように・・・!!!
この物語は、題名(だいめい)の通り、「進撃の巨人」が主人公であり、進撃の巨人が、物語の中心(ちゅうしん)にあります。
文字の通り、進撃の巨人が、どんな時でも、ともかく、「進撃」、すなわち、前進し続けることによって、ストーリーが展開(てんかい)していきます。
これが、進撃の巨人が、進むことを、やめてしまったら、物語が成(な)り立たなくなるし、終わってしまう。
だから、進撃の巨人が、前進し続けることは、避(さ)けることができないことであり、絶対条件(ぜったいじょうけん)であると、言えます。
けれど、考え方を変えれば、これはマンガ・進撃の巨人に限(かぎ)った話しではなく、あらゆる人間、あらゆるケースに当(あ)てはまることです。
その『進む』ということが、どういう意味合(いみあ)いを持つかは、それぞれの人によって、違(ちが)うと思いますが、もし、進むのをやめてしまったら、その人の『何か』が、終わってしまう。
そう、言えると思います。
だから、どんな人にとっても、進むということは、必要不可欠(ひつようふかけつ)なことであり、絶対条件だと、いえます。
進むということ、前進するということは、人生のすべてといっても、過言(かごん)ではないと思います。
では、その「進む」ということは、どうやって、形成(けいせい)されているのだろうか?
そこに、重要(じゅうよう)な意味合いがあると思います。
マンガ・進撃の巨人に戻(もど)ると、進撃の巨人は、どんな時でも、進み続ける。
進撃の巨人になることのできる、進撃の巨人の持ち主(もちぬし)である、主人公のエレンは、どんなに絶望(ぜつぼう)しても、どんなに悲しくても、どんなに涙(なみだ)を流しても、それでも、前進を続ける・・・!!
なぜか???
どうして、進むことができたのか???
それは、進撃の巨人になることができる、進撃の巨人の持ち主である、エレンが、『未来(みらい)』を、知っていたからです。
進撃の巨人には、未来を見る能力(のうりょく)があり、その能力によって、エレンは、未来を見ていた・・!!
ゆえに、その未来に向(む)かって、そうなるまで、どこまでも、進み続けたわけです。
未来を見ていたがゆえに、どんなことがあっても、進むことが、できた。
その未来があるがゆえに、どんなに過酷(かこく)でも、進むことが、できた!!!
そう、言えると思います。
けれど、ここに、ミソがあり、仮(かり)に、未来が見えたにしても、それ自体、確証(かくしょう)はないし、あやふやです。
人が聞いたら、そんなの、妄想(もうそう)だよ!と、いうかもしれません。
それを、否定(ひてい)する要素(ようそ)は、山ほど、あるわけです。
まして、困難(こんなん)であれは、困難であるほど、それを、否定するのは、たやすくなります。
エレンのような場合、進むのは、辛(つら)く、大変な障害(しょうがい)がともない、悲しみをふりきって進むのは、大変な精神力とエネルギーを、必要としたはずです。
にもかかわらず、エレンは、進み続けた・・!
なぜか?
それは、エレンが、『信じていたからです!!』
これが、進むことの正体(しょうたい)であり、原動力(げんどうりょく)だと、
言えます。
進む原動力は、『信(しん)じる』ことにある。
エレンは、進撃の巨人の能力によって、未来を見て、それを、信じることによって、初めて、進むことが、できた・・!
信じること・・。
ここに、重要なポイントがあるわけです。
だから、「信じること」は、人生においても、未来においても、夢や希望を叶(かな)えるためにも、もっとも、重要な位置(いち)を占(し)めているわけです。
だから、信じることの大小(だいしょう)、信じることの強さやエネルギー、
あるいは、信じるものが、どれだけ正しいか、正しくないか。どれだけ価値(かち)があるか、ないかによって、人生は、大きく左右(さゆう)されていくわけです。
人は、信じるということについて、それほど深(ふか)く、注意を向け、考えようとはしないように思うけれど、実(じつ)は、興味(きょうみ)をいだき、関心(かんしん)を向けなければならないのが、
『信じる』
というこのなのかもしれない。
では、何を信じたらいいのか?
どうしたら、信じる力を最大限に引(ひ)き出し、幸せになっていけるのか?
そこに、最も重要な問題が、あります。
要(よう)は、エレンのように、未来を見ることができて、そのことによって、強力に「信じる力」が生(しょう)じ、その信じる力によって、どんな困難があっても、絶対に負(ま)けないで、最後まで、進むことができれば、いいわけです。
そうすれは、人生を勝利していけるだろうし、幸せにもなっていけるはずです。
幸せの原動力も、やはり、「信じる」ことから始まるということです。
だから、単純(たんじゅん)に考えれば、良い意味で、進撃の巨人に匹敵(ひってき)するような、信じる力をもたらすものがあれば、幸せになっていけるわけです。
信じるといっても、間違ったものを信じたり、不幸(ふこう)になるものを信じたら、当然、幸せになれるはずがありません。
信じるというと、宗教(しゅうきょう)を連想(れんそう)しますが、日本においても、一般的(いっぱんてき)に、それらの宗教が、観光(かんこう)や縁起(えんぎ)もの、儀式(ぎしき)や正月の行事くらいにしか考えられていないのは、それらの宗教が、現実問題として、なんの力もない!ということです。
力がないだけならいいのですが、それらの宗教は、間違っているので、逆(ぎゃく)に、マイナスの作用(さよう)をして、人を、不幸にしてしまいます。
それらの宗教は、人間の中の「幸せになる力」を弱め、不幸へと誘(さそ)い、不幸へと引きずり、結局(けっきょく)のところ、人間を不幸にしてしまいます。
それが、日本の、観光(かんこう)宗教や神社信仰(じんじゃしんこう)、葬式(そうしき)宗教だと、いえます。
だから、それらのものは、幸せになる「信じる力」には、なりえません。
宗教というと、神頼(かみだの)みとか、おすがり信仰、区切(くぎ)りの行事のような、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを連想しますが、そうではなく、エレンが前進したように、「信じる力」によって、人間が本来(ほんらい)、持っている、幸せになる力を無限に引き出し、開花(かいか)させるものが必要だ!ということです。
信じる力によって、幸せになる力を、引き出す!!
そのための宗教が、必要だ!ということです。
宗教と考えるのがいやだったら、幸せになるためのルーティン 、幸せになるために、信じる力を引き出すルーティンと考えても、いいかもしれません。
その、信じる力によって、あらゆる幸せを、無限(むげん)に引き出すルーティンが、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、ご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』だと、いうことです。
たとえるならば、進撃の巨人のように、あたかも、未来が見えているような「信じる力」をもたらすもの、
そして、あたかも進撃の巨人のように、どんなことがあっても、幸せに向かって前進できる、無限の生命力(せいめいりょく)と希望をもたらすものが、創価学会(そうかがっかい)の『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』の信仰だということです。
ここで、正しいということ、間違(まちが)っていないということ、幸せになるために価値があるということが、最も大切(たいせつ)になってきますから言いますが、信じることにおいて、本当(ほんとう)に正しく、本当に価値(かち)があり、本当に幸せになる力をもたらすものは、この、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)しか、ありません。
進撃の巨人に戻ると、マンガの後半で、「始祖(しそ)ユミル 」という人物が、登場します。
始祖ユミルは、マンガ・進撃の巨人に中で、主人公のエレンが生きている時代から二千(2000)年まえに生まれた、奴隷(どれい)の少女で、ほかの奴隷たちの悪事(あくじ)を、かばったため、王に殺されかけます。
逃亡(とうぼう)の途中、多くの矢(や)を受け、死にかけますが、深い穴(あな)に落ち、有機生物(ゆうきせいぶつ)の起源(きげん)のようなものに接触(せっしょく)し、そこで、巨人の力を得て、復活(ふっかつ)します。
マンガ的には、大地の悪魔(あくま)と契約(けいやく)して、巨人になる能力を手に入れたとされています。
その後、巨人になる力は、始祖ユミルの子供たちに受(う)け継(つ)がれ、子供たちから子孫(しそん)へと、受け継がれます。
その巨人になる能力のある人々のことを、「ユミルの民(たみ)」といい、悪魔の民として、恐(おそ)れられます。
そして、始祖ユミルは、死後も、過去も未来もない、時空(じくう)を超(こ)えた世界に存在し、そこで、延々(えんえん)と、巨人を創(つく)り続け、巨人たちの能力や肉体を、つかさどっているとされています。
すなわち、ある意図(いと)をもって、巨人を動かし、操(あやつ)りたかったら、始祖ユミルの存在する世界に行き、始祖ユミルと接触(せっしょく)し、「こうしてくれ!」と、始祖ユミルに願いを伝(つた)えて、始祖ユミルが、その願いを受け入れ、始祖ユミルが、それを実行(じっこう)したとき、願いが実現していくと、いいことです。
そのため、主人公のエレンは、すべての巨人やユミルの民を、意(い)のままに操(あやつ)ることができるという、「始祖の巨人の力」を使うために、始祖ユミル との接触を、試(こころ)みる。
エレンは、始祖ユミルとの接触を阻(はば)もうとする勢力(せいりょく)に、殺されかかるが、すんでのところで、始祖ユミルとの接触を果(は)たす。
やがて、エレンの願いと思いは、始祖ユミルに通(つう)じ、ユミルは、エレンの願いを受け入れ、その願いを実行します。
そして、始祖の巨人の持つ、強大な力が、動き出す。
この始祖ユミルが存在している世界、過去も未来もない、時空を超えた世界に、エレンがいた時間は、永遠のように永(なが)くも感じられる。
けれど、現実の世界に戻ってみると、始祖ユミルの世界にいた時間が、ほんの1秒にも満(み)たなかったことが、わかります。
1秒にも満たない時間の中に、無限のように長(なが)い、ドラマとストーリー、そして、無限の価値があった!と、いうことです。
思うに、もしかしたら、「祈(いの)り」とは、こういうものではないか?と、思いました。
祈りといっても、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことではなく、創価学会の人たちが、ご本尊に、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、信じる力を、無限に引き出そうとする「祈り」のことです。
確かに、南無妙法蓮華経をとなえて祈る時間は、一瞬(いっしゅん)かもしれない。
けれど、そこに、未来を動かす無限のストーリーと価値が、あるのかもしれない。
だから、南無妙法蓮華経をとなえる祈りには、願いを叶える力が、あるのかもしれない。
ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえて祈る、その祈る前(まえ)と、祈った後(あと)では、表面的には、何かが、大きく変(か)わるということは、ないかもしれない。
もちろん、時として、南無妙法蓮華経をとなえた後、劇的(げきてき)に何かが変わるということも、あります。
けれど、普通(ふつう)は、南無妙法蓮華経をとなえた後、見た目(みため)、何かが大きく変わって見えるということは、ないかもしれない。
けれど、表面的には変わっていなくても、何かが、大きく変わっている。
未来という結果(けっか)が、幸せの方向に、大きく変わっていると、いえるかもしれない。
だから、心が、スッキリするし、清々(すがすが)しくなる。
素晴らしい歓喜(かんき)を、感じるときもある。
それは、表面的には変わっていなくても、未来が幸せに変わったから、そう、感(かん)じるのではないだろうか・・。
たとえば、家電(かでん)など、動かなくなって修理(しゅうり)に出すと、修理から戻ってきても、だいたい、見た目が変わるわけではない。
けれど、劇的に変わっている!!
なぜなら、動かなかったものが、動くようになっているのだから!
それと同じように、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、「自分の世界」という家電を、修理するようなものかもしれない。
南無妙法蓮華経をとなえて祈った後は、「自分の世界」の見た目は、変わっていなくても、「自分の未来の世界」が、幸せの方向(ほうこう)に、劇的に変わっている!!
そう、言えるかもしれない・・。
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
「日蓮が弟子檀那等(でしだんなとう)、
正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)
・不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と
無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて
此(こ)の御本尊の宝塔(ほうとう)の中へ入るべきなり」
と言っています。
『宝塔(ほうとう)』とは、金・銀・ダイヤモンドなど、ありとあらゆる宝石、
世界の美しい花や自然、素晴らしい音楽や芸術で飾(かざ)られた、地球の直径の3分の1もの大きさがある、巨大な塔(とう)で、ありとあらゆる幸せが詰(つ)まったものだと、考えられます。
これが、何を意味しているかといえば、この宝塔は、「自分の生命(せいめい)」を、表現(ひょうげん)しています。
「自分の生命」には、それだけスゴイ、宝と幸せが、詰まっていると、いうことです。
また、その、ありとあらゆる宝石や幸せが、詰まった宝塔(ほうとう)を、文字で表現したものが、『ご本尊(ほんぞん)』でもあります。
その宝塔の中に、どうやって入っていくのか?
言い方を変えれば、それだけの宝(たから)や幸せを、どうやって、自分のものにしていくのか?
といえば、
『無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて』
すなわち、純粋(じゅんすい)に、信じることによって、
その宝の塔(とう)の中に入ることができる。
すなわち、ご本尊を、純粋無二(じゅんすいむに)に信じることのよって、ありとあらゆる宝石や幸せを、つかむことが、できる!!
と、言っています。
この話しは、さきほどの、進撃の巨人の中の、「始祖ユミル」の話しに、少し、似(に)ているかもしれない。
信じることによって生(しょう)じた前進する力によって、始祖ユミルの世界に行き、ユミルに自分の願いを伝え、その願いが、始祖ユミルに受け入れられ、始祖ユミルがそれを実行した時に、願いが叶(かな)っていく。
同じように、創価学会の人たちが、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、その「信じる力」のよって、ご本尊という、幸せと宝(たから)が詰(つ)まった宝塔の中に、自分の生命が入っていく。
そして、ご本尊に願いが伝わり、自分の願いが、かなっていく!!
そう、たとえることが、できるかもしれない・・。
ご本尊は、功徳聚(くどくじゅ)といい、功徳(くどく)の集まりだという。
功徳とは、物質的であれ、精神的であれ、この仏法(ぶっぽう)の実践によって、自分の生命に授(さず)けられる、『幸せ』という、とびっきりのプレゼントのようなものだろうか。
また、ご本尊は、輪円具足(りんえんぐそく)ともいい、車輪が円を描くように、ありとあらゆる、一切の功徳が、欠(か)けることなく、そなわっている。
すなわち、ありとあらゆる幸せが、欠けることなく、ご本尊(ほんぞん)の中にある!!ということです。
それが、ご本尊という『宝塔』だろうか。
その、ご本尊という幸せの塔(とう)には、欠けることなく、あらゆる幸せがあるのだから、自分の望む幸せも、必(かなら)ず、存在(そんざい)する!!と考えられます。
ゆえに、純粋無二に、信じて、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえていった時、その中に(ご本尊の中に)、自分の幸せもある!!ので、自分の願いや幸せも、当然(とうぜん)のように、叶(かな)っていく・・!!
そう、表現できるのかも、しれない・・・。
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
子どもが怖(こわ)いことが起こると、「おかあちゃーん」と母親のところへ飛(と)んでいくように、母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋(じゅんすい)というか、それ以外にないのだと言う、その一念(いちねん)で御本尊に直結(ちょっけつ)し、願っていけば、どんなことも通じます。
その祈りは、かないます。
と言っています。
真剣(しんけん)を超(こ)えた、純粋な祈りは、ご本尊に通(つう)じ、そして、祈りは、かなっていく。
それは、進撃の巨人の中で、エレンの、真剣を超えた、必死(ひっし)の願いが、始祖ユミルに通じ、ユミルが、エレンの願いを実現していったようなものです。
ともかく、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンは、進み続けた。
そこにしか、活路(かつろ)はないからです。
そして、その進撃するエネルギーは、強力に信じる力にあった。
その信じる力ゆえに、負けなかった。
信じているがゆえに、どんな絶望にも、耐(た)えた。
どんな悲しみも、乗り越えていくことができた。
それは、人生を勝利し、幸せになっていく道のりと同じだと思う。
そう考えた時、どうしても、信じる力が、必要となる。
強く、誤(あやま)りなく、最高に価値のある「信じる力」が、必要となる。
その、最も、強力で、最も、正しく、最も、価値のある、最高に幸せになる『信じる力』が、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。
それは、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、最後の最後まで、前進し続けて、自分の目的を、果たしていったように・・・!!!