先日、歯科クリーニングに行った。私は生涯、自分の歯で食事したいので、歯の健康に気をつけている。定期的に歯科へ行って、歯の検査とクリーニングをして貰う。歯科クリーニングとはたいてい、歯石除去のことを言うけれど、私の場合は、歯石はつかない。歯磨きだけでは限界のあるプラーク除去ということになる。だから、周囲の人たちは、歯科へ行って歯石除去をして貰うと、痛いとか出血するとか聞くが、私はそういうことは全くなくて、あの超音波スケーラーという器具で歯科医師にスケーリングをして貰うのが、とても気持ち良くて大好きである。定期的にマメに行っているから、時間も10分ぐらい。クリーニングの前に、必ず歯と歯茎の検査もしてくれるし、
「きちんと磨けてますね」
と、医師からいつも言われる。ふだんの歯磨きで、一か所でもおろそかにする部分があると、鋭く指摘されてしまうから、歯磨きを怠(おこた)ることは一日もない。元来、私は歯磨き大好き人間である。
10分程度で、気持ちいいクリーニングが終わって、その後、歯についての健康情報とか、雑談を少しする。この2年間、私が通っている歯科の主治医T先生は20代後半、清潔感の漂う素敵な青年医師である。どんな質問でもどうぞという感じなので、私は毎回、いろいろな質問をするのが楽しくてたまらない。歯に関する質問もあれば、T先生自身のことも。
昨年の12月に、予約してあるクリーニングに行った時、T先生がいつもと違う様子だった。
「先生、風邪ひいたんですか?」
そう聞くと、
「ええ……まあ、風邪っていうか……ぼくは、あまり風邪はひかないんだけど、今朝、急に……」
と、T先生が、しどろもどろの答え方をするのが、可愛らしくもあり、おかしくもあった。
「『医者の不養生』って言葉が当てはまるお医者さんて、大好き」
私はそう言った。風邪ひいてる医者なんてとか、医者のくせに風邪ひいて、なんて思わない。『医者の不養生』をしている医師のほうが人間味があっていいと思う。
T先生はクスクス笑って、それから、私に言った。
「もし、うつしてしまったら、ごめんなさい。帰ったら、よく、うがいして下さい。でも、大丈夫ですから、このマスクで」
と、T先生がつけている医療用マスクというのか、歯科医療用マスクというのか、市販のより高級そうなマスクを指さして言った。
T先生の風邪は、もちろん、うつらなかった。
ところが、先月、私は風邪をひいて、予約日をキャンセルした。T先生が主治医となって、この2年間、予約をキャンセルしたことは一度もない。キャンセルは電話で受付女性が受けてくれた。その後、しばらくして、予約する時は、電話でT先生と日にちを決めた。それで、先日、会うのが3か月ぶりになったため、何だか、とても久しぶりの気がして、小さな感動が湧いてしまった。T先生は相変わらず、とても清潔感の満ちあふれた、やさしい青年歯科医。私の風邪のことを心配して下さったので、治療椅子に座ったものの、風邪の話になった。T先生も私の横の椅子に座っている。大半のクリニックでは、歯科クリーニングは歯科衛生士がやるけれど、そこはT先生がしてくれるので、歯科衛生士は傍にいない。
「市販の漢方薬飲んで、たいていは、喉の痛みって取れるんですけど、今回は生まれて初めて、夜中に3時間おきぐらいに目が覚めては喉の痛みで、とても苦しかったんです。声がほとんど出なくなっちゃったから、内科へも行けなくて。筆談するわけにいかないし」
近所の内科へ行くことも考えたが、ひどい声では恥ずかしいし、行くのをやめたのだ。
「先生は風邪ひくと、内科へ行くんですか?」
歯科医師が内科へ行くかどうか、興味があったので、私は質問した。多分、行かないのでは、と想像していたが、当たった。
「いや、行きません。内科へ行っても、抗生物質の薬出されるだけだから、風邪は治らないですからね」
「ええっ! 抗生物質って、風邪を治す薬……じゃないんですか?」
「抗生物質は細菌を殺す薬」
「細菌て……風邪って、その細菌が原因でしょう?」
「風邪はウィルスです。風邪ウィルスを殺す薬は、まだ世界のどこにもないんです。だから、その薬を開発したら、ノーベル賞を貰えるって言われてるんです」
「じゃ、先生、ひそかに研究して、開発して、ノーベル賞貰って!」
私がそう言うと、T先生はハハハと笑った。
「ぼくは研究向きじゃないんでね」
「内科へ行かないで、市販の薬を飲むんですか?」
「実家にある鎮痛解熱剤飲んで治すんです」
T先生の家は、歯科医院。
「鎮痛解熱……私、風邪ひいても熱は出ないんですけど、鎮痛と解熱って、別々の薬じゃなく、同じ薬なんですか?」
そのことは、私にとって驚きだった。
「そう、同じです」
「その鎮痛解熱剤って歯科医院に置いてあるんですか?」
「ありますよ、患者に出すから」
「歯科とか内科へ行かないと手に入らない薬ですよね。市販薬では、ないんでしょう?」
「いや、売ってますよ」
「ええっ、それ、何ていう薬ですか?」
「〇〇〇〇〇〇」
「あら、〇〇〇〇〇〇て知ってます。常備薬として買っておくけど、いつも使用期限切れになって未開封のまま捨ててます。でも、〇〇〇〇〇〇て、頭痛薬と思ってました。だって、頭痛に〇〇〇〇〇〇てCM、脳にインプットされちゃってるみたいで」
「喉の痛みも、それ飲めば治ると思いますよ」
「じゃ、私、〇〇〇〇〇〇飲めば良かったんですね。喉の痛みで目が覚めた夜も」
「そうですね」
「先月、風邪ひいて、気がついたことなんですけど、風邪ウィルスってマスクで予防できますよね。だって、私が風邪ひいたのは、飲食店借り切った室内でダンス・ショーを3時間見てて、近くの周囲で、コンコン、ゲホゲホ絶え間なかったんです。コンコン、ゲホゲホしながら、連れの人とお喋りしたり笑ったりしてて。きっと、来るまでは風邪も治って咳も出なかったけど、お喋りと笑い声と埃と室温のせいで喉を刺激されて、コンコン、ゲホゲホ絶えないことになったと思うんです。それで、マスクしてる人も少なくなかったけど、マスクしてる人は誰も、コンとも言わない。風邪をひいてるからマスクしてるんじゃなくて、風邪ウィルスを避けるためにマスクしてるんです。賢い~って思って。私も風邪治ってからは、外出時になるべくマスクしてます」
「その日、帰ってから、ていねいにうがいすれば良かったんですよ」
「でも、その会場でビール飲んでて、そこを出てから友達と食事しちゃったんですけど、それでも帰宅してうがいするのって効果あるんですか?」
「ああ、食事しちゃ駄目ですね、風邪ウィルスは体内に入っちゃう」
「そうですよね。私、自分の免疫力を過信してたんです。大丈夫、私はうつらないわ、こんなこと、初めてってわけじゃないしって。風邪ひいてる人と長時間一緒にいたことだって何度もあるし、それでも、うつらなかったし」
「食事してなければ、帰宅してよくうがいすれば、大丈夫ですよ。〇〇〇〇でうがいするでしょう?」
「はい、うがいは〇〇〇〇で、します」
「そのあと、必ず水ですすいで」
「ええっ! 水ですすぐんですか? 〇〇〇〇でうがいしたままのほうがいいのかと思ってました」
「〇〇〇〇は少し毒の成分があるから、喉に残さないほうがいいんです」
「本当? 初めて知りました」
「それから、こういう、喉にスプレーするのを……」
「それ、市販で売ってるんですか? 何ていう薬?」
「〇〇〇〇ていう成分が入ってる、〇〇何とかスプレーっていうんじゃなかったかな、〇〇がついたと思うけど。その薬が効きますよ」
「じゃ、私、買っておきます。喉の痛みって、本当につらくて懲りてしまったから」
「咳は?」
「喉の痛みがおさまったら、咳が出たんですけど、食欲は落ちないから、太るのを覚悟で、果物とか食事をいっぱいしてたんです。それから、食前に漢方薬飲んで、食後に〇〇〇〇ていう化学薬品の市販薬飲んだら、数日間、眠ってばかりで、咳が出なくなって治りました。〇〇〇〇て眠くなる薬でしょう?」
「〇〇〇〇は眠くなる成分入ってたかな……。でも、長引かなくて良かったですね」
「はい。私、風邪ひいて寝てた日も、歯磨きだけはちゃんと、してました」
「それはいいことですね」
「でも、キャンセルしちゃって、すみません」
「いえいえ、じゃ、始めましょうか」
時計を見ると、20分が過ぎている。いつものように、歯の検査と、超音波スケーラーのクリーニングが始まる。
その歯科医療機関を出て、帰る途中、
(歯科へ来て、内科の情報を教えて貰えるなんて思わなかったわ)
と、その幸運なできごとに、夜までずっと楽しかった。
「きちんと磨けてますね」
と、医師からいつも言われる。ふだんの歯磨きで、一か所でもおろそかにする部分があると、鋭く指摘されてしまうから、歯磨きを怠(おこた)ることは一日もない。元来、私は歯磨き大好き人間である。
10分程度で、気持ちいいクリーニングが終わって、その後、歯についての健康情報とか、雑談を少しする。この2年間、私が通っている歯科の主治医T先生は20代後半、清潔感の漂う素敵な青年医師である。どんな質問でもどうぞという感じなので、私は毎回、いろいろな質問をするのが楽しくてたまらない。歯に関する質問もあれば、T先生自身のことも。
昨年の12月に、予約してあるクリーニングに行った時、T先生がいつもと違う様子だった。
「先生、風邪ひいたんですか?」
そう聞くと、
「ええ……まあ、風邪っていうか……ぼくは、あまり風邪はひかないんだけど、今朝、急に……」
と、T先生が、しどろもどろの答え方をするのが、可愛らしくもあり、おかしくもあった。
「『医者の不養生』って言葉が当てはまるお医者さんて、大好き」
私はそう言った。風邪ひいてる医者なんてとか、医者のくせに風邪ひいて、なんて思わない。『医者の不養生』をしている医師のほうが人間味があっていいと思う。
T先生はクスクス笑って、それから、私に言った。
「もし、うつしてしまったら、ごめんなさい。帰ったら、よく、うがいして下さい。でも、大丈夫ですから、このマスクで」
と、T先生がつけている医療用マスクというのか、歯科医療用マスクというのか、市販のより高級そうなマスクを指さして言った。
T先生の風邪は、もちろん、うつらなかった。
ところが、先月、私は風邪をひいて、予約日をキャンセルした。T先生が主治医となって、この2年間、予約をキャンセルしたことは一度もない。キャンセルは電話で受付女性が受けてくれた。その後、しばらくして、予約する時は、電話でT先生と日にちを決めた。それで、先日、会うのが3か月ぶりになったため、何だか、とても久しぶりの気がして、小さな感動が湧いてしまった。T先生は相変わらず、とても清潔感の満ちあふれた、やさしい青年歯科医。私の風邪のことを心配して下さったので、治療椅子に座ったものの、風邪の話になった。T先生も私の横の椅子に座っている。大半のクリニックでは、歯科クリーニングは歯科衛生士がやるけれど、そこはT先生がしてくれるので、歯科衛生士は傍にいない。
「市販の漢方薬飲んで、たいていは、喉の痛みって取れるんですけど、今回は生まれて初めて、夜中に3時間おきぐらいに目が覚めては喉の痛みで、とても苦しかったんです。声がほとんど出なくなっちゃったから、内科へも行けなくて。筆談するわけにいかないし」
近所の内科へ行くことも考えたが、ひどい声では恥ずかしいし、行くのをやめたのだ。
「先生は風邪ひくと、内科へ行くんですか?」
歯科医師が内科へ行くかどうか、興味があったので、私は質問した。多分、行かないのでは、と想像していたが、当たった。
「いや、行きません。内科へ行っても、抗生物質の薬出されるだけだから、風邪は治らないですからね」
「ええっ! 抗生物質って、風邪を治す薬……じゃないんですか?」
「抗生物質は細菌を殺す薬」
「細菌て……風邪って、その細菌が原因でしょう?」
「風邪はウィルスです。風邪ウィルスを殺す薬は、まだ世界のどこにもないんです。だから、その薬を開発したら、ノーベル賞を貰えるって言われてるんです」
「じゃ、先生、ひそかに研究して、開発して、ノーベル賞貰って!」
私がそう言うと、T先生はハハハと笑った。
「ぼくは研究向きじゃないんでね」
「内科へ行かないで、市販の薬を飲むんですか?」
「実家にある鎮痛解熱剤飲んで治すんです」
T先生の家は、歯科医院。
「鎮痛解熱……私、風邪ひいても熱は出ないんですけど、鎮痛と解熱って、別々の薬じゃなく、同じ薬なんですか?」
そのことは、私にとって驚きだった。
「そう、同じです」
「その鎮痛解熱剤って歯科医院に置いてあるんですか?」
「ありますよ、患者に出すから」
「歯科とか内科へ行かないと手に入らない薬ですよね。市販薬では、ないんでしょう?」
「いや、売ってますよ」
「ええっ、それ、何ていう薬ですか?」
「〇〇〇〇〇〇」
「あら、〇〇〇〇〇〇て知ってます。常備薬として買っておくけど、いつも使用期限切れになって未開封のまま捨ててます。でも、〇〇〇〇〇〇て、頭痛薬と思ってました。だって、頭痛に〇〇〇〇〇〇てCM、脳にインプットされちゃってるみたいで」
「喉の痛みも、それ飲めば治ると思いますよ」
「じゃ、私、〇〇〇〇〇〇飲めば良かったんですね。喉の痛みで目が覚めた夜も」
「そうですね」
「先月、風邪ひいて、気がついたことなんですけど、風邪ウィルスってマスクで予防できますよね。だって、私が風邪ひいたのは、飲食店借り切った室内でダンス・ショーを3時間見てて、近くの周囲で、コンコン、ゲホゲホ絶え間なかったんです。コンコン、ゲホゲホしながら、連れの人とお喋りしたり笑ったりしてて。きっと、来るまでは風邪も治って咳も出なかったけど、お喋りと笑い声と埃と室温のせいで喉を刺激されて、コンコン、ゲホゲホ絶えないことになったと思うんです。それで、マスクしてる人も少なくなかったけど、マスクしてる人は誰も、コンとも言わない。風邪をひいてるからマスクしてるんじゃなくて、風邪ウィルスを避けるためにマスクしてるんです。賢い~って思って。私も風邪治ってからは、外出時になるべくマスクしてます」
「その日、帰ってから、ていねいにうがいすれば良かったんですよ」
「でも、その会場でビール飲んでて、そこを出てから友達と食事しちゃったんですけど、それでも帰宅してうがいするのって効果あるんですか?」
「ああ、食事しちゃ駄目ですね、風邪ウィルスは体内に入っちゃう」
「そうですよね。私、自分の免疫力を過信してたんです。大丈夫、私はうつらないわ、こんなこと、初めてってわけじゃないしって。風邪ひいてる人と長時間一緒にいたことだって何度もあるし、それでも、うつらなかったし」
「食事してなければ、帰宅してよくうがいすれば、大丈夫ですよ。〇〇〇〇でうがいするでしょう?」
「はい、うがいは〇〇〇〇で、します」
「そのあと、必ず水ですすいで」
「ええっ! 水ですすぐんですか? 〇〇〇〇でうがいしたままのほうがいいのかと思ってました」
「〇〇〇〇は少し毒の成分があるから、喉に残さないほうがいいんです」
「本当? 初めて知りました」
「それから、こういう、喉にスプレーするのを……」
「それ、市販で売ってるんですか? 何ていう薬?」
「〇〇〇〇ていう成分が入ってる、〇〇何とかスプレーっていうんじゃなかったかな、〇〇がついたと思うけど。その薬が効きますよ」
「じゃ、私、買っておきます。喉の痛みって、本当につらくて懲りてしまったから」
「咳は?」
「喉の痛みがおさまったら、咳が出たんですけど、食欲は落ちないから、太るのを覚悟で、果物とか食事をいっぱいしてたんです。それから、食前に漢方薬飲んで、食後に〇〇〇〇ていう化学薬品の市販薬飲んだら、数日間、眠ってばかりで、咳が出なくなって治りました。〇〇〇〇て眠くなる薬でしょう?」
「〇〇〇〇は眠くなる成分入ってたかな……。でも、長引かなくて良かったですね」
「はい。私、風邪ひいて寝てた日も、歯磨きだけはちゃんと、してました」
「それはいいことですね」
「でも、キャンセルしちゃって、すみません」
「いえいえ、じゃ、始めましょうか」
時計を見ると、20分が過ぎている。いつものように、歯の検査と、超音波スケーラーのクリーニングが始まる。
その歯科医療機関を出て、帰る途中、
(歯科へ来て、内科の情報を教えて貰えるなんて思わなかったわ)
と、その幸運なできごとに、夜までずっと楽しかった。