切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

寂照院 京都府長岡京市・・・孟宗竹発祥の地

2018-11-18 23:04:25 | 撮影



『お寺のいわれ
 この付近には海印寺、あるいは奥海印寺の地名がある。これはかつて栄えたお寺の名前である。
 海印寺は南都出身の道雄という僧が9世紀に創建し、定額寺、すなわち官寺に準じた扱いを受けたことが史料(『文徳実録』『類聚三代格』『延喜式』等)から分かる。
 鎌倉時代に東大寺の宗性(そうしょう)によって再興され、中世には東大寺尊勝院の末寺であった。織田信長に擁立されて上洛した足利義昭がこの寺を宿舎にしたということもあったという。
 近世には衰微し、10あったとされる子院のうちの1院、すなわちこの寂照院だけが残り、法灯を受け継ぐ。
 (寂照院HPより)

   

 長岡京市にある寂照院へ行く。
 お寺の沿革についてはホームページに、上記のように掲載されていた。正確には平安初期の819年に創建と言う。
 このお寺は孟宗竹で知られている。孟宗竹というのは元々中国にあった竹で、竹の中では最大のものと言われる。西暦801年に創健者の道雄が中国より持ち帰ったというのが伝わっているが、実際には諸説あって、鎌倉時代に僧道元が持ち帰ったというのが有力な説となっているようだ。とりあえずこの寂照院が日本における孟宗竹発祥の地として知られており、実際本堂の横には孟宗竹が高くそびえている林がある。
 長岡京市のお寺としては珍しく、仁王門があり、左右に金剛力士像が構えている。この金剛力士像については、長岡京市の広報に次のような記事が載っていた。

 奥海印寺の寂照院仁王門に安置される金剛力士立像。像内に納入された 古文書から、康永3(1344)年に西岡地域の人々からの寄付で造立されたこ とがわかっています。制作年が明らかで、南北朝期の金剛力士像の特徴が 良く出ており、仏教造像の成立過程とその背景を納入品から知ることがで きる貴重な例であることから、今年3月1日、長岡京市指定文化財に指定さ れました。
 京都府長岡京市教育委員会はこのほど、寂照院(同市奥海印寺)の木造金剛力士立像2体と、像の中に納められていた納入品6点を、新たに市文化財に指定した。今回の指定で、市指定文化財は計41件になった。
 金剛力士立像は、寂照院の仁王門に安置されており、南北朝時代の1344年に制作されたとみられる。阿(あ)形像が高さ2・41メートル、吽(うん)形像が同2・39メートル。阿形像からは紙本朱書般若心経、吽形像からは紙本墨書位牌など5点が納められているのが見つかった。
 市教委は指定の理由として、南北朝期の仏像制作の成立過程とその背景を納入品から知ることができる例として、「日本の美術や宗教、歴史を考える際に欠かせない」としている。 (長岡京市市民広報より)

      

 他にも多くの文化財を有しており、本尊は千手観音立像。鎌倉時代の作で京都府の登録指定文化財となっている。また同じく四天王立像も鎌倉時代作で府の登録指定文化財、などなど他にも貴重なものがある。 
  仁王門をくぐって境内に入ると、正面に本堂が見えて隣には宝物庫や書院などがあるが、何も比較的近代的な建築となっている。境内に草木はやや少なく、コンクリートで固められた地面で、ここが本当に1200年もの歴史を持つ寺院とは思えないほどだ。
 そんなことを考えてる時に、たまたま住職さんが近づいてきた。しばらく話をする。
 かつてこのお寺はかなり寂れていて、住職も齢を取り後を継ぐ者もおらず、廃寺になるかもしれないという状況だったらしい。本堂などの伽藍も痛みが激しく、とても存続は難しいと思われていたが、周囲の声や支援の申出等多数あり、現住職が思い切って莫大な費用をかけて再建することにした。したがって結果的には鉄筋コンクリート造りの本堂というような形になっている。これも仕方ないと言えば仕方ないし、今後この寺が数百年、千年と継続していく中で、改めてその価値も出てくるんだろう。

    (孟宗竹)

 孟宗竹の話も詳しくしていただき、自分自身が知らない新しい知識を得ることができた。文化財については公開日ではないために見ることはできなかったが、是非一度拝見したいものと思う。もちろん仁王門の金剛力士像2体については、目の前で見ることができる。寺院の雰囲気としては想像するものとは大きく違うが、歴史的由緒のあるお寺でもあり、一度訪れておくのもいいものと思う。

コメント
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