月乃和熊(ツキノワグマ)のささやき

歴史好きオヤジが細々と大震災、水害、雪害の復興花火や図書館の蔵書の支援を続けていまふ。

【赤穂事件(3)】刃傷事件の現場 松の廊下はどこだ?

2011-12-21 22:25:48 | 赤穂事件
【刃傷事件の松の廊下は皇居東御苑にあります】
松之大廊下は大広間と白書院を結ぶ畳敷きの廊下で、高さは約3mあり、長い直線の廊下と思いきや、長方形の中庭の周りに沿って歩くように作られており、総延長が50m以上あります。
大広間から見て最初の角までがの1辺の廊下の長さは約21m、幅約4mあり、その角から白書院までの1辺の長さは約31m、幅約5mもある長大な廊下です。

松之大廊下と呼ばれる由来は、廊下に沿って千鳥と松の襖絵が描かれていたことから名づけられたようです。

 (大手門)

松之大廊下の石碑は皇居東御苑の大手門から本丸(跡)大芝生を目指し、百人番所や、中之門跡、中雀門跡の大きな石垣などを眺めながら、てくてく歩いて10分ほどのところにあります。
よく整備された林の中に石碑を見つけた時は、「ああ、これが赤穂事件の現場か・・・」と、、、昔日の松之大廊下の壮麗さを偲ぶものは、なにもありませんけどね

 (百人番所)

本丸跡から大奥跡は、芝生で整備されているので視界を遮る建物は無く、はるか天守台まで見渡せる広場になっております。
広大な旧江戸城、往時は大奥だけでも3000人もの女性が生活し、家康(初代)、秀忠(2代)・江、春日の局、家光(3代)、綱吉(5代)、ちょっと飛んで吉宗(8代)、飛んで飛んで飛んで、まわってまわって慶喜(15代)まで、260年余りもの栄華の跡を眺めますと、「つわものどもが ゆめのあと」なのでありますな

 (天守台跡)

どうでもいい話ですが、途中の休憩所でもらった皇居東御苑のパンフレットに、
「このパンフレットは、宝くじの社会貢献広報事業として作成されたものです。」
との文言を発見し、嗚呼、自分は、毎年、毎年、毎度、毎度、買っても、買っても、
全く当選したことのない宝くじの収益金は、こんなところにも貢献していたのであります

<松之大廊下までの行き方>
地下鉄大手町のC13の出入口から出て、大手門の交差点を渡り大手門より東御苑に入ります。
入場は無料ですが、休日は基本的に月曜日と金曜日なので注意が必要です。


◇平将門首塚
ちなみに大手門のほど近く、地下鉄大手町のC5の出入口の横に平将門の首塚があります。
平将門の首塚に、もともと神田神社(明神)がありましたが、江戸城を築城するにあたり鬼門の抑えとして、現在のお茶の水駅の近くに移設されましたのよん。
 (将門の首塚)

【赤穂事件(4)】なぜ内匠頭は上野介を仕留められなかったのか? 2011-12-27 につづく~
前の記事 【赤穂事件(2)】なぜに内匠頭は刃傷におよんだのか?! 2011-12-18

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【赤穂事件(2)】なぜに内匠頭は刃傷におよんだのか?!

2011-12-18 02:32:09 | 赤穂事件
写真 浅野内匠頭の墓(泉岳寺)

毎年12月になると、必ずTVや映画で取り上げられる「忠臣蔵」は、「蔵一杯の忠臣」とか「内蔵助を中心とする忠義」などの諸説があるそうです。

史実では、浅野内匠頭の松の廊下刃傷事件と赤穂浪士による吉良邸討入りを合わせて「元禄赤穂事件」というそうな。知っているようで詳しくはない忠臣蔵を、ちょぴっと解説します。

<松の廊下刃傷事件とは>
元禄14年(1701)3月14日、幕府より勅使饗応役を命ぜられた播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が、儀式・典礼の職である高家筆頭の吉良上野介義央への遺恨から、よりにもよって江戸城内白書院において第5代将軍 綱吉と勅使・院使が対面する重要な儀式の直前、午前11時ごろに発生した。

重要なイベントの直前の慌ただしい中、白書院で老中などとの打合せを終えて大広間に向かう上野介と、大広間から白書院に向かう内匠頭が松之大廊下(通称 松の廊下)で出くわし、なにやら二言三言立ち話を交わした。
話が終わり、上野介は大広間方面へ歩き始める。
すると今度は、上野介を探していた梶川与惣兵衛に声をかけられ立ち止まった。
そのとき!上野介の背後から小サ刀を抜いた内匠頭が、「この間の遺恨覚えたるか!」と、いきなり肩先に斬りつけた。
悲鳴を上げて振り返った上野介の額をめがけ、内匠頭は続けざまに小サ刀を振り下ろし上野介の眉間を割った。

さらに内匠頭は、その場に腰を落とした上野介に切りつけようと執拗に迫るが、梶川与惣兵衛が有名な台詞「殿中でござる!殿中でござる!」と叫びながら内匠頭に飛びかかり羽交い絞めにすると、茶坊主やら高家の人々やら接待役やら、近くにいた大勢の人々に取り押さえられ、小サ刀は取り上げられた。

尊王の心が厚く、幕府の年中行事で最も格式が高いとされる重要な儀式を穢したことに激怒した綱吉は、即日切腹とお家取り潰しを命じた。
一方、上野介は刀傷を負ったものの致命傷には至らず、また抜刀せず神妙であったということでお構いなしであった。
側用人柳沢吉保に命じ、内匠頭の刃傷事件の取り調べさせたとも言われるが、詳細は不明。

同日午後4時ころ、内匠頭は芝愛宕の陸奥一関藩主 田村建顕の屋敷に身柄を移される。
午後6時ころ、田村邸に到着した幕府検使役 庄田安利、多門重共、大久保忠鎮により内匠頭に切腹と改易を申し渡たされ、直ちに刑が執行された。
内匠頭は庭先に用意された刑場に引き出され、検使役の立会いの下、磯田武大夫の介錯で切腹。浅野内匠頭長矩 35歳の生涯でありました。

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勅使饗応役(勅使御馳走人)は、勅使・院使が伝奏屋敷に到着した日から、接待が始まるので気が休まることがない。
1日目:3月11日
勅使・院使一行が到着し、江戸城内伝奏屋敷にて老中、高家などと拝謁。
同時に勅使御馳走人も紹介され接待を受ける。

2日目:3月12日
勅使・院使が江戸城に登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍綱吉に下賜する儀式が執り行われる。

3日目:3月13日
勅使・院使を将軍主催の能の催しに招く。

4日目:3月14日(元禄14年 1701年)
白書院において将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる。

幕府の年中行事の中でも最も格式高いと位置づけられている儀式の直前に、内匠頭は刃傷事件を起こしてしまった。
幕府側は勅使・院使に平謝りに謝り、勅答の儀は黒書院に場所を替えて滞りなく終了した。
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<なんで?どうして?内匠頭は上野介に斬りかかったのか?>
殿中で刀を抜けば、切腹、城・領地没収(改易)が当たり前だった時代。
改易ともなれば、家臣及びその一族郎党は路頭に迷うことになることが、内匠頭にも分かっていたはずなのに、それにも関わらず内匠頭はなぜ刃傷におよんだのか。

1.賄賂不足説
指南役の上野介は、賄賂(まいない)の少なかった内匠頭に執拗に辛くあたり、上野介からの心ない一言で内匠頭の怒りが爆発し刃傷沙汰に至ったとされる説。

多くの物語、テレビ、映画などは上野介を高額な賄賂を要求する悪役に仕立て上げるていますが、当時、吉良流礼法は最も権威ある流儀とされ、尾張徳川家、安芸広島の浅野宗家など数多くの大名家が自家の礼法として吉良流を取り入れていました。
大名と比べ収入の少ない旗本の吉良上野介(4200石)は、高家として幕府の命により上洛し、朝廷との交渉事にあたること生涯に24度にもおよび、その費用は全て自腹でした。
そこで、吉良は大きな収入源の一つとして、饗応役・御馳走人に作法、作業手順、礼法を教授する際の授業料として高額な賄賂(まいない)を求めたといわれますが、賄賂(まいない)を贈るのは当時の一般的な慣習でもありました。

2.製塩法秘密保持説
上野介は、三河国幡豆郡吉良庄、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に領地があり、三河の吉良庄では塩田を持っていたので、赤穂藩(5万石)の主要産業の一つである赤穂塩の製法を内匠頭に尋ねるが、現在でいう企業秘密として教えてもらえなかった。
そこで、上野介は饗応指南役のときに内匠頭に辛くあたったために遺恨となったとされる説。
しかし、吉良庄付近にある塩田は、旗本大内家の所領であったことが判明しています。

3.吉良邸炎上恨み説
元禄3年12月内匠頭は幕府より火消し大名に任命され、しばしば活躍したことが知られています。
上野介の屋敷は代々鍛冶橋(現JR有楽町付近)にあったが、元禄11年9月6日数寄屋橋付近より出火した火事は、大火となり大名屋敷を含む2万戸を焼いたといわれ、上野介の屋敷も焼失してしまいました。
実はこのとき、大名火消の指揮を執っていたのは内匠頭であったが、吉良邸を守れなかったことで吉良の恨みを買い、内匠頭に執拗に辛くあたるようになったという説。
当時の火消しは消火というよりも、火事の拡大を防ぐために片っ端から屋敷、家々を引き倒して防火に努めるというもので、内匠頭がいくら頑張っても風向きなどによって、吉良邸は焼けてしまっただろう。。。と思います。

4.饗応役費用出し渋り説
勅使饗応役は外様大名が任命され、饗応にかかる費用は任命された大名家が負担しなければなりません。
通常1200両(約1億2千万円)かかる勅使饗応役の費用を、内匠頭は700両(約7000万円)しか出さなかったので、上野介と内匠頭は不仲になったという説。
赤穂浪士の俳句の師匠が、複数の浪士から聞いているので、原因の一つとして信憑性が高いのかもしれません。

内匠頭が15歳の年、天和2年(1682)3月に幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、同年8月通信使らを伊豆三島にて饗応した経験と、翌年の天和3年2月6日(1683)年3月には、霊元天皇の勅使の饗応をした経験があり、大よその費用を理解しているつもりでいたが、あれから19年が経過した元禄期の物価高騰まで、計算に入れることができなかったかもしれません。
ちなみに、天和3年の勅使饗応役での礼法指南役は、吉良上野介でした。

5.上野介(礼法指南役)不要説
前述のとおり、19年前と言えども内匠頭は饗応役を経験済みでした。
元禄14年(1701)2月4日に2度目の勅使饗応役に任じられたとき、礼法指南役の上野介は高家のお役目で上京しており、江戸に戻ったのは25日後の2月29日でした。
その間内匠頭は、特に高家の指南を必要としないまま、一人で饗応の準備をしていたようです。
そのため、賄賂(まいない)の額やお互いの意識に不和が生まれたという説

6.内匠頭の持病・性格・血筋説
内匠頭には時々胸がつかえたように苦しくなるという「つかえ」という持病があり、他にも時々偏頭痛にも悩ませられていたようです。
現代人でも過度のストレスを感じると、喉に何か詰まるような不快な感覚を覚え、うまく話ができなかったり、食事が喉を通りにくくなるなどといった症状を訴える人が多いそうです。

性格は「短気で癇癪持ち」わずか9歳で相次いで両親を亡くし家督を継いだので、家臣からは蝶よ花よと大切に育てられたことは想像に難くありません。
また、15歳で軍学者 山鹿素行に弟子入りし、無骨で真面目に励む一方、「頭を下げることを知らず、いたわりの心がない。」などともいわれていたようです。

血筋では母方の叔父内藤忠勝が、驚くべきことに延宝8年(1680)6月26日 増上寺において、第四代将軍 徳川家綱葬儀中に刃傷事件を起こし切腹・改易されています。

いずれにしても、上野介からの厳い指導と勅使饗応役の重圧が複合して強烈なストレスとなり感情が暴発。発作的に刃傷におよんだのでは?とする説。

7.内匠頭の逆切れ説
元禄14年(1701)ごろ、高家は吉良を含め9人いたが高家肝煎は吉良、畠山、大友の3人のみ。
また、上野介は一番高い位の従四位上左少将であり、上野介はその中でも最古参であったために高家筆頭と呼ばれた。
イジメに関しては明確な資料もなく、後世の作り話が多いと思われますが、指南役としては厳しかったのは事実ようだ。

天皇の勅使饗応において礼法の指南にあたるということは、幕府の威信、面目に関わる。
また、饗応役の不手際は指南役の不手際でもあるので、必然的に内匠頭への指導も厳しくなるのは当然であり、上野介に落ち度はない。
しかし、厳しい指南役からの重圧やストレスに耐えられなくなり、発作的に上野介に切りかかったとする内匠頭の逆切れ説。

☆さて、あなたはなにが原因と思いますか?

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【速報】12月15日未明 赤穂浪士奇襲に成功せり

2011-12-15 17:36:37 | 赤穂事件
写真 泉岳寺の山門

赤穂浪士奇襲に成功せり
時は元禄15年(1702)12月14日(15日未明)、大石内蔵助を頭とする赤穂浪士は、
本所松坂町の吉良邸に討ち入り、元高家筆頭 吉良上野介義央の首級を揚げ見事本懐を遂げた。

元禄14年3月14日に発生した江戸城内 松之大廊下における主君 浅野内匠頭長矩の刃傷事件(内匠頭は即日切腹・改易)以来1年9ヶ月の永きに亘り、忍びがたき忍び、耐えがたきを耐えてきた赤穂浪士は、12月14日に吉良邸で開催された茶会により、吉良上野介本人の在宅が確実であることを認め、同日夜半、密かに吉良邸から僅か1km余り離れた林町の杉野十平次の道場に集合した。
改易時に浅野家家臣は約300名ほどいたが、志を同じくしたのは僅かに47名を数えるのみ。
各々鎖帷子を火事装束の下に着込み、額に鉢金、頭巾などをかぶり、各自が個々に用意した大小の刀、槍などで武装を整えた。

12月15日未明(午前4時ころ)、赤穂浪士47名は、表門組23名と裏門組24名の二手に分かれ吉良邸へ強硬突入し、戦闘におよぶこと約1時間で邸内を制圧。
吉良上野介は台所の炭小屋に潜んでいたが、突入から約2時間後に発見され、同時に槍で突かれて殺害された。
上野介の本人性確認は門番に首実検をさせたという。

吉良方は、不覚にも不寝番などを立てておらず全く警戒を怠っていたものと思われる。
屋敷には常に約80~100名程度の家臣がいたにも関わらず、抵抗を見せたのは40名程度に留まり、吉良方の損害は死者16名、負傷者22名ののぼった。
対する赤穂浪士方の損害は、死者0人、負傷2名を数えるのみで、まさに圧勝であった。
吉良方の半数以上の家臣は、赤穂浪士が突入と同時に長屋の雨戸などの出入り口に釘を打ちつけたため、閉じ込められていたという。
なお、吉良家当主の義周(よしちか)は、長刀を奮って抵抗するも重傷を負い失神。また、吉良方の奥方及び女中など女性全員は屋敷修繕のため、白銀の上杉家に外泊しており偶然難を避けることができた。

同日午前6時30分ごろ、首尾よく上野介の首を揚げた赤穂浪士47名の面々は、当初吉良邸に隣接する回向院に入ろうとしたが、関わりを恐れた寺が堅く門を閉ざしたため、永代橋を渡り鉄砲洲の旧赤穂藩上屋敷前を通り、浅野家の菩提寺であり内匠頭が眠る品川高輪の泉岳寺を目指し凱旋。

途中、汐留橋付近で大石内蔵助は、大目付仙石伯耆守へ討入次第の報告に吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名を派遣。
両名より、討入次第の報告を受けた仙石伯耆守は、ただちに老中、若年寄にも報告するとともに上杉家へ赤穂浪士の追討禁止を命じた。
また、桜田門の上杉家上屋敷では、午前5時ごろ吉良邸に隣接する豆腐屋の何某より赤穂浪士襲撃を知らされ、ただちに合戦準備に取り掛かかったが、幕府から赤穂浪士への追討禁止の命を受け追撃を断念した。

赤穂浪士の一団は泉岳寺に到着後、亡き主君 浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を捧げると、一人一人焼香を上げ討入成功を報告した。
また大石内蔵助は、関係者へ討入り成功報告の使者として寺坂吉右衛門を派遣し、46名となった一団は幕府からの沙汰があるものと、寺よりふるまわれた粥などを啜り潔く待機している。


【赤穂事件(2)】なぜに内匠頭は刃傷におよんだのか?! 2011-12-18

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(リポート 月乃和熊)