気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

芭蕉の里と迫力満点の忍者ショー・出会った人々

2009-11-26 10:28:52 | 気ままな旅
 2009年11月8日(日)昨日から参加していたオートキャンプ大会も、昼過ぎには終わり、各々家路についた後、私たちも、オートキャンプ場を後にして、近くにある名阪ハイウエイ大内ICドライブインに立ち寄った。
 買い物を済ました後、妻と相談して近くにある三重県伊賀市上野公園に立ち寄ることにした。
 上野公園は、元々はお城の城郭内に造られた公園で、上野城や松尾芭蕉の記念館・俳諧殿、忍者屋敷、忍者伝承館などの、名所、旧跡が多く存在している。
 また、公園内は四季折々の景観と共の、伊賀上野観光の中心地としてはもちろん、デートなど市民の憩いの場としても賑わっている。
 私たちは、専用の駐車場で500円を支払って、公園内の忍者屋敷などの見学に向かって行った。
 公園正門からメイン施設へ向かう通路に差し掛かった時、二組の犬連れの方にすれ違った。
 驚いたことに、二組のそれぞれの犬が忍者の衣装と刀を身にまとっている。
 さすが、伊賀は忍者の国で、犬まで忍者恰好をしている。飼い主に頼んでごらんのような写真を撮らしてもらった。
 しかし、犬も自分の体より刀の方が大きく、歩きにくそうであった。

          
              忍者の格好をし紅白の刀を背負った犬

          
              思いがけずに出会った忍者衣装の犬

 公園正門近くで忍者衣装の犬を撮らしてもらった後、私たちは、正門からの広い通路をまっすぐに進んで行った。
 100m程行った所の右手に、芭蕉翁記念館の建物が見えてくる。
 私たちのように気ままま旅を続ける者にとって、旅先で時々芭蕉の句碑を見かけるなどして、松尾芭蕉は身近な存在になってきている。
 私自身は、俳句の勉強をしたことはないが、江戸時代の松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶などの俳人は有名で、雑誌などで時々見かけている。
 記念にと思い、芭蕉翁記念館に入場料金300円を支払って入場して行く。
 入り口の前には、芭蕉翁の像が立てられて、その横が展示ルームになっている。 芭蕉翁の遺品や、その他ゆかりの資料、門人たちの作品が展示されている。

          
                伊賀市上野公園内にある芭蕉翁記念館

          
         松尾芭蕉翁と「古池や・・・」のあまりにも有名な俳句

 松尾芭蕉は、伊賀国(三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。
 松尾家は農業を生業としていたが、苗字を持つ家柄だったようである。
 芭蕉は、若くして伊賀国上野の侍大将・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに、北村季吟に師事して俳諧の道に入った。
 俳諧の道に入った芭蕉は、すぐに才能を発揮、処女句集『貝おほひ』を、伊賀市にある上野天満宮に奉納出来るまでに成長している。
 芭蕉は、延宝3年(1675年)には、江戸に下り、神田上水の工事に携わった3年後に、宗匠となり、職業的な俳諧師となっている。
 さらに、2年後には江戸深川に草庵を創設している。
 この草庵は、芭蕉の門人の李下からバショウ(熱帯性のバナナの樹木によくにた植物)を記念に贈られ、一株植えたところ、この木が大いに茂ったことから、これにちなんで「芭蕉庵」と名付けられた。
 その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んでいる。

     芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   芭蕉

 芭蕉は、しばしば旅に出て紀行文を残している。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などが有名である。
 この紀行文を発表した後の、元禄2年(1689年=江戸時代)には、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出、江戸から日光へ、那須、松島、平泉、山形、鶴賀、酒田、越後、越中、金沢、加賀片山津温泉、山中温泉、福井あわら、敦賀、大垣へ旅している。
 総延長600里(2400km)150日間の旅で、元禄4年(1691年)に江戸に帰ってきている。
 この紀行作品である奥の細道は、「月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかう年(とし)もまた旅人なり」の序文によりはじまる、日本の古典における代表的な存在であり、松尾芭蕉の著書の中でも最も有名な作品である。
 
 松尾芭蕉の最期も、大阪への旅の途中であった。
 大阪御堂筋(みどうすじ)の旅宿で最後の句の前詞 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 と、死の床に伏す直前に詠んだ 「秋深き 隣りは何を する人ぞ」 の句がある。
 享年51才。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られている。

芭蕉の著名な句

①古池や 蛙飛びこむ 水の音 (ふるいけや かはずとびこむ みずのおと)

②名月や 池をめぐりて 夜もすがら (めいげつや いけをめぐりて よもすがら)

③夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町

④閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺

⑤五月雨を あつめて早し 最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町

⑥雲の峰 いくつ崩れて 月の山(くものみね いくつくずれて つきのやま):山形県・月山

⑦荒海や 佐渡によこたふ 天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町

⑧花の雲 鐘は上野か 浅草か (はなのくも かねはうえのかあさくさか):東京都

⑨初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也 (はつしぐれさるもこみのをはしげなり):三重県伊賀市

⑩旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る (たびにやんで ゆめはかれのをかけめぐる):辞世


 芭蕉翁記念館の見学を終えた私たちは、同じ公園内にある忍者屋敷に向かって行った。
 すると、公園内のベンチに黒の忍者装束をした3人の人たちが目に入ってくる。
早速、記念の撮影をと思い向かって行った。
 私はこの人たちは、忍者の街、伊賀市が観光サービスの一環として、訪れる人たちの記念撮影に、応じてくれる人たちだと思っていた。
 写真撮影を依頼して、色々と話をしてみると全く違っていた。
 この人たちも観光客で、旅の思い出として貸衣装さんで借りて、身にまとっているとのことであった。
 しかし、私は折角の記念だから、撮影さしてほしい旨の依頼をすると、笑って気軽に応じてくれた。

          
真正面のポーズから、背中の刀が見えるようにお願いしたしたところ、ご覧のようなポーズをとってくれた。

          
    忍者らしいポーズをと、お願いすると、役者顔負けのナイスポーズをつくってくれた。

 この人たちとの撮影を終えると、すぐに忍者屋敷(忍者博物館)の方に向かって行った。100mほどの距離にある。
 受付で入場料金700円を支払おうとすると 「忍術ショーが200円で見られますが!」 と言われ、一度見てみたいと思い、900円支払って入場する。
 近くの忍術ショーの会場に入ると、土間の舞台があり、半円形で階段状になった観客席が造られ、200人位の人たちが開演を待っている。
           
           
            伊賀忍者のポスター  伊賀忍者特殊軍団阿修羅の ポスター

 この忍術ショーは、伊賀忍者特殊軍団阿修羅によるもので、忍者が実際に使用していた手裏剣などの忍具を使って、本物の忍者がいかに使用したかを実演する迫力満点のショーである。
 
           
          刀や鎖鎌、捕り縄術などすさまじい実戦さながらの忍者ショー

           
          鎖鎌や二刀流と護身法を身につけて戦う本物さながらの忍者ショー

           
 水戸黄門などの時代劇にも出演している出演者、刀を持って向かって行く姿にもすさまじい迫力が感じられる。  

 今回は三重県上野公園にある芭蕉翁記念館と忍者ショーを見学することができた。
 松尾芭蕉も伊賀上野の出身であることから、忍者説が論じられている。
 芭蕉のような俳諧師は、古くから旅をして暮らしていたことから、情報収集が目的であったと言われている。
 奥の細道で曽良を同行しているが、曽良が出している「曽良旅日記」と芭蕉の「奥の細道」を比較した場合に、相違点が多く隠密説が流れているようである。
 私も気ままな旅を続けていると、芭蕉の句碑を所々で見かけ、芭蕉に対して親密感が湧いてきている。
 どの地域の句碑においても、その地区の風土や季節感などの状況が、よく現れていると感じている。
 始めて見る忍者ショーは、大変迫力あるものであった。
 映画やテレビなどの映像を通じてしか見たことがなかったが、こういった実演のショーを目の当たりにすると、新たに忍者に対して興味が湧いてくる。
 忍者ショー会場の前後には、伊賀流忍者博物館と忍者伝承館があり、忍者に対しての多くの資料や、忍者が住んでいた屋敷がそのまま残されている。


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