切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

長安寺・福田寺・市比賣神社・長講堂 京都市下京区・・・密集地帯

2018-11-05 22:30:50 | 撮影

長安寺



 京都市下京区にある長安寺へ行ってきた。真宗大谷派のお寺だ。
 東本願寺のすぐ東側にある。なぜここに行ったのか。ネットで色々文化財などを調べている中で、長安寺が「もみじ寺」として紹介されていて、紅葉にはまだ早いが、様子を見に行くことにした。
 京都市街地独特のを碁盤の目の一方通行の細い道が交差する中で、最初なかなか見つけられなかったが、コインパークに駐めて歩いて探して見つけた。長安寺の山門は非常に小さく目立ちにくかった。外から見た限り、もみじはさっぱり見えない。境内へ入ると小さな本堂に長安寺と記されていた。
 境内は草木が豊かで、通路のみ歩ける状態。いずれにしろ、もみじが見当たらない中で、これは一体どうしたことかと思いながら写真を撮って出る。
 帰宅後を調べたところ、紅葉寺の長安寺というのは、京都府福知山市にあるそこそこ有名なお寺のことだった。ついつい住所を見逃してしまったわけだ。おまけに同名のお寺が京都市内にあったので、とんだミスをした。まぁしかしこれもご縁ということで、写真で紹介しておく。ネット上には情報はほとんどない。しかし長安寺には独自のホームページがある。ただ残念ながら、お寺の内容紹介はなく、 Twitter が中心のホームページだった。

   


福田寺(ふくでんじ)



 長安寺だけでは帰れないので、そのまま東へ向かって河原町通り沿いへ走る。この周辺にはお寺が密集しており、少し前にその一部をこのブログでも紹介した。まだまだお寺の数があるので、ここを何箇所か回ることにした。
 福田寺は同じ名前のお寺を以前に紹介した。南区にある比較的名前の知れたお寺だった。今回の福田寺は浄土宗のお寺で、本尊は阿弥陀三尊。このうち「阿弥陀如来像」は恵心僧都源信の作と言われている。また「安阿弥」は快慶の作と伝えられている。
 福田寺の創建は鎌倉時代。このお寺で有名な物は、母乳祈願の「乳房地蔵菩薩。」従って母乳祈願や乳房守護の信仰が熱く、多くの女性が訪れると言う。
 このお寺も比較的規模は小さく、境内は草木が生い茂り、歩けるのは通路だけという状態。敷地内には本堂や社務所などが建ち並んで、小さいながらもお寺としての風格を感じさせる。予備知識がなかったので、境内だけの写真を撮って出ることになったが、本堂の扉が少し開いていたので、そこを見るべきだった。その中に乳房地蔵菩薩が安置されている。
 どうも自分はやることが中途半端で、事前準備を、あるいは予備知識をしっかりと持たずに先に現地に行ってしまう、と言う良くない習慣があって、後から後悔することが非常に多い。訪れるを多くの人々はそういった予備知識などを持ってきているケースがほとんどみたいだ。自分のように撮影を目的にしている者にとってみれば、ほとんどのお寺で本尊などの仏像は撮影することができないので、その辺りを軽視しているように思える。このあたりもう少し修行が必要だ。

      


市比賣神社



『市比賣神社
 祭神として市寸嶋比賣之命・多紀理比賣之命・多紀都比賣之命・神大市比賣之命・下照比賣之命の五女神を祀っている。
 桓武天皇が平安京遷都に伴い、左右両京の市座(常設市場)を守護する神社として延暦十四年(七九五)に創建したものと伝えられる。もとは東市座内の七条坊門にあったが、天正十九年(一五九一)にこの地に移った。なお、京都市中央卸売市場には開設時より当社の末社が祀られている。
 清和天皇から後鳥羽天皇に至る二十七代の間は、皇室、公家の崇敬が厚く、皇子又は子女の誕生ごとに当社の「天之真名井」のご神水を産湯に加えられたと伝えられており、また、「お食べ初め」のもとである「五十日穎之餅」神事や「市之餅」と名付けた産餅も授与された。
 商売の繁栄を加護し、子供の成育と女性を守護する当社は、女性だけの厄除けの神を祀る京都の古くからの女人厄除祈祷所として、全国の女性の信を集めている。近年はカード塚が創られ、あらゆるカードを供養するという現代的な祭典も行われている。
 毎年五月と十一月の十三日は例大祭が行われる。
 京都市  (駒札より)

『由緒
 ご創建は、延暦十四年、東西両市場の守護神として桓武天皇の勅命で勧請された社です。商売繁昌を神勅とし、大いに賑わったと伝えられます。
 御本殿には、御祭神「多紀理比賣命」が御子神「下照比賣命」を抱かれた全国的にも珍しい御神像が安置され、花山天皇の勅作と伝えられてい主す。
 御祭神全て女神様をお祀りしているところから、女性の守り神とされ、良縁、子授け安産にご利益があり、特に「女人厄除け」の神社として厄年を迎えた女性が厄除けを願い、全国からご祈祷に訪れます。
 歴代皇后の崇敬篤く、現在も「皇后陛下祈願所」として御安泰のお守り「女人守り」を献上申し上げております。
 平安時代より当神社に伝わる「五十日百日之祝儀」(いかもものしゅうぎ)は『お食べ始め』の発祥として知られています。皇室を始め公家・庶民に至るまで生後百日目を迎える日、当社に参り「五十顆之餅」(いかのもち)を授かり、親類一同が見守るなか恵方に向かい、子達に含ませ無事成長を祈る儀式が伝わる。近年では愛子内親王殿下に献上されました。
 源氏物語など多くの古典文学にも描かれています。 (紹介説明書きより)

 続いてすぐ近くの「市比賣神社」へ行く。
 京都だけではなく全国的にも有名な、女性の守り神としての神社。以前から行こうとは思っていたが、自分の気持ちの中には女性専用という思いがあって、どうにもこうにも近くまで行っても足が向かなかった。今回は思い切って入ることにした。
 入り口の門からしてとても変わっており、マンションの建物の1階の一部をくりぬいて入り口の門にしている。内部は決して広くはないが、様々な祭神が祀られ、予想通り来ているのは中年から若い女性ばかりだった。こんなところにいい歳のお爺いさんが入っていくというのもなんなんだが、一応カメラであちこち撮影しながら、心細く全部の祭神を回った。
 ちょうど入口の所でお守りなどを販売していたので、事務の人に聞いてみた。「やはりここは女性ばっかりくるのですか。」返事は「ほとんどが女性ですが、たまに男性も来ます。」とのことだった。というのも上記の説明書きの通り、ただ単に女性の守り神だけではなく、元々は桓武天皇の勅命により創建され、「商売繁盛の神」として昔は賑わったということだ。
 というわけで今でも商売人やサラリーマンなども、時折くると言う。なるほどと思いながらも結局、境内にいる間、ついに男性は一人も来なかった。
 由緒については上記の駒札や説明書きの通り。まぁ祭神がすべて女神ということで、女人厄除けというのも当然だと思う。

   


長講堂



『長講堂
 平安時代末期の寿永二年(一一八三)に、後白河法皇(一一二七~一一九二)が晩年を過ごした院御所「六条殿」内に建立した持公堂が当寺の起こりである。
 後白河天皇は譲位して上皇となってからも三十余年にわたって院政を行い、嘉応元年(一一六九)には仏門に入り法皇となった。
 長講堂は正式には「法華長講弥陀三昧堂」といい法華経を長期間講じ、阿弥陀仏を念じて
精神集中の境地に入る道場という意味がある。後白河法皇は莫大な寺領を長講堂に寄進してその経済的基礎を築いたが、没する直前に、長講堂とその所領を寵愛していた丹後局の子・宣陽門院覲子内親王に譲った。その後、第八十九代後深草天皇に譲与され、以降、いわゆる持明院統によって相続された。
 もとは六条西洞院にあったが、度重なる火災のため転々と寺地を変え、天正六年(一五七八)に 豊臣秀吉によって現在地に移された。
 本堂には後白河法皇の臨終仏である本尊の阿弥陀三尊像(重要文化財)が祀られ、御影堂には毎年4月13日の法皇忌にのみ公開される。江戸初期に作られた後白河法皇坐像(重要文化財)が安置されている。
 京都市 (駒札より)

 最後に長講堂に行く。
 最初ここの名前から、お寺ではないのかなと思っていたが、門の前に着くと正真正銘のお寺らしいお寺。沿革は上記の駒札の通りだが、後白河法皇に縁のあるお寺だ。元々はお寺ではなく、書かれているように道場というふうな位置づけだったようだ。
 境内は決して広くはないが、本堂をはじめとする各建物が並び、ここも典型的なお寺の姿を呈している。
 重要文化財もあるということだが、公開日でないと見ることはできない。境内の一画には開祖である後白河法皇の御影殿がある。門前の駒札以外には、本来ならば重要文化財があればその立て札があるものだが、こちらはあっさりしていて、そうした案内は一切ない。
 自分自身も前もって調べていなかったので、駒札を読んで初めてかなり由緒のあるお寺であることがわかった。公開日には是非とも訪れたいものだと思う。
 それにしてもこの近辺一画に多数の寺院が密集しており、神社もある。お寺の中には当時の権力者から移転の命を受けて、この地に移ったものもあるが、結果的にここに集まるようになってしまったのか、それとも一部を除いては創建当時からこの辺りに固まっていたのか。西側数百メートルのところには東本願寺があり、さらに西に西本願寺がある。そのようなこともあって影響しているのかもしれない。

        

 なおここの住所は、「下京区本塩竈町」と言う。塩竃といえば宮城県の「塩釜市」が有名だが、実際に昔から関わりがあって、光源氏のモデルと言われる源融が、陸奥国塩竃の浦の光景を、京都のこの地に庭園として作ったという事実がある。従って塩竈町という地名は、遠い陸奥国宮城県から来たものだ。



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