少々の、、後遺症や副作用の俊二があるかもしれないが
死ぬよりは、はるかに良いからと
coronaワクチンを4回受けました。
1回目の時は、、、30分の安全待機を得てから、、、
「帰宅しても良い」という許可を受けてから
駅の見える商店ゾーンに入った時
右足の、ふくらはぎから、、、がいそくにかけて
激痛と言えば良いのか?
魔法にか方様に、、、足がしびれて、歩けなくなった。
駅はすぐ目の前に見えるのに、、、横断歩道まで、、歩けない。
右足だけの、、突然の異変に、私は立ちン亡をしてしまった。
座りこむことも出来ずに、左足にゆだねて、、、じ~と、激痛が和らいで来るのを待った。
15分ぐらいして、、、右足は、、我慢できるほどの痛さになったのか?
初めの驚きが激痛になったのか?
驚きの感覚が激痛になったのかもしれないから、、、
右あしだけなのだから、この痛さに慣れて、、歩くことを心掛けた。
あれから、、2回目のワクチンを受けるころには
右足の大腿から、右脚の外側側面にしびれが残り、
立ち仕事には、けっこ辛くて、カウンター用のパイプの丸椅子に座って
台所仕事などをしていた。
主人は、医療職なので、
病院の大半の職員は 予防注射をするよウなので、こんかいのを含めて
5回の予防注射を受けた。
それでも、、、人と会う仕事だけに、3回目の予防注射の後は
両愛のしびれと痛さが我慢できなくなり
「リリカを飲みながら、、、通勤していた。」
リリカには副作用があり、、、足の痛さと重なったのだろう、、
転倒したのをキッカケ に、リリカはやめて
しびれと痛さに耐えながら、、、通勤していた。
3回目のワクチンをしたときから、、、足の浮腫が目立ってきた。
4回目、、5回目のワクチンがすんで、、、主人の足の浮腫はひどくなり
しかも、、、リリカは休薬したままですので安心ですが
リマプロストを服用し始めた。
リリカと違って、末梢神経役なのですが、、、
データーはまだ
、、、はっきりするには時間がかかりそうな新薬です
リリカと違って、、、末梢神経に作用するので
リリカより副作用が弱いかもしれないという期待で
飲み始めている。
しかし、、、リリカと違って、、臨床の副作用報告が
まだ、、未だ。。始ったばかりなので
当分は「タクシーに通勤の大役をゆだねている。
車を買って、維持するよりは、はるかに安く
タクシーに早朝勤務には。感謝の相棒である。
リリカ服用時の時のように、、、転倒するかどうかは、、
これからだと思うから、、、副作用で転倒するようなら、、、
リリカの時のように、、服用を中止してもらうのだろうと思っている
薬剤師になって、当時は4年生だったので、
卒後、東京大学の医学部の基礎に勤務した後、、、
東京医科大学で、全科の薬を身につけるために勤務して、
実家の近くの総合病院に、東京医科大学の教授の推薦で移動させてもらい
未亡人の母の近くで、薬剤師をしながら、、、一人前に病棟に勤務できるようになったのは
24歳ごろであった。
実家が開業医だったので、、、そのまま、、、独身で居たかった。
小学校から、大学卒業まで、通勤時間1時間以内の
理想的な「居場所をつくり上げた,、、25歳までだった。」
大學時代、、、半年だけ同級生だった、、北海道から来た女性に
「北大の外科医と結婚するのだけど、、、大学時代の友人を結婚式に来てもらいたい。」
ご主人に成る外科医から、、、母のところに電話が入りましたそうです。」
25歳の私には、結婚するなら幼馴染、、、、と決めていたので
北海道まで、、挨拶に行く暇はないと、、、
何回もお断りした。
何回かの電話の時に、、、勤務を終えて自宅にいた私本人が電話をとってしまった。
半年しか同級生では無かったが、、、大学の指名で「代表幹事に任命されていた関係上」
クラスメートの名簿と、出身地など、把握していた。
北海道から、、、浮世絵から飛び出してきたような、、、
浮世絵美人の、田舎っぺスタイルの学生が居て
下宿を決めたというから、、、相談に乗って
一緒に部屋を見に行ってあげたことがありました。
飯田橋の神楽坂の,、裏どうりの下宿屋さんでした。
斜め前の部屋には、Kさんという、
東京歯科大学の学生さんが下宿していました。
地方から出てきた、薬大生と
地方から出てきた歯学部学生が
斜め前の部屋同志というのも
決して悪くないと、、思うよ、、、
内心、、相談相手が付いている様な、、下宿だと思ったから。
大学までは2つしかない駅だし、、、30分で通勤できるから
「飯田橋は、、東京中、、何処に行くにも地下鉄で行けるから、、、」
彼女の相談には、、便利だという事だけ答えた。
それから半年間は、私の実家にも、、突然,、現れて、、、
夕食を一緒にしたこともあった。
彼女の兄さんという人は,、明治大学の4年生だった。
「何だ~~あ、、、兄さんが居るなら、兄さんに相談すればいいでしょう!」
北海道の北の方から来たその女性は
13歳まで疎開地の田舎で暮らした私が、素敵な東京人のクラスメートたちより
とっつきやすい、、親しみがあったのかもしれません。
半年間だけだったけれど、、、毎日学校に行くと、、、隣りに座ってきていました。
その後、、彼女はクラスから消えてしまいました。
25才になろうかというときに
いきなり電話が来たのでした。
総合病院の勤務中だった私は、、、
母から、北大の外科医の奥さんになるから、
外科医の娘で、同じ欲剤師の学友に、
未来の彼女が、大卒であるという履歴の公表に
結婚式に来てくれる学友が居ないので、、、
ぜひとも、、当時、大学側の指名幹事だった私に
我ら日大を、、北海道にアピールしたいというのでした。
アピールしなくても、、、国会議員も大勢出ているし
金メダルの選手も要るし、、、
明治,、大正、、昭和初期までも、、、
話題に事欠かないのが、、、「日大ですよネ。」
今更、、、日大でも、、地味な学部の薬学生より
それに,、、幹事引き受けて、箱比田の紺のスカートで
高校の続やっている様な、、、実験とアルバイトの匂いの私でなくても
日大の同級生には、、ラッパスラックスに、、アップの髪で
「大学生の学生証て、、ミリョクあるわ、、、」
親には悪いけど、、、4年で卒業して北海道に帰るのだったら
そこのところは、、さじ加減で、、、
5年や6年、、、東京暮らしをしたい!」
お兄さんは、学生スポーツで新聞を荷ぎ合わしているスポーツマンだし。
歌麿の浮世絵のような美人で、
あっという間に
彼達に囲まれているという
北海道の財閥の娘さんは、、、
19で父を亡くした小姑暮らしの私が
当時は男尊女卑の、、、開業医の家の中で
末永い居場所を見つけるのは、、無理があった。
必要に迫られて、、
家庭教師も、
ドラッグストアーでも、、
大使館のピンチヒッターのガイドでも
全ては、英会話がネイティヴに話せるようになるという
東京の病院での生涯での友人が出来たらと、、
準備の4年間が
代表幹事を引き受けた動機でもあった。
大学のイベントには、、
どんなイベントも無料で参加出来た
大学祭のお手伝い、、、
英語劇の発表に、hahaoya yakuwo moratte syutuen
主役は、一部上場の大手会社の娘さんの下級生。
軽井沢への合宿の、、雑用、、
す飛んでいった、、、大学時代。
彼女と会ったのは、、、半年間だけだった。
縁って不思議ですね。
mmmmmmmmmmmmmmmmmmmmm
そして20年も前に、、、彼女は病気で亡くなった。
お葬式にも,、往けないまま、、、
私がこの世を去る時、、、彼女もいっしょに往くことにしているから
なんで北海道に住み着いているのか???
たった一人の、、友人もつくろうという気にはならなかった。
ひたすら、、、雪を掻いて、、、
子供を育て、、ふと気が付くと、、、三人の孫も居た。
旦那は北大卒、、ムスコは北海道の私大卒
孫も3人とも私立大学と私立高校、、、道内版!!
日大卒の私には昭和44年の頃には
北海道はなじめなかった。
北大卒の旦那さんにも馴染めなかった。
私の方から馴染もうとしなかったのかもしれないが
友だちになろうとしても
「マウンティングして来る体質の北海道の人には、馴染めなかった。」
公の社会人として、、、仕事だからと、、割り切れる環境には
頑張ることが出来たが、、、北海道は、、なかなか、、、
本州から来た、日大卒業の気性のスタンダードな、、、本州人には
違和感の有る、、、特殊な空気が在った。
主人に成った北大卒の医師の卵は、
結婚は、自分が便利に過ごすための、、、自分の権利であるというような
男尊女卑の究極の考えを持っていた。
医学部を卒業した以上、、、
医師として社会貢献するための目的蛾ある以上
「自分が、医師をすることが、、何にもまして最優先に考えて行動する。」
医師をすることには集中力の120パーセントを架ける、、という考えというより
本能的に、、、「医師をすることが、、、彼の命」なのである。
そのためには、、、ママの条件の女性を娶って
「i医師をする」、、、という事
多分医学部に受かるより、、、応援団が必要な事がある以上、、むつかしいい偉業だろう!」
たまたま、、、友人の結婚式の代表挨拶にと、、、
なかば本人抜きで、、、未亡人だった母との間の交渉で
私は北海道にとどまるというレールが敷かれていたのだった。
自然尾好きな私は、、6月の北海道に魅せられた。
ダンなさんは医師であり、、北海道に貢献できれば人生だと思っている、
私は、、、母と、旦那の間の話し合いで、、、
父の居なくなった外科の開業の跡をとって盛り上げてゆくという事を
チャームポイントにして、、、母との間では
私は、北海道にお見合いに来たということになっているらしかった。
そして、、北大をそつぎょした大学院生が
博士号を取得するまで、、私の実家が応援するという、、、
母と、旦那さんとの間の合意のもとに、、、
何も知らないで、、、かっての同級生だった、、、独りぼっちの北海道の結婚を
応援せねばと、、、母が引き受けた話を、、、
「有給休暇までとって、、、結婚式の代表挨拶だなんて、、、」
今思えば、、、ダンナさんは、、、北海道に居る為には応援団が必用だったのだろう、、、。
「家は無い、 車の免許も無い、、、仕送りも無い、、、貯金も無い、、」
大学を卒業したあと、、旭川で2年間働いて、、、当時のお金で200万円収入があったはず。
そのお金で、、結婚する気なのだと、、、早とちりした。
そのお金は、7年間の下宿代を送ってくれた母にと
全額返して、送ってしまった後だった。
奨学金の返済と、、、100万以上の返済が迫っていて、、一文無しだった。
お風呂のない、、、木造のきちんアパートに17000円お家賃で
部屋を借りた、、旦那さんは、、
白衣で帰ってきたㇼ、、、「医師であるという事の認識を強めて、言った。」
家中のかも居には、外科手術の結び目の訓練の簾を増やしていった。
医師免許を取得してからは「無給医局員であるだけに、、収入は無かった。」
結婚以来、、狭いアパートは たった2ヶ月で,、、火災に遭った。
このアパートを借りた時、、、母が東京からやってきた。
「風呂のない、、、アパートなんて、、、結婚生活にはありえない、、、」
23万円あるから、、これで、設置できる風呂を買いなさいと言って
20万円もする「高尾」という、木製の大型TVと、
五番館で見立てた3万円のカーテンをオーダーして、、
満期まで掛け金を払った火災保険と、、、
とうざの生活費だと言って、、、
ダンナさんに渡しなさいと言われたが、、、
私は、、そのお金は旦那さんには、、渡さないで
自分が管理することにした。
此処まで来て、、、相当社会音痴の私でも気が付いた。
父が亡くなった後、、、相続権の有る私が、、実家のとかくの総合病院で
薬剤師をしている事が、、、問題だったのだと、、、。
実家は内科医の兄が跡をとっている。
弐番目の兄さんは、薬剤師になっている。
弟は、、千葉大学の医学部に学生として在籍中。
兄には、、学生結婚したお嫁さんが来ていた。
自分の取り分など無いと思い込んでいた私は
実家にさえ住めれば、、、近くの病院で5万円は稼げるのだから
ボーナス入れれば300万円以上になると、、自分では独立したつもりだった。
兄の息子は医師になるという設定で家庭教師が付いていた。
こうして、、北海道に、、何故来たのか理解できないほど
6月の北海道で、、、大自然を案じながら、、、
母の作戦にそのまま、、、そのまま、、、乗せられていた老いう、、、
今だから笑えるような、、、、
何も考えない、、、
家政という政治さえ
考えなかった、、、24歳にもなって、、、欲華道に
運んでこられたという、、、
出逢い無き、、、出逢いの、、、
結婚生活をふと思い出しながら
父が54歳で死んでしまうから、、、
私は北海道に来たのかもしれません。
これから
「医師をする」という、、、
北大医学部に受かるよりは、、はるかに難しい、、経済基盤の無い新進医師。
これが出身が北海道なら、、自治体が、、待っていましたと、、、
地域への貢献の道を開けてKれたかもしれない。
東京出身で、両親弟妹がが待っているという、、、
親へのお金の返済が始まった
艱難辛苦に向かって行く
無一文のダンナさんには、、、家内になる私との「出逢い」なぞ
たいして重要な事では無かったのでしょう。
母の書き上げた童話のような物語の道具のように
あるいは、、音楽家という、、自己中の航路を行く
音楽大学を卒業して、
ピアノ教室「よつ葉会」主宰の母には、
理科系の医師頭の、、ピアノを弾かない、、、
嘴のない、、、カナリヤは、、、
邪魔だったのかもしれません。
24歳になっても、、、政治的な大人になれなかった私は
父が死んでいなくなったときに、、
一斉の後ろ盾が無くなるのは、、気が付くべきだった。
世界史は、、、5点、、
日本史も、、好きなところだけ詳しい私。
家政は、、、ゼロ点、、、だったのかもしれませんね
こうした。。基本的な、、生きる為の相続の嵐が吹いていたなんて
ダンさんは、母との話で、、、、外科医の席の空いた開業医の家に
雇用されるのではなくて、、、一族として入り、、
父の、、残していった、1日150人の患者さんを引き受ければ
戦後の貧困生活が、、、医師と言う免許のもとに
瞬時に解決すると考えてのかもしれませんね。
ダンナさんの弟は、高校3年生だったし、
妹さんは美術大学受験中の浪人をしていた事を考えれば、
母が 父の亡き後、、、内科医夫婦でもある長男を
家庭の開業に留めおきたいと願うのは、、、もっともな、、事であるし。
国は、、全てを大洪水のように、、法律の波で飲み込んでしまうダロウから、、、
火星のやり方一つで、、、戦後の開業を、、、個人から法人にするため
人事優先の家政を、、、もしも母がとっていてとしたら、、、
付き合うこともしないで、、、結婚に導いたダンナさんの思惑も、
同居していた母の姪っ子に、兄の同級生の医師に嫁がせて
同級生の医師とも、、ともに、、、
病院法人化への会を発足していた意味が
80歳を目の前にして、、、小さな住処を、、、誰に残そうかと
考え始めて、、、55年前の、、、何とも不自然な
急すぎた結婚話への津波に流された頃が、、、
創作のドラマになって、、、自己流の小説を書いてしまったのです。
本日の書き物は「日記ではありません。」
「全くのフィクションですが、、、有りそうな話ですよね。」
小説は、、こうした創作に、、、戦争と、、、事件が絡んで、、出来上がるのでしょうね。
お終いまで、、騙されて読んでKれたあなたが、、一人、、
いいね、、、を押してくれるだろうか?
続き希望、、、、を押してくれるだろうか?
暑すぎる札幌で、、家に閉じこもっていると、、、
小説家になれそうですね。
お粗末さまでした。
弟よ、、、本気にしないでね、、、
お母さんは、、愛情一筋の、、ピアニストだったから、、、
あんなに多くのお弟子さん衣囲まれて、、、
グランドピアノは、、、お弟子さんの中の
音楽で生きていた女性に贈ったのですからね。
日展の審査員をしていた画家の友達もいましたよ、、、
チイサン医院の支配に生きるような、、チイサン考えは無かった人ですよ、
小説を書くという事は、、、本当だと思って読まれると、、、
メイワクする人が出てきてしまうjから、、、、
短歌、、、俳句,、、試作,、、絵画、、等に
80歳からの、、、おまけに人生を、、、無風地帯で過ごすつもりです。
来年、、、80歳になるまでは、、、未だ未だ、、、
五感の刺激のままに、、浮かぶ事柄を
瞬間の真実として、、、日記にしてゆくことで、、、
人生の台風の中で、、、吹き飛ばされそうになっている私が
カサをオチョコニしながらも、、、
濡れないで、、歩こうとすると、、、
あらゆるいい人を、、、悪人に仕立てて、、、
手説をつくってしまうという、、、
coronaと、、、暑すぎる夏に
閉じ込められて
貴重な人生の最期の舞台を、、、文を書くしか自由のない時間にしてしまった
TVの戦争の報道を、、、ミクロに並び替えて、、、
人間の業を、、家庭レベルに置き換えて見たかっただけかもしれませんね。
私って、、、アホカ!!
死ぬよりは、はるかに良いからと
coronaワクチンを4回受けました。
1回目の時は、、、30分の安全待機を得てから、、、
「帰宅しても良い」という許可を受けてから
駅の見える商店ゾーンに入った時
右足の、ふくらはぎから、、、がいそくにかけて
激痛と言えば良いのか?
魔法にか方様に、、、足がしびれて、歩けなくなった。
駅はすぐ目の前に見えるのに、、、横断歩道まで、、歩けない。
右足だけの、、突然の異変に、私は立ちン亡をしてしまった。
座りこむことも出来ずに、左足にゆだねて、、、じ~と、激痛が和らいで来るのを待った。
15分ぐらいして、、、右足は、、我慢できるほどの痛さになったのか?
初めの驚きが激痛になったのか?
驚きの感覚が激痛になったのかもしれないから、、、
右あしだけなのだから、この痛さに慣れて、、歩くことを心掛けた。
あれから、、2回目のワクチンを受けるころには
右足の大腿から、右脚の外側側面にしびれが残り、
立ち仕事には、けっこ辛くて、カウンター用のパイプの丸椅子に座って
台所仕事などをしていた。
主人は、医療職なので、
病院の大半の職員は 予防注射をするよウなので、こんかいのを含めて
5回の予防注射を受けた。
それでも、、、人と会う仕事だけに、3回目の予防注射の後は
両愛のしびれと痛さが我慢できなくなり
「リリカを飲みながら、、、通勤していた。」
リリカには副作用があり、、、足の痛さと重なったのだろう、、
転倒したのをキッカケ に、リリカはやめて
しびれと痛さに耐えながら、、、通勤していた。
3回目のワクチンをしたときから、、、足の浮腫が目立ってきた。
4回目、、5回目のワクチンがすんで、、、主人の足の浮腫はひどくなり
しかも、、、リリカは休薬したままですので安心ですが
リマプロストを服用し始めた。
リリカと違って、末梢神経役なのですが、、、
データーはまだ
、、、はっきりするには時間がかかりそうな新薬です
リリカと違って、、、末梢神経に作用するので
リリカより副作用が弱いかもしれないという期待で
飲み始めている。
しかし、、、リリカと違って、、臨床の副作用報告が
まだ、、未だ。。始ったばかりなので
当分は「タクシーに通勤の大役をゆだねている。
車を買って、維持するよりは、はるかに安く
タクシーに早朝勤務には。感謝の相棒である。
リリカ服用時の時のように、、、転倒するかどうかは、、
これからだと思うから、、、副作用で転倒するようなら、、、
リリカの時のように、、服用を中止してもらうのだろうと思っている
薬剤師になって、当時は4年生だったので、
卒後、東京大学の医学部の基礎に勤務した後、、、
東京医科大学で、全科の薬を身につけるために勤務して、
実家の近くの総合病院に、東京医科大学の教授の推薦で移動させてもらい
未亡人の母の近くで、薬剤師をしながら、、、一人前に病棟に勤務できるようになったのは
24歳ごろであった。
実家が開業医だったので、、、そのまま、、、独身で居たかった。
小学校から、大学卒業まで、通勤時間1時間以内の
理想的な「居場所をつくり上げた,、、25歳までだった。」
大學時代、、、半年だけ同級生だった、、北海道から来た女性に
「北大の外科医と結婚するのだけど、、、大学時代の友人を結婚式に来てもらいたい。」
ご主人に成る外科医から、、、母のところに電話が入りましたそうです。」
25歳の私には、結婚するなら幼馴染、、、、と決めていたので
北海道まで、、挨拶に行く暇はないと、、、
何回もお断りした。
何回かの電話の時に、、、勤務を終えて自宅にいた私本人が電話をとってしまった。
半年しか同級生では無かったが、、、大学の指名で「代表幹事に任命されていた関係上」
クラスメートの名簿と、出身地など、把握していた。
北海道から、、、浮世絵から飛び出してきたような、、、
浮世絵美人の、田舎っぺスタイルの学生が居て
下宿を決めたというから、、、相談に乗って
一緒に部屋を見に行ってあげたことがありました。
飯田橋の神楽坂の,、裏どうりの下宿屋さんでした。
斜め前の部屋には、Kさんという、
東京歯科大学の学生さんが下宿していました。
地方から出てきた、薬大生と
地方から出てきた歯学部学生が
斜め前の部屋同志というのも
決して悪くないと、、思うよ、、、
内心、、相談相手が付いている様な、、下宿だと思ったから。
大学までは2つしかない駅だし、、、30分で通勤できるから
「飯田橋は、、東京中、、何処に行くにも地下鉄で行けるから、、、」
彼女の相談には、、便利だという事だけ答えた。
それから半年間は、私の実家にも、、突然,、現れて、、、
夕食を一緒にしたこともあった。
彼女の兄さんという人は,、明治大学の4年生だった。
「何だ~~あ、、、兄さんが居るなら、兄さんに相談すればいいでしょう!」
北海道の北の方から来たその女性は
13歳まで疎開地の田舎で暮らした私が、素敵な東京人のクラスメートたちより
とっつきやすい、、親しみがあったのかもしれません。
半年間だけだったけれど、、、毎日学校に行くと、、、隣りに座ってきていました。
その後、、彼女はクラスから消えてしまいました。
25才になろうかというときに
いきなり電話が来たのでした。
総合病院の勤務中だった私は、、、
母から、北大の外科医の奥さんになるから、
外科医の娘で、同じ欲剤師の学友に、
未来の彼女が、大卒であるという履歴の公表に
結婚式に来てくれる学友が居ないので、、、
ぜひとも、、当時、大学側の指名幹事だった私に
我ら日大を、、北海道にアピールしたいというのでした。
アピールしなくても、、、国会議員も大勢出ているし
金メダルの選手も要るし、、、
明治,、大正、、昭和初期までも、、、
話題に事欠かないのが、、、「日大ですよネ。」
今更、、、日大でも、、地味な学部の薬学生より
それに,、、幹事引き受けて、箱比田の紺のスカートで
高校の続やっている様な、、、実験とアルバイトの匂いの私でなくても
日大の同級生には、、ラッパスラックスに、、アップの髪で
「大学生の学生証て、、ミリョクあるわ、、、」
親には悪いけど、、、4年で卒業して北海道に帰るのだったら
そこのところは、、さじ加減で、、、
5年や6年、、、東京暮らしをしたい!」
お兄さんは、学生スポーツで新聞を荷ぎ合わしているスポーツマンだし。
歌麿の浮世絵のような美人で、
あっという間に
彼達に囲まれているという
北海道の財閥の娘さんは、、、
19で父を亡くした小姑暮らしの私が
当時は男尊女卑の、、、開業医の家の中で
末永い居場所を見つけるのは、、無理があった。
必要に迫られて、、
家庭教師も、
ドラッグストアーでも、、
大使館のピンチヒッターのガイドでも
全ては、英会話がネイティヴに話せるようになるという
東京の病院での生涯での友人が出来たらと、、
準備の4年間が
代表幹事を引き受けた動機でもあった。
大学のイベントには、、
どんなイベントも無料で参加出来た
大学祭のお手伝い、、、
英語劇の発表に、hahaoya yakuwo moratte syutuen
主役は、一部上場の大手会社の娘さんの下級生。
軽井沢への合宿の、、雑用、、
す飛んでいった、、、大学時代。
彼女と会ったのは、、、半年間だけだった。
縁って不思議ですね。
mmmmmmmmmmmmmmmmmmmmm
そして20年も前に、、、彼女は病気で亡くなった。
お葬式にも,、往けないまま、、、
私がこの世を去る時、、、彼女もいっしょに往くことにしているから
なんで北海道に住み着いているのか???
たった一人の、、友人もつくろうという気にはならなかった。
ひたすら、、、雪を掻いて、、、
子供を育て、、ふと気が付くと、、、三人の孫も居た。
旦那は北大卒、、ムスコは北海道の私大卒
孫も3人とも私立大学と私立高校、、、道内版!!
日大卒の私には昭和44年の頃には
北海道はなじめなかった。
北大卒の旦那さんにも馴染めなかった。
私の方から馴染もうとしなかったのかもしれないが
友だちになろうとしても
「マウンティングして来る体質の北海道の人には、馴染めなかった。」
公の社会人として、、、仕事だからと、、割り切れる環境には
頑張ることが出来たが、、、北海道は、、なかなか、、、
本州から来た、日大卒業の気性のスタンダードな、、、本州人には
違和感の有る、、、特殊な空気が在った。
主人に成った北大卒の医師の卵は、
結婚は、自分が便利に過ごすための、、、自分の権利であるというような
男尊女卑の究極の考えを持っていた。
医学部を卒業した以上、、、
医師として社会貢献するための目的蛾ある以上
「自分が、医師をすることが、、何にもまして最優先に考えて行動する。」
医師をすることには集中力の120パーセントを架ける、、という考えというより
本能的に、、、「医師をすることが、、、彼の命」なのである。
そのためには、、、ママの条件の女性を娶って
「i医師をする」、、、という事
多分医学部に受かるより、、、応援団が必要な事がある以上、、むつかしいい偉業だろう!」
たまたま、、、友人の結婚式の代表挨拶にと、、、
なかば本人抜きで、、、未亡人だった母との間の交渉で
私は北海道にとどまるというレールが敷かれていたのだった。
自然尾好きな私は、、6月の北海道に魅せられた。
ダンなさんは医師であり、、北海道に貢献できれば人生だと思っている、
私は、、、母と、旦那の間の話し合いで、、、
父の居なくなった外科の開業の跡をとって盛り上げてゆくという事を
チャームポイントにして、、、母との間では
私は、北海道にお見合いに来たということになっているらしかった。
そして、、北大をそつぎょした大学院生が
博士号を取得するまで、、私の実家が応援するという、、、
母と、旦那さんとの間の合意のもとに、、、
何も知らないで、、、かっての同級生だった、、、独りぼっちの北海道の結婚を
応援せねばと、、、母が引き受けた話を、、、
「有給休暇までとって、、、結婚式の代表挨拶だなんて、、、」
今思えば、、、ダンナさんは、、、北海道に居る為には応援団が必用だったのだろう、、、。
「家は無い、 車の免許も無い、、、仕送りも無い、、、貯金も無い、、」
大学を卒業したあと、、旭川で2年間働いて、、、当時のお金で200万円収入があったはず。
そのお金で、、結婚する気なのだと、、、早とちりした。
そのお金は、7年間の下宿代を送ってくれた母にと
全額返して、送ってしまった後だった。
奨学金の返済と、、、100万以上の返済が迫っていて、、一文無しだった。
お風呂のない、、、木造のきちんアパートに17000円お家賃で
部屋を借りた、、旦那さんは、、
白衣で帰ってきたㇼ、、、「医師であるという事の認識を強めて、言った。」
家中のかも居には、外科手術の結び目の訓練の簾を増やしていった。
医師免許を取得してからは「無給医局員であるだけに、、収入は無かった。」
結婚以来、、狭いアパートは たった2ヶ月で,、、火災に遭った。
このアパートを借りた時、、、母が東京からやってきた。
「風呂のない、、、アパートなんて、、、結婚生活にはありえない、、、」
23万円あるから、、これで、設置できる風呂を買いなさいと言って
20万円もする「高尾」という、木製の大型TVと、
五番館で見立てた3万円のカーテンをオーダーして、、
満期まで掛け金を払った火災保険と、、、
とうざの生活費だと言って、、、
ダンナさんに渡しなさいと言われたが、、、
私は、、そのお金は旦那さんには、、渡さないで
自分が管理することにした。
此処まで来て、、、相当社会音痴の私でも気が付いた。
父が亡くなった後、、、相続権の有る私が、、実家のとかくの総合病院で
薬剤師をしている事が、、、問題だったのだと、、、。
実家は内科医の兄が跡をとっている。
弐番目の兄さんは、薬剤師になっている。
弟は、、千葉大学の医学部に学生として在籍中。
兄には、、学生結婚したお嫁さんが来ていた。
自分の取り分など無いと思い込んでいた私は
実家にさえ住めれば、、、近くの病院で5万円は稼げるのだから
ボーナス入れれば300万円以上になると、、自分では独立したつもりだった。
兄の息子は医師になるという設定で家庭教師が付いていた。
こうして、、北海道に、、何故来たのか理解できないほど
6月の北海道で、、、大自然を案じながら、、、
母の作戦にそのまま、、、そのまま、、、乗せられていた老いう、、、
今だから笑えるような、、、、
何も考えない、、、
家政という政治さえ
考えなかった、、、24歳にもなって、、、欲華道に
運んでこられたという、、、
出逢い無き、、、出逢いの、、、
結婚生活をふと思い出しながら
父が54歳で死んでしまうから、、、
私は北海道に来たのかもしれません。
これから
「医師をする」という、、、
北大医学部に受かるよりは、、はるかに難しい、、経済基盤の無い新進医師。
これが出身が北海道なら、、自治体が、、待っていましたと、、、
地域への貢献の道を開けてKれたかもしれない。
東京出身で、両親弟妹がが待っているという、、、
親へのお金の返済が始まった
艱難辛苦に向かって行く
無一文のダンナさんには、、、家内になる私との「出逢い」なぞ
たいして重要な事では無かったのでしょう。
母の書き上げた童話のような物語の道具のように
あるいは、、音楽家という、、自己中の航路を行く
音楽大学を卒業して、
ピアノ教室「よつ葉会」主宰の母には、
理科系の医師頭の、、ピアノを弾かない、、、
嘴のない、、、カナリヤは、、、
邪魔だったのかもしれません。
24歳になっても、、、政治的な大人になれなかった私は
父が死んでいなくなったときに、、
一斉の後ろ盾が無くなるのは、、気が付くべきだった。
世界史は、、、5点、、
日本史も、、好きなところだけ詳しい私。
家政は、、、ゼロ点、、、だったのかもしれませんね
こうした。。基本的な、、生きる為の相続の嵐が吹いていたなんて
ダンさんは、母との話で、、、、外科医の席の空いた開業医の家に
雇用されるのではなくて、、、一族として入り、、
父の、、残していった、1日150人の患者さんを引き受ければ
戦後の貧困生活が、、、医師と言う免許のもとに
瞬時に解決すると考えてのかもしれませんね。
ダンナさんの弟は、高校3年生だったし、
妹さんは美術大学受験中の浪人をしていた事を考えれば、
母が 父の亡き後、、、内科医夫婦でもある長男を
家庭の開業に留めおきたいと願うのは、、、もっともな、、事であるし。
国は、、全てを大洪水のように、、法律の波で飲み込んでしまうダロウから、、、
火星のやり方一つで、、、戦後の開業を、、、個人から法人にするため
人事優先の家政を、、、もしも母がとっていてとしたら、、、
付き合うこともしないで、、、結婚に導いたダンナさんの思惑も、
同居していた母の姪っ子に、兄の同級生の医師に嫁がせて
同級生の医師とも、、ともに、、、
病院法人化への会を発足していた意味が
80歳を目の前にして、、、小さな住処を、、、誰に残そうかと
考え始めて、、、55年前の、、、何とも不自然な
急すぎた結婚話への津波に流された頃が、、、
創作のドラマになって、、、自己流の小説を書いてしまったのです。
本日の書き物は「日記ではありません。」
「全くのフィクションですが、、、有りそうな話ですよね。」
小説は、、こうした創作に、、、戦争と、、、事件が絡んで、、出来上がるのでしょうね。
お終いまで、、騙されて読んでKれたあなたが、、一人、、
いいね、、、を押してくれるだろうか?
続き希望、、、、を押してくれるだろうか?
暑すぎる札幌で、、家に閉じこもっていると、、、
小説家になれそうですね。
お粗末さまでした。
弟よ、、、本気にしないでね、、、
お母さんは、、愛情一筋の、、ピアニストだったから、、、
あんなに多くのお弟子さん衣囲まれて、、、
グランドピアノは、、、お弟子さんの中の
音楽で生きていた女性に贈ったのですからね。
日展の審査員をしていた画家の友達もいましたよ、、、
チイサン医院の支配に生きるような、、チイサン考えは無かった人ですよ、
小説を書くという事は、、、本当だと思って読まれると、、、
メイワクする人が出てきてしまうjから、、、、
短歌、、、俳句,、、試作,、、絵画、、等に
80歳からの、、、おまけに人生を、、、無風地帯で過ごすつもりです。
来年、、、80歳になるまでは、、、未だ未だ、、、
五感の刺激のままに、、浮かぶ事柄を
瞬間の真実として、、、日記にしてゆくことで、、、
人生の台風の中で、、、吹き飛ばされそうになっている私が
カサをオチョコニしながらも、、、
濡れないで、、歩こうとすると、、、
あらゆるいい人を、、、悪人に仕立てて、、、
手説をつくってしまうという、、、
coronaと、、、暑すぎる夏に
閉じ込められて
貴重な人生の最期の舞台を、、、文を書くしか自由のない時間にしてしまった
TVの戦争の報道を、、、ミクロに並び替えて、、、
人間の業を、、家庭レベルに置き換えて見たかっただけかもしれませんね。
私って、、、アホカ!!
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