末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

極私的映画論・番外編

2015-03-18 14:27:07 | 日々の出来事

極私的映画論ー観る立場よりー
「メルヘンの闇」
本堂は映画である。

 今月初めの5日、午前中に知り合いから電話、「教え子が死んだ!」「相談がある」とのこと。とりあえずその日の午後に合う約束をする。
彼は児童養護施設、情緒障害児施設などを経営している、社会福祉法人の理事長?で、長い間その様な福祉関係の仕事に携わってきた人物である。

 訪ねてきた彼は早速「5歳の頃から~18歳までその施設で面倒を見てきた男の子で、やっと仕事も決まり、4年間今の職場で仕事をしていた」「今日の朝、死んだ。22歳で…」……とのことであった。「なんとか葬儀をしてやりたい」とうつむいたまま語った。
それから、また死者になっ た彼の身の上話を始めた。「兄弟が6人とか…」「その兄弟も父母がそれぞれ違う…?」とか、「複雑な家庭事情…」「家庭内暴力…」とか、ある意味闇を抱えての人生、そんな闇からの解放を願い,やっと自立の方向に向かう矢先の教え子の死である。先生にとっては忸怩たる想いや、やり切れなさや、複雑な想いが交錯している様子であった。
                      
 
 さらに、その先生と死者とその母親は、2009年に上映されたドキュメンタリー映画「葦牙」に出演しているのである。この「葦牙」というrドキュメント映画は、その道では有名な監督小池柾人が、その社会福祉法人の全面協力の基製作した映画であった。その映画のパンフレットには、「児童虐待の当事者となった人達!今、こどもたちが自ら未来を語りはじめた」と、あるように子どもたちの強い生命力が明るく描かれている。また同パンフレットには、やはりその道では有名な映画評論家で映画大学・現学長の佐藤忠男氏が「虐待を受けて保護されている子どもたちというと、心にトラウマを抱えていじけてしまっているのではないか,と思ってしまうのだが、この映画にみる子どもたちは皆、普通の子どもたちである。むしろこの子たちは、よほど苦労を知り,大人びているとさえ思われる。
たとえばひとりの男の子はスケート部の練習に打ち込む,何か自分を鍛えるということに自覚的であるという様子がうかがえる。彼はいう『暴力の連鎖を自分の世代で止めて幸せな家庭を築きたいと』…………」と述べている。
 そのスケート部の練習に打ち込んでいる男の子が死者になった。


「どうしても葬儀をやりたい!」「お金はない」確かに、母親は居る。その母親も何番目かの男が居るみたいであるが,連絡が取れない。小学生の女の子は同居しているが,後の子どもたちは皆上記の施設にいる、とのこと。挙げ句その母親は、生活保護受給者である。ちなみに、生活保護受給者の身内の葬儀の費用は火葬までで、それ以上は受給できない。5~6万か……?
「火葬だけでは寂し!」「どうにか葬儀をしたい」とのこと、結局、お金はいいから葬儀はやろう、ということになった。
「おれ、明日までに弔辞を考えてくる」知り合いのその先生と死者との関係が垣間見えた。

映画の中で、死者の県内でも有数の高校スピード・スケート部での練習ぶりや、県高校選手権の様子(確か良い成績であった)や、そして母親の応援など、それまでの彼の人生の悪戦苦闘を感じさせない、何か達成感のある表情の、それぞれのカットが、お経の途中で次々に思い浮かび、祭壇に飾ってある遺影が生者のような感じで、「ひょっとしてこれ葬儀?」妙な感覚の葬式であった。


家庭内暴力、母、もしくは父が変わる度ごとの、それぞれからの虐待。母も暮らしの為に男を変える……。そんな中での生活、文字通りいのちのやり取りの場所、修羅場の生活?
明と闇の分かれ道、闇と明の境、人間誰でもが抱えている問題。運命だけで被けられない事柄。死者になることを選んだ彼に、残された生者は、言葉も届かず,何も出来なかった忸怩たる想いを抱え、生きざるを得ないのか?いずれ闇だけは残る…………。

意外に多かった会葬者の香典をその場で開け「これお礼です」と差し出す、数々の修羅場を知っている知り合いの、ホッとしたような,しないような,複雑な表情が印象に残る。

現実的には死者になった若い彼、映画の中では永遠の生者である。
いずれ闇だけは残る。