2008年5月15日、30週2日、1008gで生まれた寛太朗の成長記録

生後535日目、寛ちゃんは突然お空へと還っていきました。寛ちゃんと過ごした日々は、ママの心の宝物♪幸せをありがとう。

生後130日、修正月齢2ヶ月

2008年09月22日 23時02分11秒 | 生後4ヶ月~
9月22日(月)生後130日、修正月齢2ヶ月

(早産児は出産予定日からの修正月齢で成長を見ていきます。)

体重 2416g(+10g)

ミルク 1回45cc×1日8回(全注入)

今日も病棟に着くと、今日の担当MEDさんに抱っこされて、ママをお出迎えしてくれました

またまた泣いて抱っこを訴えたようです…看護師さん達には感謝、感謝です

今日はママにもニコニコしてくれました~

沐浴後にミルク、ミルク後にうんこチャンをたっぷりして、ゴキゲンだったようで、ずっと笑い続けてました

ちなみに看護師ACさんがノートに『朝もニコニコしました~』って書いて報告してくれてました

笑いかけてたときに撮れた写真がこちら
(う~ぅ~ん…ちょっとシャッターチャンスがズレちゃったから、満面の笑みではないが…)


今日は午後から看護相談というのがあって、行ってきました。

看護相談は退院に向けて、退院後に必要な物(医療用具)について、説明をしたりしてくれます。
普通はママだけで受けるのですが、寛太朗の担当看護師ABさんも一緒に付き添ってくださいました。

吸引の機械の値段の高さにビックリ…
5~7万円しちゃうんだって…
それも寛太朗の今の状態では助成は受けられず…実費負担…
パパに残業を頑張って貰わなきゃ!!

その他も色々とお金がかかります…
ミルクの注入の機械も通常なら1ヶ月1万円のリースなんだけど、それは先生がコチョコチョっとごまかして、使わない特殊ミルクを使う事にしてくれるそうで、助成の対象にしてもらえるそうです。

あとは、訪問看護も探してもらう事になりました。
寛太朗は経管チューブでの退院になるので、訪問看護を受ける事が出来るそうです。
週に1回、看護師さんが自宅に来てくださいます。
その日に週に1度のチューブ交換をしたり(看護師さんは見守ってくれるだけで、基本ママがやらなきゃいけません…なんでなんだ?って疑問です。)、寛太朗の様子を見ていただいたり出来ます。

でもでも…新生児の訪問看護を請け負ってくれる人が見つかるかが、問題のようです…。
一応、病院で市内で探してくれるそうですが、見つかるかどうか…。
(ちょっと前の退院したお友達が何人もの人に断られて、ギリギリまで見つからずでした。)
どうか、見つかりますように

今日は、(ん?今日も??)パパの帰りが遅いので、夕方からも病院に残り、面会してきました~

寛太朗が眠ったら帰ろう!って思っていたのに、そんな時に限って寛太朗のお目めはパッチリ
結局19時半まで病院に居座りました

たっくさんの時間、寛太朗と過ごせて幸せでした~

子は親の鏡

2008年09月22日 08時22分24秒 | 素敵な詩
「子は親の鏡」
ドロシー・ロー・ノルト

けなされて育つと
子どもは
人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと
子どもは
乱暴になる

不安な気持ちで育てると
子どもも
不安になる

「かわいそうな子だ」
と言って育てると
子どもは
惨めな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると
引っ込み思案な子になる

親が他人を羨んでばかりいると
子どもも
人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると
子どもは
「自分は悪い子なんだ」
と思ってしまう

励ましてあげれば
子どもは
自信を持つようになる

広い心で接すれば
キレる子にはならない

誉めてあげれば
子どもは
明るい子に育つ

愛してあげれば
子どもは
人を愛することを学ぶ

認めてあげれば
子どもは
自分が好きになる

見つめてあげれば
子どもは
頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば
子どもは
思いやりを学ぶ

親が正直であれば
子どもは
正直であることの
大切さを知る

子どもに公平であれば
子どもは
正義感のある子に育つ

やさしく思いやりをもって
育てれば
子どもは
やさしい子に育つ

守ってあげれば
子どもは
強い子に育つ

和気あいあいとした
家庭で育てば
子どもは
この世の中はいいところだと
思えるようになる

育ててくれてありがとう

2008年09月22日 08時09分42秒 | 素敵な詩
『育ててくれて、ありがとう』


  ボク、ママにぜひ
  つたえたいことがあるんだ。
  ボクをそだててくれてありがとう!
  ボクがここまでこれたのは、
  ママがいてくれたから。
  ママのこどもに
  うまれてきてよかった・・・・・・。

  ボクはほこのこよりも、
  よけいにママのてをわずらわせてきたね。
  なんとかここまで、せいちょうできたのも、
  ママとパパのおかげさ。ボクはそのことを
  いつもかんしゃしているんだよ。

  ボクはひとしれぬ
  ママのくるしみやかなしみを
  じっとみまもってきた。
  ボクはいつだって、
  ちいさなカラダのおくで、
  ママにがんばれ!がんばれ!
  ってさけんでたんだよ。

  ボクはしっている。
  いままでママがなんども、なんども
  くじけそうになり、たびたびうちひしがれてたことを。
  そして、ひとりぼっちで、
  なみだもかれはててしまうほど、ないたってこともね。
  ママがなきつかれて、ねむっていたとき、
  ボクはカラダからぬけだし、
  ママをそっとだきしめて、
  なぐさめていたってこと、しってた?

  みんなはボクのことを、
  いろいろときづかってくれるけれど、
  ボクはボク。ほかのみんなと
  すこしちがうところがある、
  ただそれだけさ。それがボクなんだ!
  ボクたちのことを、ハンディキャップをもった
  こどもって、ひとはよぶけれど、
  ハンディキャップというのは、ひとがそれぞれ
  もっている、さまざまな「じょうけん」のことなんだ。

  ボクがこのせかいにやってきたのは、
  このカラダをつかって
  どれだけのことができるか、
  じぶんのもっているちからを、
  ためしてみるためだったんだよ。
  そのためにボクは、さまざまな「じょうけん」を
  じぶんじしんにあたえたんだ。

  みんなだって、よくみると、
  ひとりひとり、ずいぶんちがうよ。
  すがたや、かおだちも。
  みんながおなじだなんて、
  そんなのおかしいし、
  ひととちがうってことのほうが
  あたりまえで、しぜんなことだよね。

  カラダは、ひとがこのよでいきていくための
  うつわのようなものなんだ。
  そして、どのようなカラダであれ、
  それをつかって、どんなじんせいをつくるか、
  どんなことができるか、だれもが
  チャレンジしているんだよ。

  ボクのなかまはたくさんいる。
  じぶんではいきができないこ、うごけないこ、
  しゃべれないこ、ゆびさきや、まぶただけしか
  うごかせないこ。
  たつことも、あるくこともできないこ。
  しんぞうがよわく、めやみみが、ふじゆうなこもいる。
  とつぜんこえをあげたり、じぶんをおさえきれず、
  あばれてしまうこもいるよ。

  でも、いろんな、こんなんをのりこえて、
  みんないっしょうけんめい、いきている。
  かぞくのみんなも、いっしょにがんばっているんだ!
 
  ボクらはくるしみにはまけないし、
  こわがったり、めげたりもしない。
  つらいことは、えいえんにつづかないし、
  ボクたちは、そのくるしみをのりこえる
  ちからをもってうまれてきたって、しっているから。
 
  「じょうけん」は、カラダのことだけじゃないよ。
  せいかくや、かんじかたや、かんがえかた、
  かぞくや、かていかんきょう、そうしたすべてが
  「じょうけん」として、それぞれの「かだい」として
  あたえられている。
  そう、ひとはみな、それぞれの
  じんせいのチャレンジャーなんだ!

  ボクがあえていまのカラダをえらんだのは、
  こんなんなじんせいにチャレンジする
  ゆうきとちからが、あったからだってことを
  りかいしてもらいたいんだ。
  それはママだって、おなじ!
  ボクをそだてるという、たいへんなじんせいに
  チャレンジしているんだよ。

  ハンディキャップって
  じつはなにかにチャレンジするための
  チャンスといってもいい。
  おおきなハンディキャップを
  かかえているひとや、そのかぞくは、
  チャレンジせいしんにあふれてる、
  すばらしいひとたちだ。

  ひとが、マラソンでながいきょりをはしったり、
  けわしく、たかいやまにのぼろうと
  してみたりするのは、なぜだろうね。
  ひとがそれぞれの「じょうけん」のなかで
  チャレンジするのも、それとおなじなんだよ。

  じつをいうと、ひとのじんせいって、
  1かいこっきりのものじゃないんだよ。
  だれもが、いままでなんども、なんども
  このよにうまれ、そして、さまざまなじんせいに
  チャレンジしてきたんだ。

  そして、そのときそのそきのじんせいを
  ともにすごすかぞくや、まわりのひとたちにも、
  それぞれのはたすべき「やくわり」が
  あたえられていて、みんなでともに
  せいちょうしようとしているんだよ。

  ボクはこのせかいでは、
  ふじゆうのようにみえるけど、
  ボクのほんとうのすがたをしったら、
  きっとママもパパもおどろくよ。
  ボクのたましいは、かんぺきさ!
  そのちからづよさと、かがやきを
  かんじてほしいな!

  ボクがこのカラダをえらんで
  このせかいにうまれたってことは、
  すごいことなんだ!
  そして、きょうまでやってこれたのは
  きせきかもしれない。
  ママとパパとみんなが
  こころをよせてくれたおかげさ。
 
  これから、ボクがどういきていくか、
  たしかにそれはたいへんかもしれないけど、
  ボクには、なかまがいるし、てだすけしてくれる
  ひとたちもたくさんいる。
  しゃかいも、すこしずつだけど、ボクたちのような
  チャレンジャーに、りかいをふかめつつある。
  そのためにも、ボクたちはがんばっているんだよ。

  いろんなひとが
  いろんなじんせいをおくっているけれど、
  どんなにくるしいじんせいだって、
  だれもがかならず、のりこえられる!
  だって、そのじんせいは、もともと
  それぞれのこころのおくふかいところで
  けいかくしたんだから。

  ボクがママのこどもにうまれたのは、
  ママにあいたかったから。
  ママのあいを、だれよりもひつようとしたから。
  そして、ボクがパパのこどもにうまれたのは、
  パパのゆうきを、だれよりもひつようとしたからなんだ。

  ママにそだててもらえて、
  ボク、ほんとうにしあわせだよ!
  ママ、パパ、ありがとう。
  ボクをたいせつにそだててくれて、
  ありがとう!

  これから、なんどうまれかわっても 
  ボクはママたちといっしょだよ。
  おたがいがんばって、それぞれの
  じんせいのチャンピオンになろうね!

    書籍名:『育ててくれて、ありがとう』
      著者名:葉 祥明
      出版社:サンマ-ク社
 

生んでくれてありがとう

2008年09月22日 08時06分44秒 | 素敵な詩
『生んでくれて、ありがとう』

 
  だいすきなママへ・・・・・・。
  ボクはこのことをどう、つたえたらいいのか、
  ずっとかんがえてきた。
  これからボクは、ママのこころに
  とてもたいせつなことをかたりかけるよ。
  ボクをうんでくれたママに、 
  ボクのこと、もっとしってほしいから・・・・・・。

  ママ、ボクがうまれたとき、
  ボクのカラダのことをしって
  おどろいたでしょう?
  ごめんね。ボクがみんな
  とすこしちがっているんで、
  しんぱいしたんだね。

  でも、ボク、ちいさいけれど、
  ほら、こんなにやわらかくて、あったかい。
  そして、いっしょうけんめいに
  いきようとしている!

  ボクのカラダは、
  けっしてまちがいや、ぐうぜんで
  こうなったんじゃないんだ
  もちろん、なにかのつぐないなんかでもない。
  ボクがほかのことちがうのには
  ふかいわけがあるんだ。
 
  なんだかボク、おかしなことをいってるみたいに
  おもうかもしれないけど、
  このカラダそのものが、ボクのすべてではなく、
  そのおくにいて、カラダをいかし、うごかしているのが、
  ほんとうのボクなんだ!
 
  ボクはしっていた。
  ママのおなかのなかで、このカラダが
  できるまえから・・・・・・。
  ボクが、どんなふうにうまれるかを。
  それだけじゃなく、これからさき、
  ボクがどんなせいかつをし、
  どんなじんせいをおくることになるのかも
  ぜんぶわかっていたんだよ。

  すべてをわかったうえで、
  ボクはママをママにえらんだ。
  なぜって、こんどのじんせいで
  ボクがチャレンジしようとしていることに
  もっともふさわしいカラダのボクをうけいれる
  おおきな、おおきなあいが、ママにはあったからだよ。
  ママもこころのどこかで、そうかんじていなかった?

  そう、これはボクにとって、
  たいせつなチャレンジなんだ!
  このせかいでハンディキャップをもって
  いきることが、どんなものであるかを
  けいけんするための・・・・・・。
  このカラダで、ボクはじぶんが
  どこまでがんばれるのかを
  ためすつもりさ。

  うまくいえないけれど、
  このカラダはボクじしんが
  のぞんだものなんだよ。だからママは、
  もうじぶんをせめたりしないでね。
  むしろボクは、ありがとうって、いいたい!
  こんなふうにうんでくれたママに、
  こころから、ありがとうって・・・・・・。

  ボクにとってたいせつなのは、
  じんせいのそのときそのときを
  いかにいきるかなんだ。
  ふつうのじんせいをおくり、
  あたりまえのせいかつをするには、
  ひといちばいのどりょくがひつようだけど・・・・・・。
  でも、これはボクにとって、
  とてもやりがいのあることなんだ。

  たしかにボクはいろんなこと、
  ほかのこたちとおなじようには
  できないかもしれない。
  でも、よおくみて!ボクはまいにち、すこしずつ、すこしずつ
  せいちょうしているよ! ママはわかるでしょ。
  あたりまえのことでも、ボクがこのカラダで
  はじめてやれたときのよろこびは、
  なにものにもかえがたいものだよね!

  ボクがせいいっぱい、いきることで、
  みんなにつたえられることがいっぱい
  あるとおもうんだ。
  いきること、あいすること、
  いのちのすばらしさ、ふしぎさ・・・・・・。
  それを、ママやパパや、きょうだいたち、
  まわりのひとたちにかんじてもらえたら、
  ボクはとてもうれしい!

  それから、みんなのたすけがひつような
  ボクのようなにんげんが、このせかいには
  たくさんいるんだということを
  おおくのひとにしってもらうことも、
  こんどのボクのじんせいの
  たいせつなもくてきのひとつなんだ。

  でも、じつをいうと、だれもがなにかの
  ハンディキャップをかかえていきている。
  あかんぼうも、わかものも、おとなも、おとしよりも、
  せいかくだって、かおつきだって、たちばだってさまざま。
  かんぜんなひとなんていないんだよ。
  そうなんだ、ひとはみんな、
  なにかしらのハンディキャップがあるからこそ、
  おたがいにきづき、まなべることが
  たくさんあるんだ!
 
  ママ、ボクをみて!
  これがボク、ありのままのボク。
  だけど、ママ、これからさきのことをかんがえて
  おそれないで!あきらめないで!
  なにがあってもだいじょうぶ。
  このよにおこることには、すべていみがあり、
  むいみなことなんか、なにもないんだ。
  おおきな、おおきな、みえないちからをしんじて、
  あんしんして、このことをうけいれればいいんだよ。

  つらいときには、そこからすこし、はなれてごらん。
  そうすると、みえなかったものがみえてくるよ。
  くるしみのなかにも、よろこびややすらぎがあり、
  うつくしさだって、すくいだってあるよ。
  しんぱいしないで。
  すべては、なるようになっていくからね。

  もちろん、ボクだって、これからさき、
  うなったり、ないたり、おこったり、
  はがゆいおもいをしたりもするかもしれない。
  でも、そんなボクを、こころのふかいところで
  じっと、みまもっているもうひとりのボクがいる。

  ママもそうだよ。なやんだり、
  かなしいおもいをしたりしているママを
  ふかいところではげましたり、なぐさめたり、
  やさしくみまもっているそんざいがいる。
  だからママは、けっしてひとりぼっちなんかじゃない。
  じぶんひとりで、くるしみをぜんぶ
  ひきうけなくてもいいんだよ。

  ボクはママをしんじている。
  はじめはたいへんだし、つらいだろうけど、
  そのうち、ママはボクのためにもつよく、
  たくましくなっていき、
  もう、どんなことにも、なきごとをいわなくなる。
  むしろ、ボクのようなこどもをもったことで、
  ほんとうのあいや、いのちのすばらしさをしり、
  おもいやりぶかいひとになるだろうって。

  ボクにとっても、ママにとっても、
  まわりのみんなにとっても、
  このいっけん、ふこうにみえることも
  じつは、そうぞうもつかないほどの、すばらしく、
  かんどうてきなドラマだって、いずれは
  おもうはずなんだ!
  
  ボクのねがいは、
  ママがだれにもひけめをかんじることなく、
  むしろほこりをもって、いきてほしいってこと。
  きそいあったり、くらべたりするせかいとはちがう、
  おだやかで、おもいやりにみちた、やさしいせかい。
  それが、ボクのいきているせかいなんだ。
  ママも、みんなも、すこしずつ、
  そのことがわかってくるはずさ!

  たいせつなのは、ボクもママも
  いま、いきているってこと。
  すぎたことをくよくよかんがえたり
  さきのしんぱいなんか、しなくてもいいんだよ。
  ボクといっしょに、このいちにち、いちにち、
  いっしゅん、いっしゅんを
  ひたむきにいきようよ!

  ママ、ほんとに、ボクをうんでくれて、ありがとう!
  パパ、ボクをうけいれてくれて、ありがとう!
  みんなで、とくべつの、とびきりのじんせいを
  あゆんでいこうね!

    書籍名:『生んでくれて、ありがとう』
      著者名:葉 祥明
      出版社:サンマ-ク社



天国の特別な子ども

2008年09月22日 08時02分35秒 | 素敵な詩
天国の特別なこども

                         
会議が開かれました。

地球からはるか遠くで

“また次の赤ちゃん誕生の時間ですよ”

天においでになる神様に向かって 天使たちは言いました。

“この子は特別な赤ちゃんで たくさんの愛情が必要でしょう。

この子の成長は とてもゆっくりに見えるかもしれません。

もしかして 一人前になれないかもしれません。

だから この子は下界で出会う人々に

とくに気をつけてもらわなければならないのです。

もしかして この子の思うことは

なかなか分かってもらえないかもしれません。

何をやっても うまくいかないかもしれません。

ですから私たちは この子がどこに生まれるか

注意深く選ばなければならないのです。

この子の生涯が しあわせなものとなるように

どうぞ神様 この子のためにすばらしい両親をさがしてあげてください。

神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親を。

その二人は すぐには気がつかないかもしれません。

彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割を。

けれども 天から授けられたこの子によって

ますます強い信仰心と豊かな愛をいだくようになることでしょう。

やがて二人は 自分たちに与えられた特別の

神の思召しをさとるようになるでしょう。

神からおくられたこの子を育てることによって。

柔和でおだやかなこのとうとい授かりものこそ

天から授かった特別な子どもなのです。”

 
Edna Massimilla 作

大江 祐子 訳