気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本が救済したポーランド孤児たちのその後

2011-06-06 12:19:57 | 気ままな旅

 1920年(大正9年)7月に始まった、シベリアポーランド孤児救済活動も、第一次から第5回にわたり375名の孤児たちがロシアから東京に送られ救済された。  さらに救済の必要な孤児たちがシベリア沿海州などに残されていることがわかり、1922年(大正11年)8月に、388名の孤児と付添39名の合計427名が、3回に分けて敦賀港に入港、大阪に送られ救済されている。

 シベリアで飢餓や傷病など過酷の生活をおくっていたポーランド孤児を受け入れ、敦賀港に到着した孤児達の様子を初めて見た日本の人達は、多大な関心と深い同情を寄せ、国民を挙げての救済に乗り出していく。

 孤児たちの救済活動は、皇后陛下をはじめ、多くの人達から支援を受け、懸命な介護が続けるられる。 やがて、日本の人達の努力も実り、孤児たちは日本滞在中にすっかり体調を取り戻し元気になってくる。 そして、約2年間の滞在を終え、帰国の途に就いた孤児たちは、その後、母国でどうしているだろうか!  私も気になり さらに調査してみることにした。

看護婦を囲み、見違えるような明るさの表情で過ごす孤児たち

大阪の宿舎前で記念写真におさまる孤児たち一行

東京に収容されていた第1次孤児たちは、横浜から6回にわたり、合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへおくられる。

大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2回にわたり、合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへおくられる。

神戸港から母国ポーランドへの帰国のために乗船する孤児たちの一行

第一次の孤児たち150名を横浜港からアメリカへ輸送した諏訪丸(11,758トン)、他に香取丸で114名、伏見丸で106名、合計370名が輸送された。

第2次の孤児たち191名を神戸港からポーランドへ輸送した香取丸(9,847トン)、熱田丸でも199名、合計390名が輸送された。

 ロンドン経由で帰国した女の子は、帰国船の船長が毎晩子供たちを見て回り、毛布を肩まで掛けてくれたことをよく覚えていた。 船長は子供たちが長い航海に疲れて熱を出していないかどうか、一人ひとりの額に手を当てて巡回しながら確かめていた。

 日本船に乗せられ 祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちのほとんどは身寄りがなく、バルト海沿岸にある都市近郊のヴェイヘローヴォ孤児院に引き取られて保護される。 元気を取り戻し、無事に帰国を果たした孤児たち出迎え、歓迎するために首相や大統領までが駆けつけている。 

 ポーランドの施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国家「君が代」を合唱する決まりがあった。 この施設で育てられた孤児たちもやがて成長し、そこから各々の人生を歩んでいるが医者、教師、福祉事業家、法律家、技術職人など、公の為に尽くす職業を志した者が多かったと伝えられている。 

 こうした日本によるシベリア孤児救済の話は、ポーランド国内では広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。 

 その一人で当初、日本に孤児救済を依頼しようと提唱した、当時の救済会副会長ヤクブケヴィッチ氏は 「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」 と礼状の中で次のように述べている。

「・・・日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。 日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。 しかも わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人はそれを肝の銘じて、その恩を忘れることはない」  

「 ・・・我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ている最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までとって、ポーランドの子供たちに与えようとした。 こんなことは一度や二度ではなく、しばしばあった」

「・・・ここにポーランド国民も、また、高尚な国民であるが故に、我々は何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。 日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより、米国でも広く知られている」

「・・・ここに、ポーランド国民は、日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい」 このように書かれた礼状が届いている。

                                                                                                                                   

 また、孤児の中の一人、イエジ・ストシャウコフスキさんは、孤児院で働きながらワルシャワ大学を卒業、孤児教育に情熱を注いでいる。 彼は17歳の時に、シベリア孤児の組織をつくることを提唱、ポーランドと日本との親睦を図る 「極東青年会」 を組織して会長に選ばれている。  組織の活動を通じて、彼は日本文化の素晴らしさをポーランドに紹介する。 また、極東青年会は孤児たちの成長と共に拡大し、最盛期には640数名を数えたといわれている。

 成長した孤児たちと当時の日本公使館との連絡も密で、極東青年会の催し物には、努めて全館員が出席して彼らを応援していた。 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動に参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。
 そして、この組織は本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがっていった。
 戦時情勢の悪化にともないワルシャワでの地下レジスタンス運動も激しさを増し、孤児たちのイエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めてくる。 イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たち、このドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と依頼する。
 そうするとイエジたちは立ちあがり、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱する。 さすがのドイツ兵たちも、あっけにとられて立ち去って行ったという。
 当時、日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には、一目も二目も置かざるを得ない状況であった。 
日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、このようにイエジキ部隊を幾度となく庇護していたのである

 しかし、兵力で圧倒的に勝るドイツ軍への抵抗は長く続づかなかった。部隊の関係者は徹底的に弾圧され、イエジも 再びシベリアにおくられていく。

 ポーランドは、戦時下でドイツとソ連に分割され消滅するが、1945年のヤルタ会談で復活する。 しかし、戦争の犠牲者は人口の22%(600万人)にものぼった。 そして1948年に共産党支配体制が成立、国名もポーランド人民共和国と改めソ連の衛星国となった。

 ところが、1980年(昭和55年)労働者のストに端を発した”連帯”を核とする民主化が大きなうねりを起こし、その中心的な活動の役割を担ったのがワレサ連帯議長であった。

 ワレサ議長は日本にも来日 「日本は大きくて平和で偉大な可能性のある国だ」と評し。「ポーランドを第2の日本に」というスローガンを掲げた。

 民主化の混迷の中でワレサは1983年にノーベル平和賞を受賞、また、この年、イエジも過酷なシベリア生活を生き抜き、76歳で念願の訪日を果たした。

 訪日したイエジは、かつて過ごした宿舎の跡など、ゆかりの地を訪れて、救出当時の関係者のほか、ワルシャワ日本大使館の駐在武官であった上田昌雄(当時中佐)にも再開し、積もる話に時を忘れていた。 そのうち、イエジは感極まって思い出したように 「もしもしかめよ かめさんよ 世界のうちで おまえほど・・・ 」を歌い始めた。

 日本語で最後まで歌いきったイエジは、感情の高ぶるままに 「私はかつてのシベリア孤児として、61年ぶりに皆様にお会いできたことを大変うれしく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったに違いありません。 私は今ここで、かつての仲間達の分も一緒にお礼の言葉を述べさしていただきます。本当にありがとうございました」

日本を訪れた元孤児のイエジ・ストシャウコフスキ氏と握手する林敬三日赤社長(当時)

15歳の時に大阪に収容され、帰国後に 「極東青年会」を組織して、第2次大戦で祖国のために戦ったイエジ・ストシャスコフスキ氏は、日赤大阪を訪れ、 「64年前、私たち孤児が日本の皆様や日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたく訪れました。 ありがとうございます」 

と大粒の涙を払おうともせずに、感謝の気持ちを伝えている。

 日本で救助された孤児の中には、ドイツ占領下でユダヤ系ポーランド人の男の子をかくまって育て、イスラエル政府から 「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシエム賞)を授与された孤児もいたと言われている。

 

その後も、日本とポーランド関係は友好的に続き、阪神大震災の被災児30名がポーランドに招かれ、3週間近くポーランドの各地で温かい歓迎を受ける。 特にシベリア孤児達との対面は感動的であったと伝えられている。

2002年には、天皇皇后両陛下が両国の友好親善を深める為にポーランドをご訪問している。

日本の柔道、剣道などの武道への関心も高く、スポーツ交流も活発に行われている。

市民レベルにおいても、日本や日本文化に対するポーランド国民の関心も高く、各地でジャパン・デーと称した催しがあり、日本文化に関する行事が開催されている。

 

ポーランドと日本の心温まるような史実に接して、私は心の中に大きな感動が湧かずにいられなかった。この件について色々な書物や、インターネット等での調査をすればするほど大きな感銘と感動が湧いてくる。

 

 このシベリア孤児救済の話は、当初「これは大変だ。早くしなければ命が危ない、ポーランドの子供を救おう」といった小さな善意の心から始まり、日本の国中から温かい声援や支援の輪が広がり、それを受けた孤児たちが 「恩と感謝の心」を生涯忘れることなく過ごしている。 それがきっかけとなって現在までポーランドの人達の日本への温かい善意が続けられている。

 ポーランドは、過去いく度かの大きな苦難の歴史が続き、それを見事に克服して独自の文化を形成してこられた人達。 人々から受けた恩も決して忘れることがなく、ポーランド魂といわれる強い気質で苦難にチャレンジする国民性に、私は心を惹かれていった。 なんとすばらしい国民性でしょう。

 それにひかえ戦後の日本は、国家意識が希薄し、個人においても自己中心的で、他人を思いやる心も希薄しているように感じる。 また、マスコミ全体が偏ったイデオロギーに重きを置いた報道内容で、ほんとに真実を我々に伝えているのか! 時々疑問にさえ感じることがある。 近隣諸国も自国に有利になるように歴史を捻じ曲げて作り上げ、それをあたかも真実であるかの主調や報道をしているように思えてならない。

 そして、いつの間にかそういった間違った主張や報道、悪い教育内容に影響されているのか、現在日本の人達も、日本人としての誇りを失い、自己的で他人を敬う心が欠如するなど、大切な精神が荒廃して心が貧困になっている様にさえ感じてくる。

 人間の社会や国家において何よりも大切なことは、自分たちの先人達が歩んできた正しい歴史認識から生れる民族としての誇りや、私たちの住む国家や社会の大切さ、国を愛し、健全な精神を持った若者や子供たちに、正しい歴史や出来事を伝え、日本人として誇りある未来を切り拓いていくことにあると確信している。

 今回のようなポーランド孤児救出など、数々の心温まる美談を多く残してくれた先人たちに感謝しながら、現在の日本人が失いかけている、人々を敬い感謝する心、日本人としての誇り、武士道の精神などが、国全体に芽生え、明かるく希望に満ちあふれた、誇りある日本に発展していくことを願わずにはいられない気持で一杯である。

 

 

 

 

 

 



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16 コメント

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日本人の素晴らしさ (桜井)
2012-03-14 16:49:06
こんにちは。
 この記事を読ませていただき、本当に感激しました。また同感することがたくさんあり、これからの日本の課題が山積していることも改めて感じました。
 昔の日本人は世界の人々にも平等に接し、手を差し伸べてきました。エルトゥールル号難破事故、杉原ちうね氏のユダヤ人救済、ほかにもさまざまな世界でも評価さえていることを行ってきました。このようなことは学校で教えるべきだと強く考えています。日本の、または日本人の悪い面ばかり報道するメディア、中華思想に染まった中韓に媚びる現政権、真実を国民に伝えない今のそれらの媒体は到底許せるものではないと思います。
 ここ数十年のなかでも日本が世界に貢献したことはたくさんあります。しかしそのようなことは一切報道されず、くだらない番組や韓流などを流しまくっています。まるで愚民化政策です。

 実は私は中学校で英語の教師をしています。今回こちらにお邪魔したのは、今の日本の英語教育の危うさから、何が必要なのかを考えてきた結果でした。英会話中心の授業へのシフトが最近のトレンドですが、なにかうわべだけのふわふわした見せかけだけのようにしか見えないのです。そして気づきました。日本人としての自覚がない、日本人同士による英会話練習、なんの臨場感もありません。そこで私はいかに生徒に日本人としての自覚を持たせ、日本人としての意見とアイデンティティーを持たせるかという考えのもと、「世界通信」なるものをつくり、本当の日本と世界のつながりを生徒に教え、日本と日本人の素晴らしさを生徒に伝えることを始めました。
 A4の用紙両面に日本が世界にしてきたこと、また日本が絡んだ世界の出来事などを載せています。今までには、3.11を世界はどう見たのか・そして友達作戦、台湾の日本に対する義捐金と日本人有志による恩返し、エルトゥールル号が結ぶ日本とトルコの友情、サマワで起きた日本の自衛隊に対する前代未聞の「ありがとうデモ」、98年ワールドカップにおける日本とクロアチアの友情などを配布してきました。ただ渡すだけではなく、「日本でこれだけ世界で認められているんだよ、日本は素晴らしい国なんだよ」ということを生徒に知らせ、勇気づけています。外国人の友達によく言われます。「なんで日本人は、世界でもまれにみる素晴らしい国に住んでいるのに、自分の国をダメだと言うの?」まったく反論の余地もありません。日本を愛せない日本人、まったくナンセンスだと思います。これは何はともあれ教育が一番重要だと考えています。私はその当事者の一人として子供たちに日本の素晴らしさを伝えることができて幸運だと思っています。
 そして今回はシベリアから救出したポーランド孤児たちの実話を生徒たちに知らせます。子供たちは「日本がこんな良いことをしたんだ」ということをしると自然と笑みになります。あの笑みの中にこそ日本の未来があると実感します。貴重な情報を掲載してくださってありがとうございます。これからもこのような記事を教育の現場で使いっていきます。
 私は日本人で本当に良かったと思います。
           ありがとうございました。

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心温まるコメントありがとうございます。 (希間々兼行)
2012-03-18 00:36:31
桜 井 様 
 コメント「日本人の素晴らしさ」ありがとうございます。
 心温まるコメントに感動致しました。 
 全くの同館であります。
 私も最近の世相で、「自分の国を愛せない」ことを平気で言ったり、日本人としての誇りを持たない人の多さに驚いています。
 常日頃から思っていますが、自分の国を愛せない人達が、世界のどこの国にいるのでしょうか!
 外国の人からめれば、自分の国を愛していない人、そんな人とは友達になりたくない・・といわれそうです。

 先生が生徒たちのために作成されています「世界通信」は、大変素晴らしいことだと思います。
 日本人が外国に行って、その地域や住んでいる人たちのために、貢献した話はたくさんあります。 
 良い話を聞いた時の、生徒たちの微笑みのある自然な表情、これは大切なことだと思います。
 先生から聞いている生徒達の表情が浮かんできます。
 良いお話を繰り返し何回か伝えていますと、日本人としての誇りやアイデンテイーが、自然と芽生え、素晴らしい日本人に育っていくのではと思います。
 こういった教育は大変重要で、大切なことだと思います。

 私は、昨年秋に台湾に行ってきました。
 旅行中にガイドさんから、台湾で一番尊敬されている日本人の一人が、「八田與一」さんといわれました。
 この人は、栽培できない荒れ地を、台湾を代表する緑の穀倉地帯に築き上げていった人です。
 もしお時間があるようでしたら、本ブログ「台湾6都市周遊の旅 その2」に掲載致しておりますので、お立ち寄り頂けましたら、大変うれしく思います。

 これからも教育現場での益々のご活躍をお祈り致します。
  ありがとうございました。
 
  
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写真借用のお願い (CATV担当者)
2012-10-24 18:33:55
ケーブルテレビで番組制作に携っている者です。
突然のお願いで 大変申し訳ありませんが、貴方のホームページに掲載されていますポーランド人孤児救済に関わる写真を 番組に利用させて頂きたいのですが
お許しいただけないでしょうか?
ご連絡をさせて頂きたいので、大変恐縮ですが下記までメールを頂きたく

e.toujou@net5.nus.ne.jp

ご連絡をお待ちしています。
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Unknown (日本人)
2012-11-23 20:17:30
ひょんな事からこのブログに辿り着き拝見させて頂きました。なぜ何百年前の話でもないのに学校で教えないのでしょうか? 自分の子供達には是非知ってもらいたい史実です。

学校の先生にまともな考えの方がおられて、こちらも感動致しました。ありがとうございます
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コメントありがとうございます。 (希間々兼行)
2012-11-26 22:51:16
Unknown (日本人) 様
 ポーランド孤児救済の話や海外で活躍した日本人の話などの史実を何故学校で教えないでしょうか! 私も全く同感です。
 学校では、桜井様のコメントでもあるように、子供たちが日本人として誇りを持てる様な教育をどうしてしないのか! いつも疑問に思っています。
 こういった、世界で活躍した日本人や、日本の正しい歴史・史実を知って、一人でも多くの子供たちや若者が誇りを持った大人に成長していってほしいと念願しています。
 ありがとうございました。
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誇りを失い育った40年 (昭和人)
2013-09-23 13:18:00
文中の日本人らしいエピソードに心が温まりました。
こうした、昔話があたりまえのように、日本の教壇、テレビで聴かれる国になればと切に思います。
人生とは自分で切り開くものではあると思いますが、人はそれほど強くありません、国、社会への意識が大きな柱としてあるか、ないか・・・私はこれを知らずに随分歳をとりました、これからの子供たちには同じ思いをさせたくないと思います。
ありがとうございました。
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コメントありがとうございます。 (希間々兼行)
2013-09-24 10:19:54
 昭和人 様
 コメントありがとうございます。
 色々と歴史を勉強しておりますと、私たち先人の多くの方々が、世界の中で滞在する国家や人々の幸せのために、労力や技術、知恵などを発揮して、貢献されている姿に驚かされます。
 自分本位の考え方ではなく、相手の国々や方々の立場に立って、よく考え、懸命に行動する姿勢には、感心致します。
 こういった国家や社会の為に尽くす。 
 困っている人がいれば、手を差しのべる。 
 日本人の持つ特性が良く現れているように思います。 こういったことの根底には、武士道の精神があるのでしょうか!
 現在の日本社会には、様々な情報が入り乱れていますが、悪い情報や教えに惑わされることなく、真実の日本、誇りの持てる日本人に、子供たちが成長できる環境をつくりあげることの大切さを痛感しています。
 ありがとうございました。
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ポーランド孤児のエピソードと日本精神 (服部 充良)
2014-01-22 02:03:26
2012年9月と2013年12月に製造装置のコンピュータソフトウェア仕事でポーランドへ行きました。
エンドユーザー様は自動車用セラミックの工場で、排気ガス規制クリアのためにはなくてはならない部品の製造工場です。
私はポーランド孤児のエピソードを以前より知っており、ポーランドでの仕事においては、過去の日本人に恥じないようにしなければいけないと、提示されたソフト仕様はもちろんのこと、それ以上に製造管理上必要と思われる機能や利便性を高める機能などを実装しました。
2週間の作業を終えて最終日に送別食事会を執り行ったのですが、たまたま私たちと入れ違いに、エンドユーザー様の事業統括部長様が到着されました。
会話のなかでポーランド孤児のエピソードや頂いた仕事への私の取り組み方などを話したのですが、ポーランド孤児のエピソードについてはまったくご存知なかったそうです。現地の日本人スタッフとも話をしたのですが、誰一人として知っている人はいませんでした。
部長様はたいへんな感銘を受けられたようで、ご自分でもっと調べて今後の話題として活用したいと言っていました。
国内一部上場企業の先端分野の部長様ですので、従業員様はもちろん、エンドユーザー様のお得意先にもエピソードと日本精神が伝わることを願っております。
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コメント (希間々兼行)
2014-01-23 16:44:12
服 部 充 良 様

コメントありがとうございます。
ポーランドでのお仕事大変御苦労様です。
海外で働く方々が、その国と日本とかかわった歴史にふれ、その国との友好が一層深まってきているようで大変うれしく思います。
今回のようにポーランド孤児の物語を知らない方も多く見えると思いますが、一人でも多くの方に知っていただいて、ポーランドとの友好の礎が、一層強固になっていくものと思います。
 現在でも日本人の中には、こういった日本の歩んだ人道的な歴史を知らない方が多く、反日的な考え方をする方が見えます。
 私も日本精神が多くの方々に伝わり、日本の伝統と文化を愛し、日本人として誇りの持てる、若い人たちが育成されていけますように願っています。
 ありがとうございました。
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Unknown (田舎のポンヨウ)
2014-04-08 01:39:51
2014年4月7日テレビ大阪でPM10時から「知られざる親日国」の放送がありました。

途中から見たのですが、感激しネット検索してここへ来ました。あなた様のHPを許可を受けてからでなければならないのに、先に掲載させていただきました。
掲載すること、よろしくお願いします。
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