今の日本人に、一番足らないのは「言葉の定義」です。
日本の社会で、日常の言葉の定義が全くなされていません。
ですから、言葉のイメージだけで、考えて行動しています。
つまり、精査され検証された内容ではなく、雰囲気で洗脳され管理され動かされています。
当然管理する側は、定義し計算し折り込み済みです。
企業のイメージ戦略として、地球を守る!地球のイノチを守る!地球の為に!地球にやさしく!
地球にお役に立つ!地球に愛を!の標語を見聞きしますが、論理的な具体性が一切ありません。
理性ではなく、人間のワニの脳に働きかけています。企業のCMのようなものです。
宇宙と地球の境目が無い様に、自然界と人間に本質的な境目が無い事に目覚めきれ無いのが人間です。
また、神はいつもあなたに寄り添っている事に気づかないで、神社におわすというのが人間です。
神を人間が勝手にイメージしています。
神の正しい定義ができる時代が今世紀ですから、神の世紀と言われます。
宇宙や神や心や地球の定義無しでは、宇宙神や宇宙心も地球の為も正しい理解は、永遠にできません。
言語を定義しないと言語明瞭の意味不明で、言語道断になります。
神が分からない者が神を語り、神が分からなくなっています。
人間と地球や宇宙の関係よくカミカミしてねという事です。
大宇宙を癒す秘密の言霊
アヤナワン・アリンガトワ!
A YA NA WA-n ・ A Linga TA-o WA
あやなわん・ありんがとわ
歴史的にこのテーマは主に哲学の領域で、20世紀以降であればとりわけ分析哲学や言語哲学と呼ばれるような領域、そしてまた数学の一分野である記号論理学と呼ばれる分野、を中心に議論が行われてきた。そして20世紀後半からは認知科学といった、より実証的性格の強い分野で、定義についての議論をされることが増えている。
法律・ルールなどにおいては、定義が定まっていないと無効となる可能性があり、定義の存在は必要条件である。
哲学用語の「定義」とは、本質を表現する命題のことである。
自然科学における定義は通常、自然言語を用いて表される。対して、社会科学における定義は、最近類と種差の総体という形式をとることが多い。
辞典によると、定義とは、ある概念の内容やある語の意味を、他と区別できるように明確に限定することです。この意味でイイと私は思います。
私の認識では、定義を定義することは国語の問題です。フィロソフィーを日本人最初のフリーメイソンと云われている西周氏が哲学と訳したわけですが、これまた、国語の漢字の問題です。このスタンスは独自の見解ですから、異説、異論があって当然です。