山下公園 クルーズ
氷川丸
戦前にシアトル航路の豪華貨客船として活躍した後、
戦中は病院船、敗戦後は引き揚げ船、戦後は今一度シアトル航路に使われた後、
昭和36年5月、ここ山下公園に係留されたそうです。
船内は見学できます
名前の由来 さいたま市大宮区にある「氷川神社」から取っていて
所有している日本郵船では船名を旧国名や山、神社の名前を
使う伝統があったそうです
「大和」「武蔵」など聞いたことありますよね
営業悪化から一時閉鎖されていたマリンタワー
今年リニューアルオープン
山下公園といえば氷川丸・マリンタワーでしたから
このオープンはうれしいですね
作詞:野口雨情
1 赤い靴はいてた 女の子
異人さんに つれられていっちゃった
2 横浜のはとばから 船に乗って
異人さんにつれられて いっちゃった
童謡「赤い靴」のモデルとして作られた
「赤い靴の女の子」の像
モデルになってる女の子は実在したそうです
では少し長くなりますが
悲しい物語
明治35年7月15日、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水宮加三)で生まれました。
きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情で母「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母かよは再婚相手、夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植し、当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、やむなく3歳のきみちゃんを子供に恵まれないアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出すことを決意します。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。その後、札幌の新聞社へ入社した鈴木志郎は、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情(作詞家)と出逢います。雨情は生まれてすぐに亡くなった我が子のことを嘆き、その後、童謡「しゃぼん玉」の歌詞に想いを残した作詞家として世に名を残しています。同じ家族構成ということもあり、両家族が急速に親しくなったある日、かよは片時も忘れたことのないきみちゃんへの思いを雨情に打ち明けました。我が子を手放してしまった後悔、そして新しい両親のもとで幸せになってほしいという願いが交錯した母の心情に雨情は強く心を打たれたようです。そして母が子に寄せる愛情に感動した思いをそのまま詩に綴ったのが「赤い靴」です。かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、元気に暮らしていると信じていました。
が、しかし赤い靴の女の子は異人さんに
連れられて行かなかった!?
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとした時には、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核に冒されていました。身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ないことから、メソジスト系の鳥居坂教会の孤児院に預けられることに。その後、鎖された薄暗い部屋の中できみちゃんは病魔と闘い続けました。高熱にうなされ、きっと母の名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったことでしょう。それもできぬまま一人寂しく9歳の生涯を閉じたのは明治44年9月15日の夜でした。かよがきみちゃんの悲運を知ることなく、この世を去ったということはこの悲しい話のせめてもの救いであったと私には思えました。また、雨情が作詞の際にきみちゃんの消息を知っていたなら、名曲「赤い靴」が生まれることはなかったでしょう。
(横濱遊楽さんより引用)
マリーンルージュでクルージング
ベイブリッジの下を通り
船内でお茶しながら
かもめ達が船を追いかけてきます
曇ってたので残念!
青空と白い雲 脳内変換して見てください
ランドマークタワーを中心にしたみなとみらい21が一望できました
赤レンガ倉庫
1911年にできた当時の最新鋭の倉庫でした
アメリカの総司令部として使われた時代もあり
2002年からギャラリーやショップなどの商業施設になったそうです
開港150周年イベントで周辺にはものすごい人 人
笑っちゃうくらいの大混雑でした
大渋滞にはまりました