月々に,、、月,見る月は多かれど。。。
月、、見る月は、、、この月の月,、、、
80歳になって、、、、見る、、、
たったひとりで、、、いつまでも
お月様を見ていました。
子供のころ、、弟が生まれて
父も母も、、笑い顔を見せるようになった。
疎開先の宿舎の縁側は広くて、
十五夜のお月様の前には
ススキと、女郎花と、、アダン語が並べられていた。
お父さんも、お母さんも、、、お月さんを見ながら
子供たちに、お団子をごちそうしてくれた。
浴衣を着せてもらった、、一歳の弟は
「 井 」の字のような模様の浴衣、、、だった。
終戦まじかになって、、本土のダムを建設する南紀の山奥に
勤務することと、、疎開とが、重なって
政治家の指図で、、、町長をsていた祖父は
海を渡って、戦地まで、、
娘婿の軍医の、本土の登用で、
急遽連絡船で帰国できることになり
大陸の病院の宿舎にいた私に立ったら母であるが
祖父にとって娘と娘婿の医師を、
日本国内で始まるダム工事現場の
南紀の山村に。娘家族でもあり医師である物を
ダム建設予定地の無医村地帯が外科医を必要としていた。
村の診療所の医師だった父は
弟が生まれてから、、
笑い顔を見せるようになった。
満月の夜、、、近くに住んでいた、、、谷の久ちゃんや
はなたれ小僧の,、隆、、、
大きな牛を飼っていた家のボンボン、、、串さんさん
しょうがこうの石段の下にあった店の、、清美ちゃん
診療所の裏が
小学校の運動場だった。
赤ちゃんの弟は、、、父の腕の中で、
ぴょんぴょん、、はねながら、、、
月を指さしては、、なんか言っている、、が、、
何が必要なのか、、、、、、みんなの動く影を見て
大はしゃぎしていた、、、、け。。。ね。
「生粋の東京っ子」で育ったはずの父も、、
当時はお公家さんも、、皇后様も健康管理ために
かかりつけの病院の一つである慈恵会病院にて
健康管理の診療を受けられていたと、、、父が言っていた。
運だけが味方だった20歳代から30歳代の青春は
戦地で見た月、、、焼け野原になった実家の東京で見た月
昭和一九年の春までに、、
戦地から、、命からがら逃げかえることのできた、、、
8月8日の月、、、防空壕の中からは、、、
月は見ることはできなかったろうね、、、、。
本土爆撃の中を、、、生き残れた家族3人を連れて、、、
逃げながら見る月、、、
母は連絡船の中で、席を子供たちに使わせてもらうために、
父からもらった指輪を、現地の人に渡して「しまったといっていた。
母の故郷、、、南紀の山奥に疎開できて、、
見上げた月は、、、どんな気持ちであったろうか?
助かった、、、ここは日本だと
父母は、、安堵するつかのま、
今度は、和歌やもに向かう汽車の席を取るのに
わずかに持ち出せた貴重品と交換に
汽車の席に座れたとポツンと言っていました。
防空壕で生まれた私は、
みんなが逃げ惑う中で、、、
へその緒のついたままで、
運よく、、生まれて、、、
父の機転で
祖父の手で保護されて、
串本で出生届を出してもらえて、、、疎開地まで生き延びてきた。
爆撃の中で、、、防空壕から出てみる月は、、、
日本の男子の目には、、、どのように見えただろうか?
父も外国の戦場で、、、軍医をしながら
玉砕してゆく日本兵の、、、参上のうえに出 た月を見たはずである
資源の乏しい日本は、、、ミッドウエーで戦艦をなくし、、
研究されつくしたゼロ戦は、、、雲の上から攻撃されて、、、
満月の光の中で、、、海に消えていった、、、、映画を見たことがある。
月は、、無言で光っている、
決して、、太陽のように、、、その光は、、突き刺しては来ない
おぼろな、、月の存在そのもののような、、、静かな光である。
多くの人間たちの、、、愚かな戦争という破壊行動を、、、
静かに、空に浮かんで、、
月明かりの、、おぼろなシルエットで
底なしの,、、哀しみを空に浮かべて、、
少しづつ、、芳賀氏の空から西の空に消えてゆく
生と死の境界線で生きていた父と母、、、
3人の子供たちは戦地で死んだ、、、
父も、母も、、、、、、涙にうるんだ眼には、、
月は見えあなかっただろう、、ね。
孤独な人生の旅をしながら、、、月を見る。
いつの間にか80年という月日が過ぎた。
北海道に嫁ぐことなど、、、考えたこともなかった24歳まで、、、
たった半年で、大学に来なくなった友人が
十勝清水の病院で 医師と知り合い結婚すると
5年ぶりに便りが来た。
2年目からは、、彼女の姿は見かけなかった。
北海道の北見から来た彼女には
東京の大学は孤独だったのかもしれない
東京の空には、、月も星も、、、すすけて、、すりガラス越しのようね、、、
「美幌峠から見る満月は、、美しいわよ!!」
オカッパで、ダスターコートをひっかけて
けり足で歩く、、八頭身のすっぴんの学生に
東京育ちの多いエスカレーターの私大の大学生は
話しかけるのに戸惑っていたようであった。
北海道の北見から、、、東京の私大に進学した彼女が、、
周りの雰囲気から、、、浮いてしまっていたように、、、
24歳まで、、
東京の小学校から大学まで、、多感な時代を
東京で過ごして、、、就活する前に、、、教授から
東京大学の薬理学教室に勤務するようにと指示を受けて
あまり深く考えないで、、、
東大を、、内側の職員になって見る機会は
教授命令でもない限りは、、、自分では、、考えの外側にあったので
学生気分の延長で、、、「承知しましたということになった。」
国家公務員の身分で就職したものの、、、
寿退職する職員の欠員を補い求人だったはずが
破談になってしまい、、、30歳過ぎたその職員は
勤務続行となった。
東京大学の基礎の教室には、公務員の枠が、、、余分にはなかった。
教室員として、、彼女の縁談が、、、成立する間、我慢してほしいとのことであったが
教室院の給料では生活をしてゆくのには、余裕がなかった。
どうしたものか、、、?
教室員として勤務しても、、、先が見えないので、
やめることにした。
「私には、父が早逝してしまって、養ってくれる人がいませんので
教室員の月給では、生活できませんので、
薬剤師免許を取得していますので、
関連病院の大学病院に勤務替えして、臨床薬剤師の修業をしたいと思います。」
たった三か月目に、、、辞職願を出して、、、
東大の、、愛の小道という名前のある裏どうりから
バス停に出ようとしたら、、、まだ明るいのに、、、月が出ていた。
ぼんやりと雲がかかり、、、泣いているような月だった。
3か月しか居ないのに、、、辞職願を出した職員が居る、、、と言われて
教室の要望どうり、、、一年間は、遣り掛けの実験データーを出してから
結果を残してから、、やめるようにしてほしいと、、言われて
寿退職するといっていた先輩に、、すがりつかれるように頼まれて
その年は、、教室員として、、超安月給に甘んじ
家では、長男から、、、
「勤務したら家から出てゆくといっていたのに、、
まだ、、いるのか?、、、と 」
3日に一度は言われながらも、、、その年は、、、
腎臓のナトリウムやカリウムの、分布表を作る実験に従事したり
ヨウ素131の同位元素を使って、、投与した薬品の
Ⓑ 体内胴体を調べたり、、、ともかく、、学会前は
夜の11時までかかる実験もあり、、、
教室院の安月給では、、、割に合わない時間労働であり
途中で、大学病院の薬剤部の臨床薬剤師として
再出発をすることにして、、、転職しました。
月給ははるかに、、、2倍以上になり
福利厚生もついていて、、、 小松川高校時代の同級生もいて
解き放たれたように、、希望が湧いてきました。
東京の都会のど真ん中の大学病院の屋上から見る月は、、
赤く見えました、
私の若き心が、、、
生活してゆける月給をいただけるようになって
上気していたのかもしれませんが、、、
赤い月を見ましたね。
振り返れば、、、安月給で、、名門んの公立大学に勤務している女性たちは
大半は、、、大学院生と結婚して3年ぐらいでやめる人や、
わ他紙と同様に、、転職していったり、、、
30近くまでいる人は、、、他の大学から研究に来ている研究生と
結婚してやめてゆく場合もsるそうです。
「ともかく、、研究職に就くのなら、、、」
自分の卒業した大学に残るか
製薬会社の研究室に社員として雇用されるか、、、
母校の研究室に職員として戻れる道を付けてから
東大の研究室の教室員になるのでなければ
50歳近くなって、、、どこにも就職できないという、、、
そういう、、立場になってしまうこともあるということを体験しました、
転職がかなって、、当たり前の月給を手にしたときは
「これで、、兄貴に、、、とやかく言われなくても、、、
家から出て行けと言われても、、、大丈夫!」!
私が高校生の時に、、兄貴は学生結婚をしました。
お嫁さんも、、ハイティーンの、、短大生で
我が家の中心の部屋に、、住み着いてしまっていました、
振り返ると、、、実の娘であったも、、、19歳で父親に先立たれると
実家には、、居場所がなくなるものなのですね!
父の居たころの庭から見る月は、、、
、、、鏡にうつした、、、竹取物語のように
月は心のオアシスが、、空に浮かんでいるような
気持ちを穏やかにしてくれる、、、
別世界の癒しが。。どこにでもついてきてくれる
神秘な心の居場所でしたね。
男の子を育てるようになって、、、
月は、北海道の空で、、輝いていました。
美しい月を観るたびに、、、北海道が、自分の故郷のように
孤独を感じなくなりましたね、、、
私の家の、、お庭から見える月、、、
家族を見守ってくれている、、、
空の、、親戚のうちのように
あたたかな、、、もう一つの我が家のように
心の休ませてくれる、、、私の心の中の神様が行き来する
空の別荘の明かりのように見える時もありました。
月の表情は、、私の心を鏡に映したように
その時その時の気持ちの鏡のような光になりました。
時には、、自分との心のかかわりを、、解除して
月の世界の、、、思い出話に耳を傾けるようになりました。
満月なら、、岐阜城の背後から,、城のシルエットを映し出しながら
黄金の月を空に挙げてゆく、、、武将の姿を想像させる月こそ
戦いの悲惨なイメージの現実を忘れて
武将の兜の三日月のイメージに変えていった。
月は私の中では、、、ロケットが到達しえない、、、
心の中に住んでくれる心の中で、、癒してくれる神様のような時もあります。
人間が、、自然のままに、、、共存共栄してゆくのなら
月は永遠に、、私の心の中まで,、、差し込んでくる癒しの光であり
月にはかぐや姫が住んでいて、、、ほほえみの光を投げかけてくれて
静かな物語を、、聞かせてくれる、、、永遠の心に差し込んでくる光の神様のようです。
月はその人なりのあり方で、、、その人の心にしみる光であり続けてくれる。
北海道に、、気まぐれで,、イタズラデ、、、コケティシュで、、
女性というより、、、歌麿の美人画のような、、、
おんな、、、、の要素の強かった彼女が、、
5年ぶりに、、、手紙も電話もよこして、、、
ひこーきの切符も、、
札幌のスタンダードな宿泊所の
前払い済みの件を送ってきた。
あなたは、、大学の私の多々一人の友人だから
私の結婚式には、、、来なくてはなりません、、、
?!
東京で、、総合病院で、、薬剤師をしていた私は、、、
忙しいから行けないと、、、言った、
しかし電話は5年ぶりに、、、ご夫婦になるという旦那さんからもかかってきた。
私は電話に出なくなった。忙しすぎたのでした。
勤務しながら、、北海道の友人だからって、、、休みを取れるような暇な病院ではなかった。
それでも電話は毎日かかってきて、、、母と、、彼女のダンナさんになるという外科医が
毎日話すようになった。
私の知らないところで、、、話はどんどん進んでいった。
5月の月は、、、東京は、、スモッグの向こうに見えた。
5年も会ってない、、半年しかクラスにいなかった、、、
北海道から来た同級生だった>彼女の結婚式に、、、
臨時に有給休暇までとって、、、北海道の、、
親しくもない、、、旦那さんも初対面の、
、外科医であるというだけの
父との共通点のために、、、
病院の勤務を抜き打ち的に、、休暇をほしいなんて、、、とても言えない。
しかし、母との間に北海道の結婚式出席が決まってしまったらしかった。
、、強引に休むための、、、深夜残業の後
オーロラ便で、、、千歳についたとき、、、
東京では、、見たことのない、、、澄み切った夜空に、、、
月が、、車窓から見えた。
子供のころ、、父に抱っこされた弟と、、、近所の子らと、、、
景踏み遊びをした時の、、、澄み切った空に、、、月が出ていた。
空気が微妙に、、おいしかった。
病院勤務薬剤師としての、、、ゲリラ戦のような忙しさの中で
北海道についた真夜中の月は、、、美しかった。
結局、、、今、、私は北海道に住んで、、、55年間がすっ飛んだ。
昨日の夜も、、、夕方から、、、西の空に月が移動ぢて行くまで、、、
真夜中になっても、、、月明かりの中で、、、空を見ていた。
80歳になった今、、、今年は、、、ボーとして、、月を見て過ごそう、、、
そんな気持ちになれた。
アメリカでは、、仲秋の名月を、、、ハーベストムーンと言って
収穫の働く月の名月らしい。
月は、、、ボート、、、時間を忘れて、、、
真夜中まで、、、一人ぽっちで見上げている月日が過ぎた。
月は、、、北海道の月は、、、心が無になって、、、自分丸ごと
月の明かりを受け止めて、、照り返す鏡のような気分になれる
私だけの月、、、満月、、、
昨日は旧暦の中秋の満月だった。
ダンナさんには、、、TVを見ているから、、、
月のことは言わなくても、、、
テレビで映ったのを見てるでしょうね。。
月は、、人間のものにしてしまっては、、、
竹取物語の神秘は消える。
ここから先は、、、人間の主張が自然を壊してゆくだろう、、、
科学によって、、、自然の中にあり続けるはずだった、、、神秘、、、
かぐや姫はもういない、、、
月は、、まだ、、まだ、、、美しい
私にとっての月は
かぐや姫のいる、、ウサギが餅つきをしている、、、
神秘のベールの光が、、、こころを
生まれたままの、、素直な、、、神様のいる、、、空に、、、月がのぼる。
月ロケットや、、宇宙ステイションンの化学はそれなりに素晴らしいし
人間の英知を称賛したい、、、
でも、、、戦争の最中に生まれたが、、
戦争のなかった80年に感謝して、、、
昨日の夜の月と友達の一日があったから
80年の歳月、、生かされてきた自分の運の良さに
月にも、、、天にもいらっしゃる、、、あまたの神様に感謝するという
中秋の名月と、、この世で過ごすことができた80歳のばあちゃんは
幸せ者です、、、お月様、、ありがとう、、、
、
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