また、愛読させていただいているブロガーさんの記事のタイトルを拝借した。
私は常々早く死にたいと書いている。
実際早く死にたい。
人によっては、そんな罰当たりなことを言うものでないと説教するかもしれない。
しかし、死にたいのは本当である。
あまり苦しまずに死にたい。
もちろん生きていても楽しいこともある。
が、聴力の八割を失って生きることは私には耐え難い。
聞こえが悪いことで、私は、どれだけのチャンスをみすみす逃してきたか。
若い頃は難聴が軽かったと言っても軽いは軽いで健聴者と同じことが要求されるから、それなりに辛いことが多かった。
私を愛してやまなかった親にすら、人並みかそれ以上のことを要求された。
学生時代は良い成績をとることを要求されたが、聞き取りの悪い耳では親が期待するほどの成績はとれなかった。
就職しても聞き取りの悪い耳は不都合が多かった。
が、親はとにかく頑張れの一点張りであった。
結婚の時も、できるだけ良いところに嫁がせようとした。
それは、親の愛情からであったことは認めるが、お陰で結婚後の苦労も並大抵ではなかった。
義母が難聴の嫁を娶ることを反対していたらしいから、ずいぶんいじめられた。
一年に一度か二度の里帰りも反対されて、私が泣き出すまで責めに責められた。
私は、結婚した当初は、親や祖父母や友人に会いたくてたまらなかった。
わが子を見てもらいたかった。
が、里帰りすると決めたら義母は飛んできて、私が泣き出すまで嫌味を言った。
私の夫は義母の自慢の息子であったから私のことが我慢ならなかったのだろう。
私の母は私の夫に、びこをかえしてもらうと怒った。
が、私も離婚するほどの意地がなかったし、子供を一人で育てる自信もなかった。
それで耐えた。
義母も晩年認知症になってからは私を頼ってくれたが、それまでは気位が富士山より高い人だったから、なにかにつけ意地悪された。
義母が亡くなってからは、その代わりをするかのように義妹が私に偉そうにする。
が、これは無視できないこともないから無視している。
とにかく難聴であるだけでも辛いことなのにこういうふうに虐められることが耐えられなかった。
今はもう若い頃のような辛いことはないが、しかし、難聴はどんどん進んで、現在、二割方しか聞こえない耳になってしまった。
もうこうなると生きていても、あまり楽しめない。
だけでなく、生きていることで夫や子供達に迷惑がかかる。
そう考えると、出来得る限り早く天に召されたいと思ってしまうのだ。
今日どうしてこんなことを書いているかと言うと、上に書いた記事を読ませてもらって、そうか、死んだように生きるという生き方もあると気づかせていただいた。
このブロガーさんのその記事を書かれた意図とは関係なく、私は、そのタイトルに、雷に打たれたようになった。
私も死んだように生きていればいいと。
★死ぬよりも死んだかのごと生きなむと今朝は思へりまだ生きゐれば
★眞子さんに負けぬPTSDはわれに時々きざしてきたる