高倉健が逝った。
その日は葬儀であった。
なぜか私が行くと云いだした。
葬祭会館である。
お布施は格安であった。
九十弱のおばあちゃんの遺影がその祭壇に飾られてあった。
いざ、お経を読み始めると、その遺影が何故か健さんに見えてきた。気がつくと、高倉健のことを色々想いながら、お経を読んでいた。
全共闘世代の「唐獅子牡丹」の伝説、「幸せの黄色いハンカチ」も面白かった。が、高倉健もこの映画で自分の想いから遠くなったこと等
ふと、お経に戻ると二の句がでてこない。慌てて、でてきた文言はお経のだいぶ前の文言である。仕様がないから、重複はするがその文言からまた読み続けた。格安のお布施なのに長い丁寧なお経になってしまった。
絶対に高倉健ファンではある。
映画俳優として、初期の高倉健はあまり語られることは少ない。つまり,初期の作品についての語りである。「人生劇場」のシリーズものの前の作品である。
むろんこの「人生劇場」は鶴田浩二が主演で、高倉健は脇役ではあるのだが。この映画は幾多の東映任侠路線製作のキッカケにもなった映画である。
それ以前の作品である。その頃の東映は、京都撮影所で製作される時代劇と東京の撮影所で製作される現代劇の二つの流れがあった。高倉健は現代劇の出身である。
高倉健を最初に知ったのは、1960年封切りの「大いなる旅路」である。この映画の主演は三国連太郎の国鉄もので、健さんはその息子の役で出演をしていた。なぜこんな映画を知っているかと云えば、舞台が盛岡であったからで、確か家族で映画館に行ったような記憶がある。小学校の5~6年の頃である。
つぎに記憶に残っているのは、1958年製作の「森と湖のまつり」である。この映画は武田泰淳の原作で監督は内田吐夢である。確かこの映画を見たのは、封切り後である。この映画の記憶は定かではないのが、自分の幻想か?はたまた想い違いか?映画館で見た記憶ではなく、アウトドアで見た記憶が残っているのである。町内の野外映画上映会である。その場所は人家と田んぼの境にある広場である。町内の公園と云えば公園であったのか?田植えも終わり、周りからカエルの鳴き声が聞こえていた。確か初夏の夏の夜であった。35ミリか16ミリかははきりと覚えているはずもないのだが、小学校の子供には夜空の星をバックに、黒いトックリセーターを着た高倉健の姿が大きく見えた。これらは自分の映画に対する夢幻(ゆめまぼろし)の延長なのであるとも想うのだが?
次に記憶に残っているのは「暴力街」である。この映画はハッキリ覚えている。面白かった。これは1963年製作・公開された東映映画である。調べると同名の映画は3本あるのだが。この映画は後の「任侠映画」シリーズの健さん、その「任侠映画」の後の「仁義なき戦い」シリーズの菅原文太の原点にもなる映画であるとも想う。見た後映画館を出て、改めてポスターや映画館の前に張ってある、その映画の写真を隈無く見入ってしまったことは覚えている。
いずれ、健さんの初期の頃を辿れば色々な作品を想いだす。「宮本武蔵・巌流島の決闘」「神戸国際ギャング」「飢餓海峡」「狼と豚と人間」「ジャコ万と鉄」等々沢山ある。
やはり、任侠映画も含めそれ以前の健さんが好きであった。
ただ東映のプログラムピクチャー以降の作品でも例外的に好きな作品もある。その映画は松田優作の遺作でもある「ブラックレイン」監督はリドリー・スコットである。
この映画での、松田優作の幽気迫る演技は凄かった。マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、若山富三郎、ガッツ石松、それこそ高倉健を凌いで印象に残っている。
健さんも無骨な警部補の役柄でハマっていた。マイケル・ダグラスと高倉健のラストでの殴り込みなど、任侠映画を彷彿するシチュエーションでもあった。
この「ブラックレイン」で好きなシーンがある。それはあるクラブで、客にまみれて張り込み中の,アンディ・ガルシアと高倉健の二人が、レイ・チャールズの歌を歌うシーンである。無骨な警部補が誘われてサングラスをかけ、歌いだすのであるが、健さんの若い頃のやんちゃな役を彷彿とされ、中々にノボノボとして良い一コマである。この後のシーンでアンディ・ガルシア扮する刑事が、松田優作扮するヤクザに殺されるのである。その前振りとしても中々良いシーンであった。